第一章 ヒールとスニーカー


   少女には目の前のものが、なんだかわからなかった。ただ、ヤバいことだけはわかった。
 さっきまで足元で唸っていた飼い犬は、ソレがこちらに近づいてきた瞬間、少女を振り払って逃げた。本能が、勝ったかのような速度で。
 飼われているとはいえ、犬の方が生き物としての本能が、生きようとする力が強いのだろう。
 変に冷静な頭のどこかで、そんなことを思う。
 だって、逃げなきゃいけないってわかってるのに、ちゃんと理解しているのに、私の体は動かない。
 飼い犬の散歩コースの、いつもの裏山。夕方が近いとはいえ、慣れた道で怖い目に遭ったことなど、今までなかった。クマだって、でないし。
 それじゃあ、これは一体何? 目の前の、コレは。
 二メートルはありそうな、大きな黒い何か。知っている生き物じゃない。
 こちらにゆっくり近づいてくる。こんなにゆっくりだから、逃げられそうなものなのに、どうして、足が動かない。
 横幅もあるソレは、ずるずると体を引きずるようにしてやってくる。ソレに触れた木が、一つ倒れた。
 悲鳴も出ない。
 ソレの上の方から、長くて太い、何かが伸びていた。何本か。タコの足のような。
 その触手のようなものが、こちらに向かって振り下ろされる。
 わからないけど、あれに触れたらダメな気がする。
 夢なら覚めればいい。そんな風にきつく目を閉じて、
「くっそ」
 舌打ちと共に、誰かが駆け寄ってきた。
 そのまま、その誰かは少女を抱えて横に跳躍する。
 ばしんっと、何かが地面に叩きつけられるような音がした。
「え……?」
 少女が目を開けると、見知らぬ青年が彼女を庇うように抱え、しゃがみこんでいた。視線をずらすと、地面がえぐられている。縦長に。あの触手が、叩きつけられたように。
「あ……」
 油断なく化け物を睨む青年に、助けられたのだと気付いた。思わずぎゅっと、青年の服を掴む。
 冷静に考えれば、何も事態は解決していないけれども。この青年も十分、不審者だけれども。でも、人の形をしているというだけで、安心する。
 青年は一瞬、驚いたように少女の方を見て、それから少しだけ、息が漏れるようにして笑った。くしゃり、と少女の頭を安心させるかのように一度撫でる。
 そうこうしている間に、化け物が再び触手を振り上げ、青年が身構え、
「動かないで!」
 切りつけるような鋭い女性の声が飛んできて、青年は一瞬、ひどく面倒くさそうに顔を歪めた。そして、そのまま少女の頭を守るかのように抱え込む。
 カッカッカッと軽快な足音が聞こえ、
「背中、失礼」
 先ほどの女性の声がそう言うと、たんっとヒールの音も高らかに、青年の背中を踏み台にして、宙に飛んだ。黒い靴の、底の赤色が、少女の目に焼きつく。
「いって」
 青年がぼやく。あまり、緊迫感のない声色で。
「ヒールはやめろって言ってんだろうが」
 どこか場違いなクレームが青年から漏れ、宙を飛んだ女性はそれに答えず、手に持った刀を大きく振り下ろした。そのまま、上の部分から、化け物が二つに引き裂かれる。
 すぱっと、綺麗に真っ二つに切り裂かれた化け物は、そのまま砂のようになって消えた。
 すたっと体勢を崩すことなく着地した女性は、刀を鞘にしまう。よく見たら、その刀はやたらと古めかしいものだったし、鞘にもお札のようなものがたくさん貼ってあった。
 化け物が消えたことには安心したが、この男女は怪しいし、事態が飲み込めず少女は動けないでいた。
 青年が少女から手を離し、立ち上がる。
「これも雑魚ってとこか」
 声をかけると、女性が振り返った。びっくりするぐらい綺麗な人だった。
「そうね、残念ながら」
 まったく残念ではなさそうな、淡々とした声で、女性が言う。
 十センチ以上はありそうな高いヒールを履いていることを差し引いても、女性の方が圧倒的に背が高い。女性を見上げるようにしながら、青年が言葉を続ける。
「今日は、終わり?」
「ええ」
「じゃあ、車戻ってる。あとは任せた」
 気だるげに青年が言うと、
「了解」
 女性は苦笑しながら、車のキーを青年に向かって投げた。青年は片手でそれを器用に受け取ると、少女には目もくれず、さっさと山を降りて行こうとする。
「あ、あの!」
 ようやく物事が少し考えられるようになった頭で、慌てて声をかけた。詳しいことはよくわからないけれども、一つだけわかっていることがある。
 青年が足を止め、振り返ったのを確認すると、
「ありがとう、ございました」
 かすれた声だけれども、なんとかその言葉を引っ張り出した。
 何がなんだかわからないけれど、彼に助けられたことだけは、わかっている。
 青年はお礼の言葉にも顔色一つ変えず、
「仕事だから。礼ならそっちに言って」
 女性を指差し、またスタスタと歩き去っていった。
 一体なんなのか。
「一体なんなのか、って思ってる?」
 心を読まれたかのようなタイミングで言われて、びくっとした。
 女性がすぐ近くまで来ていた。少女と目を合わせるために、しゃがみ込む。
「一応、自己紹介しておきましょうか。私の名前は、一海円」
 円と名乗った女性は、少女の反応なんて気にせず、がんがん話を進めていく。
「お祓い家業を生業としている一族の生まれで、今みたいに化け物退治を最近はしているの。さっきの男の人は、神山隆二。まあ、私の護衛ね」
「護衛……?」
 そういう割には、隆二は武器となるようなものは持っていなかった。円は古びた日本刀を持っているが。
「何にせよ、あなたに怪我がなくってよかった」
 そうして、円は綺麗に微笑んだ。女でも思わず、ドキッとしてしまうような、笑み。
「多分、何があったのかわからないと思うの。でも、知らない方がいいことって世の中たくさんあるから」
 だからね、と円は少女の額に手を伸ばした。
「忘れなさい」
 動いたからか、少し熱い指先が額に触れる。
 そのまま円が何か呪文のようなものを小声で唱え、それに伴い少女の視界はくらくらと揺れ、気づけば意識は途絶えていた。

「姉ちゃん!」
 呼びかけられ、揺すぶられ、少女はゆっくりと目を開けた。
「起きた!」
 目の前には、二つ年下の弟がいた。
「大丈夫、姉ちゃん?」
 いつもは生意気なくせに、珍しく心配そうな顔をしている。それもそのはずだ。なぜか、自分は地面に倒れていた。
 ここは、いつもの裏山?
 ゆっくりと体を起き上がらせ、汚れたセーラー服を無意識に整えながら、視線を彷徨わせる。
「タローがさ、一人で走って家に戻ってきたから、何かと思って。俺ひっぱっていくからついてきたら、姉ちゃんが倒れてたんだ。具合悪いの?」
 弟の言葉に、首を傾げる。
 飼い犬のタローを連れて、散歩に来たことまでは覚えてるのに。
「よく、わかんない」
 タローが頭をすり寄せ、心配そうにこちらを見てくる。
「大丈夫? とりあえず、家に戻ろう。歩ける?」
 本当に心配させてしまったのだろう。弟が珍しく優しい。差し出された手をつかみ、立ち上がると、弟に先導されてゆっくりと山を降りていく。
 いつもの裏山。だけど、今日は何かが違った気がする。思い出せないけど。
 でも、思い出せない方が、いい気もする。
「うぅぅぅ、わん!」
 タローが一度振り返り、何もいない土塊に向かって吠えた。