しかし結局、部長と平部員という力関係の差に押し切られて、透史は菊と一緒に下校するミスの尾行を実施していた。力関係と、あとは菊を一人にして暴走されるよりは幾分ましかな、という消極的な理由で。 「っていうか、葉月さんは?」 電柱のかげに隠れるという、全力で怪しい体勢をとりながら、もう一人の平部員の名前をあげると、 「今日は用があるから駄目なんだって」 つまんないのーと菊が唇を尖らせながら言う。 「あ、あのお菊さん、俺も……」 「は?」 もの凄く冷たい目を向けられた。放課後でちょっとよれてきた化粧がまた怖い。 「なんでもないです」 へたれは小さな声でそう言うしかなかった。 「ほら、飴あげるから黙って尾行しなさい」 イチゴミルクを渡される。あんたは、大阪のおばちゃんか。そう思いながらも、素直に口に放り込む。甘い。 ミスはまっすぐずんずんと、やや早足で進んで行く。 学校のまわりの、住宅街。このままいくと、 「駅の方、ですね」 「そうねー、電車通学かしら?」 綺麗な長い黒髪が、ミスの歩みに合わせて左右に揺れる。夕暮れ時の光を浴びて、綺麗に天使の輪ができている。 「……シャンプー、なに使っているのかしら」 菊が小さい声で呟いた。 「同じの使っても元が違うから無理ですよ」 「ちょっとどういう意味」 「そういう意味です」 「そういう意味って透史!」 「あ、ほら、余所見してると見失っちゃいますよ」 今にも掴みかからんとする菊から、そう言うことで逃げる。丁度ミスが角を曲がろうとしているところだった。 「あ、やばい!」 菊が小走りで、電柱の影から抜け出し、曲がり角に向かって走る。っていうか、尾行している自覚ないだろ、あんた。 ゆっくりと透史はそれを追う。 菊は、角の家の塀に体を隠し、首だけをのぞかせてミスの姿を見つめている。 あ、客観的に見るとこれすっげー怪しい。 それをちょっと後ろで見守りながら思う。 学校の周りだから当然、他にも下校中の生徒がいるわけで。みんなちらほら怪訝な視線を向けている。もっとも、その怪しい人物の正体が、文芸部の部長だということに気づくと、納得したような顔をしていたけれど。さすが菊、変人としてその名を欲しいままにしている。 それにしても、菊が居てくれてよかった。これ、一人でやらされていたら、ストーカーとして訴えられてもおかしくなかったな。 ぼんやり思っていると、 「あ」 菊ががさごそと急に鞄を漁り出した。取り出したのは、震えているケータイ。 「ごめん、カレシから電話。ちょっと一人で尾行ってて」 言うと、透史の返事を待たず、ケータイを耳に当てる。 「もしもしー」 明るい声にうんざりする。 「……やる気あんのかよ」 小さく呟くと、仕方なしに菊の代わりに、ミスの背中に視線をやる。と、丁度曲がろうとしているところだった。 「お菊さん!」 慌てて名前を呼ぶと、犬を追い払うように片手を振られた。一人で行けってことかよ。 一瞬、ためらってから、 「すぐに来てくださいよ! 俺、ストーカー扱いされたくないんで!」 それだけ告げて、駆け足でミスの背中を追う。 だってやっぱりちょっと気になるし、ミスのこと。 「もー、やだぁー」 浮かれた菊の声が背中に届いて、軽く殺意が沸いた。 他の学生達と一緒に、下校する風を装ってミスを尾行する。 住宅街を抜け、駅前に近づくと、他にも通行人が多くなる。すると、ミスのその黒い姿は、人並みに紛れてしまう。ちょいちょい姿を見失いそうになり、その度に慌てて駆け足になる。 スクランブル交差点なんて、危険がいっぱいだ。 いつしか透史の視線は、ミスだけを追うようになっていた。周りの景色は一切合切気にせず、ただその黒い姿だけを探す。のめり込むように。催眠状態にかかったように。 黒い姿だけを追いかけて、 「……あれ」 その姿が視界から途絶え、足を止める。 「……ここどこだ?」 さっきまであんなに人がたくさん居たのに、気づいたらミスは勿論、人っ子一人いない。こんなところ、駅前にあっただろうか? 同じような灰色の塀が並ぶ道を、首を傾げながら歩く。 こつこつと、自分の足音だけが妙に響く。 塀に沿ってまっすぐ歩く。 歩く。 歩く。 「……おかしいな」 どこまで進んでも曲がり角一つ見つからない。 なんだか気味が悪い。 振り返ると、後ろにもずっと塀が続いている。 ぞくり、と背筋が寒くなる。 前を見ても塀。後ろも塀。 「なんだよ、これっ」 次第に早足になる。 人が通らない。 なんの生活音もない。 さらに駆けようとして、 「っ」 後ろから手を、掴まれた。 咄嗟に振り払うように動かしながら、振りかえると、 「なにをしているの」 「あ……」 ミスがいた。 「……三隅さん」 見知った顔に、少しだけ安堵する。 「私のこと、つけていたでしょう」 ミスはいつもどおりの無表情を変えずに言う。問いかけると言うよりもつぶやきだった。 「……はい、すみません」 素直に謝罪する。 ミスの表情はまったく変わらないから、感情が読み取れない。だけれども、尾行されていたと知っていい気はしないよな。どうしよう。 ミスは何も言わず、歩き出す。 どうしたものかと見守っていると、 「なにしてるの」 少し先でミスが振り返った。 「え?」 「迷子なんでしょう。ついてきなさい」 そう言って、透史の返事を待たずにまた歩き出す。こんなところにこれ以上一人にされるのも嫌で、慌ててそれを追いかけた。 ミスの一歩半後ろを歩く。 「朝の話?」 唐突にミスが呟いた。 「え?」 「部活がどうの、って言っていたでしょう。それでつけていたの?」 「え、ああ、はい、そうです」 すみません、とまた小声で謝る。 っていうか、なんで俺ばっかりこんな目に。そもそも諸悪の根源は菊なのに、どうしてうまい具合にいないんだ、あの人は。 「……ピアノを弾いていたのは、懐かしかったから」 「は?」 唐突にミスがこぼした言葉に驚く。 「インタビューがしたいのでしょう? あのピアノについて」 「え、ああ。だけど」 「時間を取られるのは嫌。でも、つけまわされるのはもっと嫌。だから」 ふっと空気が漏れるような音がした。ミスが笑ったような気がしたが、透史の位置からでは、その表情を見ることができない。 「昔ピアノを習っていたことがあって」 そんな透史に気づくことなく、ミスは話を続けていく。 「ちょっ、まっ」 慌ててケータイを取り出すと、レコーダーを起動した。 「どうぞ。続けてください」 「ピアノを習っていて、でももうやめてしまったし、家にもないから、懐かしく思ったの。丁度、私がとおりかかった時に、誰かが音楽室から出て行ったところで、ドアもピアノも開けっ放しだったから。魔が差したのね、弾いてみたの」 「……呪いのピアノだっていうことは?」 「知らなかったし、仮に知っていたところで、あなた、信じるの?」 逆に問われる。 「いや、信じてなくてもいい気はしないかなぁ」 それに答えると、 「私は別に気にしないわ」 冷たく言われた。 「はい、すみません」 その言い方に、なんだか咄嗟に謝ってしまう。 「その呪いのピアノ? のことは知らなかったし、実際に一曲弾き終わったけれども何も起こらなかった。その時も、今も。これで満足?」 そこで透史の方に顔を向ける。その印象的な瞳をまっすぐ向けられて、 「あ、はい、ありがとうございます」 慌ててそう言うと、頭を下げた。 「そ」 ミスは小さく頷くと、また前を向いて歩き出す。透史も一瞬立ち止まって、ケータイの録音を保存すると、すぐに小走りでその姿を追いかけた。 しばらく黙って二人で歩いていて、ふと気づくと、見知った駅前だった。よく行くファーストフードの横にでる。 あれ、ここに繋がっていたんだ? よく通っているのに知らなかった。駅の茶色い建物が見えるし、通行人もなんでもないような顔をして歩いている。 「ここまで来たら平気よね」 「え、あ、はい」 慌ててミスの方に向き直る。 「わざわざありがとう。……あと、ごめん。尾行していて」 「いいえ」 ミスは何を考えているのかわからない顔で、僅かに首を横にふると、 「それじゃあ、気をつけて」 心無しか含みのある言い方でそう言うと、透史に背を向けて歩き出した。その黒い後ろ姿を見送る。 彼女は駅のロータリーを右に曲がると、線路沿いのマンションに消えて行った。 新築のお高いマンションじゃなかったっけ、あそこ。家に入っていたチラシを思い浮かべる。あそこに住んでいるんだろうか。 すっかりミスの姿は見えなくなったが、ぼんやりとそっちを見ていると、ぶーぶーとポケットの中のケータイが震えた。 菊からの着信。 「……やべ」 そういえば、すっかり忘れていた。 「もしもし」 「あ、やっとでた! ねー、どこにいるのー?」 「今、駅前です。バーガー屋の前」 「ああ、なに、尾行失敗?」 「……そんなところですかね」 起きたことを菊に上手く説明できる自信もなかったし、なんだかしない方がいい気がした。あと、なんかどうせ恐ろしく面倒なことにするだろうし、この人。 ふっと思って、今出て来たばかりのバーガー屋の横の狭い道を戻る。 「ま、しょうがないかー。とりあえずそっち行くー。っていうかさ、あんたどこ居たの?」 「どこって。普通に駅の方歩いて来てましたけど」 多分だけど。迷子になってたし。 「なんかずぅっと電話していたのに繋がらなかったんだよねー。電源切ってた?」 「……いえ、別に」 バーガー屋の細い道を進むと、バーガー屋の裏に出た。まあ、当然だ。 突き当たりの怪しいスナックにも、見覚えがある。フランソワーズっていう名前は酷いと、今井達と盛り上がったことがあるからだ。 「電波、悪かったのかしらねー?」 菊の言葉に上の空で返事をする。 透史の目の前にあるのは、行き止まり。 さっきの道は見つからなかった。 |