翌日、透史が躊躇いがちに教室のドアをあけると、もうミスは来ていた。今日も変わらない、黒い。窓際の一番後ろの席。文庫本を片手に頬杖をついている、その姿。もう毎日見ているその姿。でもなんでだろう、今日は一段と黒く見えるし、一段と周りを拒絶している気がする。
 ミスを誘うのが嫌で、家でうだうだしぶってから来たから、今日は弥生の方が早くついている。弥生は透史の顔を見ると、頑張って、とでもいうように胸の前で両の手を握った。小さなガッツポーズ。かわいいけど、一緒には来てくれないんだよなぁ……。
 ああもう、恨むぞ、お菊さん。
「三隅さん」
 嫌なことはさっさと終わらせたくて、ドアからまっすぐ、鞄も持ったままミスの前に行く。
 ミスはゆっくりと顔をあげた。
「あの、お願いがあるんだけど」
 黒目がちの大きな瞳が真っすぐ、透史を見据えてくる。ミスは何も言わず、ただ先を促すように首を傾げた。
「え、なんであいつミスに話しかけてんの?」
 今井がそう弥生に問いかけている声が聞こえてくる。心無しか他のクラスメイトもこちらを見ている気がする。まあ、自分でも見るけど。あの無口で無愛想でクールなミスに、朝一で話しかけるクラスメイトがいたら。
「あの、この前音楽室で会ったとき。俺と葉月さんの他にもう一人いたでしょ? テンションの高い、二年生」
 こくり、と小さくミスの首が動く。
「あの人、文芸部の部長で。あ、俺も葉月さんも文芸部なんだけどね。ええっと、文芸部では今、部誌作ってて。それが学校の怪談をテーマにしていて」
 支離滅裂になりながら、なんとか言葉を引っ張りだしてくる。
 ミスは何も言わずに、穴があきそうなほどじっと透史の顔を見てくる。そんなに見つめられると、うまく話せないんですけど。
「それでその、この前は第二音楽室の呪いのピアノについて調べていて。まあ、デマっぽかったけど。いや、デマに決まってるんだけど。デマでよかったんだけど。ええっと、それで」
 言葉を切って、一つ深呼吸。さあ、ここが本題だ。
「部長がピアノを弾いていたことについて、三隅さんにインタビューしたいらしいんだけど、時間とってもらえないかな?」
 出来るだけ微笑んで言ってみせる。
 沈黙。
 ミスは長いその睫毛を、音がしそうなぐらいゆっくり一度動かして瞬きをして、一言。
「嫌」
 そう一言だけ呟くと、話は終わったとばかりに本に視線を戻した。
 ですよねー!
「だ、だよね。ごめんね、朝から変なこといって。ごめんね」
 本を読んだままの頭にそう告げると、すごすごと自分の席につく。けんもほろろに断られるだろうと覚悟はしていたが、精神的ダメージは予想していた以上だった。
「おつかれさま」
 そっと弥生が話しかけてくる。
「失敗したよ……」
「ううん、石居くんは、頑張ったよ」
 優しい言葉にささくれていた心が少し和む。可能ならば話かけるときに隣に居て欲しかったけど。そうしたら精神的ダメージがもっと軽減されたはずなんだけど。
「なに、お菊さん、ミスに興味あるんだ?」
 今井が小声で尋ねてくる。
「ああ、幽霊度が高いって」
「なにそれ」
「知らんけど。セーラー服は幽霊度が高いとかなんとか」
「あー。なんかよくわからんけど、お菊さんらしいね」
 よくわからないのに納得される個性の持ち主、菊。
 ああ、なに失敗してんのよ! とか怒られんのかな。憂鬱になりながらも、とりあえず透史は作戦失敗の旨、メール送信した。

「女の子誘うこともできないの! このへたれっ!」
 作戦失敗に伴う菊の叱責は、予想よりも重いものだった。
「……へたれって」
 なんでそこまで言われなくちゃいけないんだ。
 昼休みに招集かけられたから、わざわざ部室に来たらこれだ。大きくため息をつく。
「でもね、お菊部長、石居くん頑張ってたよ」
 横から弥生がフォローしてくれる。なんていい子なんだ。
「甘やかしたらだめよ、弥生。女の子を誘うこともできないへたれなのよ、こいつは。ここのままだと、あんたをデートに誘ってくれることもないわよっ。今だって一回もないんでしょう?」
「ちょっ!」
 さらりと何を言っているんだ、あんたは。なんで弥生をデートに誘う話に移行しているんだ。
 抗議の声をあげる透史の横で、
「……それは嫌だなぁ」
 俯いた弥生が小さく呟いた。
 あんたもあんたで何を言っているんだっ。
 予想外の方向に投げられた話の展開に、どこからつっこんでいいのかわからず、口をぱくぱくさせていると、
「まあ、可愛い後輩の恋愛事情とか心底どうでもいいんだけれども」
 菊は大層ひとでなしなことを言い放った。自分で話をふってきたくせに、どうでもいいってなんだよ。
 つけまつげをたっぷりつけた瞳を、ぱちぱち瞬きさせながら、菊はアンニュイにため息をつく。
「このまま、引き下がるのも、悔しいわよねー」
 いやいや、ここは大人しく引き下がろう。人として。
 本の山に頬杖をついて何かを思案するように菊が宙を見つめる。
「……デート、いつでもオッケーなんだけどな」
 弥生は弥生で小声でぶつぶつ何か言っている。のを、透史をスルーすることに決めた。へたれという称号も甘んじて受けよう。っていうか、どっちにしろ菊の前で誘えるわけがないだろう。
「そうだ!」
 ひらめいた! と菊が立ち上がる。一緒にばさばさと数冊本が落ちる。
「わっ、大変」
 それを慌てて弥生が拾い上げる。
「……何がひらめいたんですか」
 一緒に本を拾いながら、どうせろくでもないことだろうな、と思いながら問いかけると、
「今度は、あの幽霊娘の特集にしましょう!」
 想像の斜め上にろくでもないことだった。
「……お菊さん。三隅さんは人間です。趣旨に反すると思います」
「幽霊っぽいから大丈夫よ」
「大丈夫じゃないって! 見境なしかよ、迷惑になるだろ」
 確かに幽霊っぽいという評価もわからないでもないが、ミスが実際にいる人間な以上、ことさらに面白おかしく取り扱うのはおかしいだろう。迷惑をかけることにもなるし。
 さすがに呆れてため息をつくと、
「……でも、そういえばミスのことってなんにも知らないよね」
 拾った本を綺麗に机の上に重ねながら、ぽつりと弥生が言う。
「なんであんな変な時期に転校してきたのかとか、どこに住んでいるのかとか、いつも何の本を読んでいるのかとか、昼休みにいつもいなくなるけどこにいっているのかとか、なぁんにも知らなくない? 普通、友達じゃなくてもクラスメイトのことって、一緒に生活していればそれなりにわかるものじゃない?」
「……まあ、確かに」
 あんな変な時期に転校してきた理由とかは、確かに気になっている。高校で転校って漫画の中だけかと思ってた。
「そんなに意味ありげな子なの、幽霊娘」
 菊が会話に混ざり込む。
「そうですね、割と」
「ふーん、怪しいわね」
「……何が」
「きっと何かわけあって転校してきたのよ。例えば、前の学校でこっくりさんに失敗して取り憑かれて、居辛くなったとか」
「お菊さんは本当お菊さんですね」
 思考回路が安定している。
「あら、ありがと」
「褒めてませんよ」
「でもそうね、ならちょっと探ってみましょうか。記事にはしないけど、あの子のこと調べてみましょう。気になるし」
「気になるってだけで調べるのはどうなんですかね」
「それで上手いこと弱みが見つかれば、呪いのピアノのインタビュー、脅して引受させることもできるかもしれないし」
「なんでもありかっ! 極悪人か!」