次の日、学校に行くと、久しぶりに机に落書きがしてあった。うんざりしながら、マジックで書かれたソレを見て、動きがとまった。
「このビッチ」
 大きく書かれたその言葉と、へたくそな絵。セーラー服が、男にキスしている、絵。
 かっと耳が熱くなる。
 見られていた?
 誰に?
 咄嗟に、絵は鞄で隠す。
 落書きから目を逸らしたいのに、縛り付けられたように動けない。
 くすくす笑いが聞こえる。
 ああ、だって、誰が。
 どくどくと心臓が音を立ててなって、吐き気がする。
 どうしたら。
 思っていると、
「あんたさ、でくの坊なの?」
 冷たい声。それと同時に、横から腕が伸びてきた。その腕が、持っていた細長い容器を、逆さまにする。
 鼻をつく、匂い。
 液体が、溢れる。
 腕はそのまま、雑巾で机を拭き出した。
「……見てないで、あんたがやりなさいよ」
 うざそうに睨みつけられた瞳は、澪のものだった。
 澪の手に握られたのは、除光液。それが、机のインクを、少し薄めてくれる。
「ビッチとか、あてはまらなさすぎてうける」
 澪が文字を消しながら、鼻で笑った。
 鞄で隠した絵に、澪は多分、まだ気がついていない。あれを見たら、澪がなんていうかわからない。
 私は慌てて、澪の手から雑巾を奪いとった。
「自分でっ、やるから!」
 そう言うと、澪は僅かに不満そうな顔をしてから、
「あっそ」
 つまらなそうに言い捨てて、除光液を机の上に置いた。
「あげる。新しいの、買って返しといて」
 それは、あげるって言わない。
 なんで除光液を持って学校にいるのかも、わからない。あれがビッチじゃない?
 そんな言葉が一瞬、頭をかすめる。
 そんなことよりも、机だ。
 言葉よりも重点的に、絵を消すように力を入れる。
 完全には、綺麗にならなかったけれども、気にならない程度にはなった。
 それにほっと、息をついたころ、先生が入って来た。
「うわっ、なんだ。誰だ、マニキュア塗ったやつ!」
 露骨に顔をしかめる。
 あ、そうだ。じゃばじゃば使ってしまったから、教室中が除光液臭い。
「柴山さんでーす」
 教室の前の方で、男子がげらげら笑いながら言った。
 先生がこちらをみて、机を拭いている私を見て、何かを悟ったらしい。
 一瞬、唇がきゅっと結ばれる。
 あ、せっかく隠して来たのに、ばれてしまっただろうか。大人に。
 そう思って、ぎゅっと力強く雑巾を握る。
 だけど、
「……窓、あけろー」
 先生はやる気なさそうにそれだけ言って、教壇に立った。
 特に私をとがめることはせずに。
 事なかれ主義で。
 なあなあに。
 担任が、面倒ごとが嫌いなのは薄々察していたが、まさかここまでとは思わなかった。
 一言、私を怒ってくれさえすれば、もしかしたら私は、変わったかもしれないのに。なにかを、訴えることができたかもしれないのに。仮定の話だけど。
 ここの一体どこに、助けてくれる人がいるというのだろうか。
 唇を噛み締めると、黒板を睨んだ。


 隆二さんとの一件以来、図書館にきちんと通う日々に戻した。
 これでまた行かなくなるのは、負けた気がしたのだ。あの落書きをしたやつに。
 助けてくれる人はいない。魔法使いはいない。
 それはよくわかった。なら、私は、一人で頑張らなくっちゃいけないのだから、負けてなどいられないのだ。
 二週間後、図書館に行くと、真緒さんがいつもの席で絵本を読んでいた。
 足早に近づくと、
「あ」
 真緒さんも、私に気がついたのか顔をあげた。
 ちょっと驚いたような顔をして、慌てて立ち上がろうとするのを、片手で制する。
 すとんっと座り直した真緒さんの隣に、私も座った。
「あの、この前は、ご心配おかけしたみたいで、すみません」
「ううん、大丈夫?」
「はい」
 頷くと、真緒さんはよかった、とにっこり笑った。
「あの、真緒さんは怪我大丈夫ですか?」
「うん? うん、平気だよ」
「あのときはごめんなさい」
「気にしないでー」
 笑ったまま、真緒さんは答える。
 それから、
「……ちょっとお話したいなー」
 唇を尖らせながら、小声で呟いた。
「お話してもいい?」
 小さく問われた言葉に、頷く。
 私だって、真緒さんと話がしたい。久しぶりだもの。
 真緒さんはぱぁっと嬉しそうな笑顔になって、
「外行こう」
 立ち上がった。
 確かに図書館の中ではお静かに。それが常識だ。
 ちょっとぐらいの挨拶ならばともかく、おしゃべりするには向いていない。
 絵本を片付けて、荷物を持って、建物の外に出る。
 入り口近くの、花壇のふちに、並んで腰掛けた。
「ふふ、久しぶりだねー」
 真緒さんが嬉しそうに笑う。
 なんの屈託もなく。
 突き落としてしまって申し訳ないとか、避けていて申し訳ないとか、隆二さんを奪おうとして申し訳ないとか、なんだかそういう罪悪感さえも押し流すぐらい、屈託なく。
 ああ、隆二さんが言った意味がわかる。
 この人だから、隆二さんは助けようと思ったのだ、きっと。誰でもよかったわけじゃなくて、誰でも助けてくれるわけじゃない。
 この笑顔に掬われて、だから一緒に居るのだ。
 改めて突きつけられた現実に、少し胸が痛む。
 だけど、もう一度、あの日、図書館の前で諦めたから、そこまでじゃない。
 だから、大丈夫。
 そう、自分に言い聞かせる。
「……そういえば、ピクルス、食べましたか?」
 隆二さんとの会話を思い出して問いかけると、
「食べたー」
 笑顔で大きく頷かれた。
 だけどすぐに、表情をなんだか不愉快そうに歪めた。
「でも、美味しくなかったー」
 まあ、癖があるし。
「私もあんまり、好きじゃないです」
 ハンバーガーに入っているピクルスを食べられるようになったのは、中学にはいってからのことだ。
「だよねー?」
 うんうんっと真緒さんが頷く。
「もう要らないって言ったら、隆二にすっごい怒られた。せっかく買って来たんだから、全部喰えって」
 頬をふくらませる。
「……でも、買ってきてくれるなんて、優しいじゃないですか」
 そんな不満そうにしたって、隆二さんの優しさの現れじゃないか。優しさを無碍にしているみたいでちょっと苛立って言ってみるもの、
「まあ、ねー」
 ふふっと、嬉しそうに真緒さんが笑ってかわされた。
 ああ、なんだ、それはちゃんと、わかっているのか。
 いいな、と思う。
「優しいですよね、隆二さん」
 もう一度呟く。
 本当、いいなって思う。
 そんな思いが、滲みでてしまったのだろうか。
 真緒さんは、そんな私をしばらく眺めていたが、
「……ね」
 下から顔を覗き込むようにして、真緒さんが私を見た。
「佐緒里さん、隆二のことが好きなの?」
 そっと、内緒話をするような声量で言われた言葉に、どきっとする。
 かぁっと顔が赤くなったのが、自分でもわかった。
「……好きって言うわけじゃ」
「でも、駄目だよ」
 きっぱりと、そう言われた。
 いっそ、清々しいぐらいに、きっぱりと。
「隆二はきっと、もう二度と誰のことも好きにならないだろうから」
「……それは、どういう?」
 てっきりヤキモチかなにかで否定されたのかと思ったが、どうもそうではないらしい。
「隆二が恋愛感情で好きなのは、茜さんだけだから。死んだ人に、敵うわけないから、諦めた方がいいよ」
 珍しく真面目な顔で、そう言われた。
「佐緒里さんが、傷つくだけだよ。隆二は、どうしようもなくひとでなしだから」
 言って、少し、心配そうに顔を歪める。
 思い出す。
 真緒さんの読書ノート。真緒さんは、隆二さんのやまねこになりたがっていた。小鳥を亡くして、傷ついているくまをなぐさめる、やまねこに。
 ああ、そうか。隆二さんは、くまなのだ。何かを失った、くま。
「……そういう、ことなんですか」
 その茜っていう人がなんで亡くなったのかはわからないし、どういう人なのかもわからない。だけど、落ち込んでいる隆二さんが、真緒さんに救われたのであろうことはわかった。
 ああ、だって、言っていたじゃないか。真緒さんの無駄な明るさに救われている、と。
 真緒さんは、隆二さんに、魔法をかけた。隆二さんのやまねこになった。
 どちらが先かはわからないけれども、二人はお互いに魔法をかけあっているのか。
 本当、よくわかった。
 私の立ち入る隙はない。
 だけど、
「うらやましい……」
 憧れている。
 思えばずっと、憧れていた。『くまとやまねこ』を読んで、同じような感想を抱くところとか。お互いに本当に大事に思っているところがよくわかるところとか。お互いにきっと逃げ出して来たのであろうこととか。
 うらやましいと、思っている。
「うらやましい?」
「真緒さんが」
 隠していてもしかたがない。はっきり言ってしまう。
 真緒さんがちょっと、驚いたように目を見張った。
「隆二さんに優しくされて、愛されていて、可愛がられていて、大切にされていて、魔法をかけてもらって、うらやましいなーって思ってます。ちょっとだけ、だけど。私がかわれたらなーって」
 最後の方はおどけてつけたした。ここで嫌な空気になるのは望んでいなかった。
 けれども、真緒さんは、笑ったりしなかった。
「だめだよ」
 いつもと違う、真剣な口調で真緒さんが言った。
「絶対に、だめ」
 驚くぐらい、真剣な口調。
 ふるふると首を横にふる。
 それから私の瞳を正面からとらえると、一言一言、力強く、言い放った。
「恋愛感情とは違うけれども。隆二は、今はあたしのだから、あげない」
 しっかりと、力強い口調で言われる。
 いつものふわふわした発言じゃなくて、しっかりとした声で。
 しばらく見つめ合う。
 最初は真緒さんの、らしくない力強い声に驚いてしまったけれども、少し冷静になると、今度はその言葉選びのすごさに、打ちのめされた。
 隆二はあたしのだから?
 そんな言葉を、まっすぐに、臆面もなく言い切ってしまう。
 それに思わず、ふふっと笑ってしまった。
「えっ、なんで笑うのっ」
 驚いたように真緒さんが声をあげる。さっきまでの真剣な感じはどこかに消えてしまったようだ。
 牽制ともとれる真緒さんの発言に、驚いたりいやな気分になったりするよりも前に、可愛いなと思ってしまった。
 ああ、しっかりと、両思いなんだなーと思って。それは確かに、恋愛感情ではないのかもしれない。
 今ならわかる。
 二人はそういう言葉では表されないけれども、それとも同じか、それよりももっともっと、強い絆で結ばれていること。
 だってなかなか言えない。隆二はあたしのだからあげないよ、だなんてそんなこと。普通恥ずかしくてなかなか言えない。
 もうわかっている。
 どんなにうらやんでも、私は、真緒さんにはなれないことを。
 真緒さんの立場に憧れていても、そっくりそのまま同じ立場を手に入れられないことを、よくわかっている。
 私が今から真緒さんの立場に収まって、隆二さんに大切にしてもらえるなんて、そんなことけっしてありえないのだ。
 今の真緒さんの発言で改めて、二人の仲に割って入ることはできないんだなっと思い知らされた。
 これだけ真っすぐな気持ちをみせつけられて、間に入れると思えるのは、よっぽど図々しいひとだろう。
 例え、真緒さんを殺しても、何も変わらない。
 婚約者をナイフで刺しても、王子様はそのことを嘆き悲しむだけで、人魚姫を見たりはしないのだ、絶対に。
「ちょっと!」
 私が笑ったままだからか、真緒さんが慌てたように袖をひっぱる。
「佐緒里さんっ!」
「いらないから、大丈夫ですよ」
 まだちょっと笑いながら答える。
「そんなに必死にならなくっても」
 そうやって言うと、真緒さんは、
「別に! 必死にっ、なっていたわけじゃっ!」
 自分の発言の大胆さに思い至ったのか、真っ赤な顔でそう言った。
 それがまた可愛くて笑う。
 年上なのに、自由気ままでマイペースで、だけれどもなんだか憎めなくて、放っておけなくて。一生懸命、まわりのことを考えてくれている。
 だから大切にされているのだろうな、と思った。
 いい意味でも悪い意味でも、放っておけない人だ。
「私は私で、私にとっての隆二さんみたいな人を見つけますから」
 ちょっと澄まして言うと、真緒さんはわかったのかわからないのか、よくわからない顔をした。
 私は私で頑張るのだ。
「……まあ、いいけど」
 真緒さんが、ごにょごにょと何かを呟いた。
 そのあと、しばらく、のんびりと話をしていると、
「真緒っ!」
 焦ったような隆二さんの声がして、自動ドアをこじ開けるようにして、隆二さんが外に飛び出して来た。
 大股で真緒さんの前にたつと、その左手を掴む。
「わっ、どうしたのっ?」
「どうしたのって、おまえなぁっ!」
 目を丸くする真緒さんの前で、隆二さんは眉を吊り上げる。
「なんで外にいるんだよ!」
「え、佐緒里さんとお話したくって。中じゃあんまりお話しない方がいいでしょう? だから」
 そこで隆二さんは、はじめて真緒さんの隣にいる私に気づいたらしい。ちょっと驚いた顔をしてから、軽く頭を下げた。
 それからまた、真緒さんをきっと睨みつける。
「じゃなくって!」
「え、なにー」
 意味もないのに怒られた。そういう感じで真緒さんが不満そうに唇を尖らせる。
 その顔に、隆二さんがますます苛立ったのがわかった。
「探すだろうが! いつものところにいなかったら!」
「あ」
 その言葉に、しまったと思ったのは私も一緒だった。
 そっか、何も言わずに外に出てしまった。いつものように迎えにきて、真緒さんがいなかったら、そりゃあ探すし、心配もするだろう。
「ごめんなさーい」
 しゅんっと肩を落として、真緒さんが謝る。
 私も同罪な気がして、
「すみません」
 一緒にしゅんっとしておいた。
 それを見ていたら、隆二さんは怒る気をなくしたみたいだった。
 もしかしたら、あからさまに心配していた自分に気づいて恥ずかしくなったのかもしれない。
 照れた時にするように、そっぽを向いてから、
「まあ、なんでもなかったならいいんだけどさ」
 なんて呟く。
「今度からはちゃんと、隆二に言ってからにします」
「そうしてくれ」
 はぁっと溜息をついて、真緒さんの手を離すと、代わりに頭を軽く撫でた。
「あー、借りる本、机に置きっぱなしにしてきたから、ちょっと行って借りてくる。真緒は?」
「今日はいいー」
「だろうな。ここにいるんじゃ本、見てないもんな」
 呆れたように笑うと、隆二さんは図書館の中に戻っていた。
 それを見送りながら、
「怒られちゃったね」
 小さく舌を出して、真緒さんが戯けたように言う。
「ましたね」
 頷いた。
「すっごい慌ててましたね」
「ね。……いいもの見れたね。珍しいよ、あれ」
 いたずらっぽく真緒さんが笑う。
「……悪い子ですね」
 私は口先だけではそんな、とがめるようなことを言ってみたが、珍しいものが見られたと思っているのは同じだった。
 それから、二人で顔を見合わせると、くすくすと笑った。

 貸出手続を終えた隆二さんが、戻ってくると、
「じゃあ、佐緒里さん、またね」
 真緒さんが笑った。
「はい、また」
 軽く手を振ると、真緒さんも嬉しそうに手を振り返してくれた。
 隆二さんが軽い会釈をする。
 そうして、いつものように並んで帰っていく。
「そういえば、さっきまで調べてたんだけどさ」
「うん?」
「ピクルスの食べ方」
「うー、食べなきゃだめ?」
「だめ。粗末にしない。タルタルソースとかにするといいらしいから、今日の夕飯はそれな」
「タルタルソース?」
「そー。なんか魚のフライにでもつけて、食べようぜ」
「はーい」
 そんな会話をしながら、二人は帰っていく。
 その後ろ姿を見送る。
 ピクルスの食べ方を調べるとか、本当一生懸命愛しているのだな。
 そう思って、また笑った。
 ああ、やっぱりうらやましい。
 その気持ちだけは変わらない。