しばらくそのまま立ち尽くしていたが、五時を知らせる音楽に、ようやく呪縛が解けた。のろのろと自転車に乗って、叔母さんの家に帰る。
 更なる追い打ちはすぐにやってきた。
「ねぇ」
 お風呂をいただいてもどってくると、この前と同じようにして、澪が廊下に座り込んでいた。
 なんだかもう、嫌な予感しかしない。
 私は返事をしないで、立ち止まって澪を見下ろす。
「さっき、奏からメールがあったんだけれども」
 奏?
 一瞬悩んで、それが澪がよく教室でつるんでいるクラスメイトの一人だと思い出した。
 私とはタイプの違う、子。
「神社でアイスを食べていたのは、誰と?」
 ひゅっと喉の奥で変な音がなった。息を吸い込んだ音が、変な風になった。
 なんで。
「こっちに知り合いなんていないでしょう? どこで知り合った人? 怪しい人なんじゃないの?」
 畳み掛けるように質問を重ねてくる。
 なんで、どうして。
「あんた、騙されてるんじゃないの」
 一体、なにに?
「……友達、だもの」
 かろうじて、なんとか、それだけ言葉を吐き出す。
 言ってから、そんなことを言う資格が私にあるのか、疑問に思ったけれども。
 あんなことした、私に。
 それから、心のどこかで、奏とやらがあのことを目撃していなかったらしいことに安心した。こんなことにも保身に走って、醜いの。
「でも、大人なんでしょう?」
「大人の友達がいちゃいけないの?」
「怪しいじゃない」
「なんで? 大人だから? それだけで怪しいの?」
 ああ、体の奥の方から、黒い気持ちがこみあげてくる。
「当たり前じゃん」
 澪の声も少し、高くなる。
「知らない人なんて、怪しいに決まっているでしょう」
「そんなの、澪達がよそ者に厳しいからそう思うだけでしょう?」
 語尾が上擦る。
 それにともなって、声も少し、大きくなってしまった。
「昔からの知り合いとしか仲良くしないで、小さなコミュニティを築いて、仲良しこよししているから、少しでも外の人間がいると嫌なだけでしょう? だから、ちょっと年齢が違うだけで怪しいとか決めけるんでしょう、何にも知らないくせにっ」
 だって、澪よりも、真緒さんや隆二さんの方が、数百倍私に優しいし、親切にしてくれる。
 澪よりも、私のことを知ってくれている。
 何にも知らないくせに。
「あのさ」
 何にも知らないくせに、さらに言葉を重ねようとする澪に、苛立ちが隠せない。
 なんだかもう、すごく、むかつく。
「うるさいっ!」
 衝動に任せて、叫んだ。
 澪が驚いたようにぴくりっと肩を震わせ、ぽかんっと彼女にしては情けない顔で私を見上げた。
「もうほっといてよっ! そんなに私に出て行って欲しいなら、澪から叔母さんに言ってよっ!! 出て行けるなら、私だって出て行きたい! 帰りたい!! だって、私も異分子だもん! そんなこと知ってるもん! もうほっといてよ!」
 それだけ勢いに任せて吐きすてるように言うと、澪の返事も待たずに、部屋の中に滑り込んだ。
 ベッドに倒れ込む。
 やってしまった、という後悔がすぐに襲ってきた。
 こんな風に怒鳴ったら、下にいる叔母さんにだってきっと聞こえているし、澪だって告げ口をするだろう。
 だけど、我慢ならなかった。
 私は酷いやつだけど、だからってあの二人を悪くいうようなこと、言わないでよ。私から、あの二人を奪うようなこと、言わないでよ。
 隆二さんのことは、絶対に奪わせない。
 今の私の、たった一つの、よりどころなんだから。

 次の日は日曜日だった。
 朝起きると、澪は朝練があるとかでもういなかった。
 叔母さんはいつもと変わりなく見えた。
 それでも多少びくびくしながら、朝の挨拶をして、朝食の席に着く。
「佐緒里ちゃん」
 朝ご飯を頂いている時、ゆっくりと話しかけられて、ついに来たか、と思った。
「はい」
 身構える。
「昨日はごめんなさいねー」
 叔母さんは、私の予想よりもゆったりと言葉を口にした。
「え?」
 私の言葉を全て聞いていたならば、もっと違う言葉になるはずだ、と思った。
 だって結構酷いことを、お世話になっている叔母さんに言ってしまったから。
 そのことは、自分でもわかっていたから。
 なのに叔母さんは、予想に反してのんびりとそう言った。
「なんか澪が色々と、言っちゃったみたいでね」
 ごめんなさいね、と叔母さんが笑う。
「あ、いえ……?」
「あの子もね、あの子なりに佐緒里ちゃんと仲良くなりたいのよ」
 そんな風に叔母さんが笑う。
 話がよく見えない。
 でも、澪が昨日のことを、私が言ったことを、叔母さんに言っていないことだけはわかった。
 おおかた、大声をだしていたことでとがめられて、それなりに作り話をしたっていうところだろう。
「私も、悪かったので」
 しおらしいふりをして謝る。
 ごめんなさいねー、と叔母さんが続けた。
 なんだかよくわからない。わからないけどれども、一つだけわかっていた。
 なにかを言ったところで、結局何にも変わらないんだ。
 あれだけいっても、何もかわらない。それが、わかった。
 ああなんだか、ものすごく。
 二人に会いたい。

 朝食を食べ終え、片付けを終えて、勉強してくるのでお昼はいいです、と叔母さんに早口で告げると、勢いよく外にでた。
 自転車に跨がり、真緒さん達の家を目指す。
 急に行ったら迷惑かもしれない。
 隆二さんはまた、ちょっと嫌そうな顔をするかもしれない。
 だけれどもきっと、真緒さんは笑って迎えてくれる。
 真緒さんさえ迎えてくれれば、隆二さんだってきっと、なし崩し的に迎えてくれるだろう。
 そんな打算が働く。
 昨日のお詫びとお見舞いっていうことにして。山口屋のせんべいをもう一度買って、向かう。
 もうなんでもいいから、はやく二人に会いたい。
 私の居場所を確認したい。
 暴走気味に自転車を飛ばして、真緒さん達の家の、すぐ近くまできた。
 きゃははは、という笑い声が、どこかからしてきた。
 子どもの、赤ん坊の笑い声。
 この辺りには、真緒さん達の家しかないのに?
 ペダルを漕ぐ力が弱まる。
「かわいーねー!」
 声がする。真緒さんの声だ。
 トーンの高い、声。
 合間に聞こえる、赤ん坊の笑い声。
 真緒さん達の家に、赤ん坊?
 そっと自転車を降りて、押して、家に近づく。
 何故だか、こそこそしてしまう。
 家の前まできた。
 塀に隠れるようにして、隙間からそっと家の中をのぞく。
 いつだったか、隆二さんが私の自転車を直してくれていた縁側で、真緒さんと隆二さんと、知らない人たちが楽しそうに話をしていた。
 隆二さんと同い年ぐらいの金髪の女の人と、それよりちょっと年上っぽい明るい茶色の髪の毛の男の人。
 どちらも見るからに、日本人ではなかった。
 それから、奥の方、畳でごろごろしている真緒さんの目の前にいる、小さな小さな赤ちゃん。
 真緒さんの足には湿布が貼られていて、それを見たら心臓がまた跳ねた。罪をつきつけられて。
「恵美理、あのさー」
 人数分のコーヒーを持っていたらしい隆二さんが、呆れた調子でいいながら、縁側に腰をおろす。
「来るなら来るって連絡しろよ」
「いつでもおいで、とおっしゃったのは、神山さんじゃないですか」
「それでも連絡するのが礼儀ってもんだろうが」
 いらいらしたように言う隆二さんに、女の人はつんっと澄まして答える。
 それから彼女は、コーヒーカップを一つ手にとると、にこにこ笑っている男の人に手渡した。
 隆二さん、女の人、男の人の順で、縁側に並んで座っている。
「いや、まあ、急に来たのはいいさ、もう。だけどさ、結婚したなら言えよ。ましてや子ども産まれたならさぁ!」
 少し声をあらげた隆二さんに、女の人が悪戯っぽく笑う。
「びっくりしました?」
「するに決まってるだろ!」
「ふふ」
「ふふ、じゃなくて」
「でも、真緒さんは、ご存知でしたよねー?」
「ん?」
 赤ん坊と一緒に、はいはいして遊んでいた真緒さんが、顔を縁側に向けると、
「知ってたよー。メールもらったから」
「言えよ、お前も」
 隆二さんが苛立ったように言う。
「だってー、恵美理さんが、隆二のことびっくりさせたいから内緒にしとけっていうんだもん」
 ぷぅっと頬をふくらませて、真緒さんが弁明する。
「……こどもか」
 げんなりしたように隆二さんが呟いた。
「あなた方お二人には散々驚かされてきましたから、たまにはわたしがびっくりさせたいと思いまして」
 澄ましてコーヒーを飲みながら、女の人が言う。
「だからってさぁ」
 なおも隆二さんが何か言おうとするのを、女の人は
「でもまあ」
 そこで少し、声のトーンを真剣なものにして遮ると
「うまく生活できているようで、安心しました」
 女の人のその言葉に、隆二さんも怒りの表情をひっこませる。
 真面目な顔つきになる。
「ん。あのときは色々世話になったな」
「いえ。お二人が仲良く、平和に暮らしていらっしゃるのでしたら、それでじゅうぶんです」
「ああ、ありがとう」
 そうして二人、小さく笑いあう。
 仲良さそうに。
 親密そうに。
 奥で真緒さんは、小さな赤ちゃんと遊びながら、楽しそうに笑っている。
 きゃっきゃっと、笑い声。
 男の人がにこにこ笑いながら真緒さんを見ていたが、しばらくして何かを話かけた。英語で。
「……英語わかんない」
 困ったような顔をした真緒さんが、助けを求めるように女の人を見る。
 彼女はちょっと笑ってから、
「うちの息子は貴方が好きみたいだ、だそうですよ?」
 その言葉を聞いて、真緒さんの顔がぱっと華やいだ。
「うん、あたしも好きだよ! だって、恵美理さんの家族だもん」
 そう言って、屈託なく、笑った。
 その言葉を、女の人が男の人に告げる。彼は大きく頷いて、良い笑顔で真緒さんに手をふった。
 真緒さんもふりかえす。
 それを微笑ましそうに、隆二さんが見ていた。
 なんだか和気藹々としていて、楽しそうな空間。
 入り込めそうもない。
 少しずつ、塀から離れていく。
「ま、さっきは色々言ったけどさ」
 隆二さんの声がする。
「また来いよ」
 私には来るな、って言ったのに。
 なんだか打ちのめされた。
 息苦しい。
 あんなに会いたかったのに、来たかったのに。
 来たらこんなに苦しくなるなんて。
 私には、あの人達しかいないのに、あの人達には私以外もいるんだ。私がいなくても構わないんだ。
 それはそうだ。
 私は邪悪な、悪い魔女だから。
 逃げるように、自転車に飛び乗ると、速度をあげて漕ぎ出した。
 私はこれから、どこにいけばいいのだろうか。
 籠の中で、おせんべいが所在無さげに揺れ動いていた。