さすがに水風船はやりすぎた、と反省したのか。
 あれ以降、ああいう派手な嫌がらせはなくなった。
 相変わらず、ちょっとした物が隠されたり、画鋲がはいったりはしているけれども。
 叔母さんにも澪にもバレてはいない。だから、なんの問題もない。
 図書館は一週間お休みだったから、あの神社と河原を、一日交替で行って時間をつぶした。
 図書館はお休みだけれども、あそこにいれば二人に会えるかな、と思っていた。どちらでも会ったことがあるから。
 でも、真緒さんにも隆二さんにも会えなかった。
 残念。
 図書館のお休み期間が終わって、はりきって図書館に行ったけれども、そこにも真緒さんと隆二さんの姿はなかった。
 毎日いるわけじゃないのは知っていたけれども、会いたかった。
 ちゃんとお礼も言いたかったし、元気だよって伝えたかったし、なによりもただ会いたかった。
 それなら、改めてお礼に伺おう、と思ったのが日曜日のことだ。
 貯めていたお小遣いを持って、商店街に向かう。
 なにかお礼のお菓子を買って持って行こうと思った。
 甘い物は、隆二さんは食べないって言っていたから、おせんべいとか。
 なんだろう。なぜだか、おせんべいなら似合う気がした。
 商店街のおせんべい屋さんで、贈答用になっているおせんべいを買う。私には、ちょっと高かった。
 紙袋にいれてもらったそれを持って、自転車に跨がる。
 よし、行こう。
 気合いをいれて、ペダルを漕いだ。

 ちょっと道に迷いかけたけれども、なんとか無事、真緒さんの家についた。
 自転車を庭に止めさせてもらうと、玄関のチャイムを押す。
 ぴーんぽーん。
 音が響く。
 しばらく待っても、反応がない。
 二人で出かけているのかもしれない。
 図書館にいないのは、確認してから来たけれども、何も行き先が図書館に決まっているとは限らないし。
 どうしよう。
 片手にもった紙袋を見る。
 これを持ったまま、叔母さんの家には帰れない。
 メモでも書いておいといてもいいだろうか。あ、でも筆記用具持ってないや。
 ドアを見ながら、悩んでいると、
「……何?」
 がらりと、ドアが開いて、不機嫌そうな隆二さんが顔をだして。
「あ、あの」
 その顔を見て、失敗を悟る。
 そうだ、いくらなんでも、急に来たら迷惑に決まっているじゃないか。
「えっと、その」
 謝らなくっちゃ。おやすみのところすみません、これこの前のお礼です、ありがとうございました、失礼します、って言えばいいんだ。
 わかっているけれども、口が凍り付いたように動かない。
 そんな私の態度をどううけとったのか、
「……今日はあいついないよ。いるのは月の後半だけ」
 つまらなさそうに隆二さんが言った。玄関のドアに寄りかかる。
「え? そうなんですか?」
 想定外のことを言われて、思わず素で言葉がこぼれ落ちる。
 そういえば、考えてみたら図書館で会うのは、月の後半にかたまっていたような気もする。
「なんで?」
「……なんでって」
 隆二さんは首筋に手をやると、苦笑する。
「あ、あの、失礼なこときいてすみません。でも」
 気になって。
「いや、別にいいんだけどさ。……これ、言っていいもんかな」
 隆二さんは、悩むように宙を見つめ、一つ頷くと、
「うん、まあいいや」
 驚く程あっけらかんと、いいやの結論を導きだした。
 本当にいいのだろうか。
「あのさ、あいつの右腕のこと、気づいている?」
 そのままの口調で続けられる。
 どきっと胸が跳ねた。見て見ぬフリをしていた、こと。
 訊きたいけれどもきっと訊いちゃいけない。ふれちゃいけない。
 そう思って、ずっと、見て見ぬフリをしていたこと。
「……義手、ですよね?」
 恐る恐る、言葉を発する。
 見た目は普通だから、最初はわからなかった。
 けれどもよく見ていると、真緒さんの右手は軽く物を押さえたりするぐらいで、細かい動作は全て左手で行っていた。
 ノートを差し出すのも、字を書くのも、傘をさすのも左手。
 左利きとして受け止めるには、少し不器用な左手。
 近くで見たら、それは確信に変わった。
 質感が、明らかに人のものじゃなかった。
 だけれども、そんなデリケートでプライベートなこと、口をはさんでもいいものか悩み、何も言えずにいた。
「うん、そう」
 しかし隆二さんは、躊躇いがちな私の言葉など意に介さず、なんでもないことのように頷き、
「あれ、あいつの、血縁上の父親がやったわけ」
 そのままの口調で、さらりと、意味がわからないことを言った。
「……え?」
 言葉が脳に届くまでに時間がかかり、届いたところで理解が出来ず、間抜けな声をあげてしまう。
「あいつの父親がやったわけ」
 隆二さんがそのまま、もう一度言ってくれる。
「……父親、が?」
 言われたところで到底理解できなかったけれども。
 父親が自分の娘の右腕を、駄目にしてしまう?
「……虐待?」
 言葉が口からこぼれ落ちる。
 落ちた瞬間に、ひゅっと心臓が冷たくなった。
 そんなことを言う機会が、自分にあるなんて思ってもいなかった。
「まあ、そんなあれ」
「そんなって……」
「色々あるんだよ」
 がしがしと頭を掻きながら、隆二さんが続ける。
「あんまり思い出したくないんだ」
「あ、すみません……」
「いや。で、あいつも行くとこなかったし、俺も一人だし、俺がひきとってんの。元々、あいつとは出身つーか、育った環境が同じだから」
「……施設的な?」
 私が想像した場所は、児童養護施設とかそういったものだった。
 ということは、隆二さんもそういう過去があるんだろうか。
「うーん、まあそんなあれ?」
 面倒そうなテンションで放たれた言葉に、なんて言葉を返していいかわからない。
 ただ黙って、どこかに答えが書いていないかと視線をさまよわしていると、
「……いや、なんつー顔してんの」
 呆れたように言われた。
「え?」
「すっげー顔してた。今」
 軽く笑いながら、隆二さんが続ける。
「そんな可哀想。だけどこんなこときかされてどうしようみたいな顔」
「そんな顔、してました?」
 恥ずかしくなって俯く。
 なんていう顔をしていたんだ、私は。
「気にしなくていいよ。別に可哀想でも大変でもなんでもないから」
 フォローのつもりでかけられた言葉に、さらに恥ずかしくなる。
 可哀想は憐れむ言葉だ。
 そんな風に、私は思ったのか。
 この二人を、可哀想だなんて。
「ええっと、なんの話だっけ。あ、そうそう真緒な。あいつ、ここにいないときは、病院でリハビリ、的な?」
 まあそんな感じなんだ、とのんびりと言った。
「……そう、なんですか」
「うん」
 俯いたまま顔があげられない。
 理解がおいつかない。
「……すごいな」
 言葉が思わずこぼれおちた。
「え?」
「あ、あの」
 けげんそうな声に、慌てて顔をあげる。意味もなく両手をばたばた、顔の前でふりながら、
「色々あったのに、その、今すっごく楽しそうで、いっつも笑ってて、いいなって思ってたから。なんにも憂いがないっていう感じだったから。だから、なんか、すごいなって思って」
 しどろもどろになりながら答えると、
「ああ」
 と隆二さんは笑った。
「あいつは昔からずっとそうだよ。いつだって全力で楽しそうで。無駄にポジティブで。少しは考えて行動しろよって思うけど、正直な話」
 そこで隆二さんは一度言葉を切り、少しためらったあと続けた。
「俺はあの明るさに、救われている」
 さっきまでとは違って、少し真剣な声色で言われた言葉にどきりとする。
 小さく笑みが浮かんだ顔。
 優しそうな顔。
 どきっと、心臓がはねた。
「……あの」
 おそるおそる声をかける。
「うん?」
 首を傾げられる。
 気になっていたことを尋ねる、いいチャンスだ。
「お二人は、その、どういう関係なんですか?」
 真緒さんには聞いたけれども、隆二さんの口からも、説明して欲しかった。
「真緒さんは、同居人だって言ってたけれども、その……」
 この距離感で、ただの同居人ってことがあるんだろうか。
「恋人かってこと?」
 口ごもって、明言をさけた私を気にすることなく、さらりと言われた言葉に、小さく頷く。
「そりゃあ、ないな」
 愉快そうに笑いながら、隆二さんが言った。
「……好きじゃないんですか?」
「真緒のこと?」
「はい」
「間違いなく恋愛感情はない、な。それに、人として好きかって言われると、それもなぁ………」
 え、それも悩んじゃうの。あんなに一緒なのに。
 私の顔をみて、隆二さんが苦笑いする。
「そういうのじゃ、ないんだ。好きっていうか、大切なんだ。恋人や家族と同じか、それ以上に」
 小さく微笑む。慈しむように。
「あいつがいるから、生きていこうと思えるんだ」
 それはすごい、台詞だと思った。
 生きていく理由を、真緒さんに見出しているなんて。
 それにほら、一人じゃ心配だしさ、なんておどけて続ける。
「もしも、世の中にある言葉で俺たちの関係を表現しろ、って言われたら、確かにそれは、あいつの言うとり、同居人、だな。じゃなかったら、同志、かな」
「……そうなんですか」
 私にはよくわからなかった。
 わからなかったのは、私にはない関係性だからだろう。そういう関係性を気づけたことが、うらやましい。
「……ま、あいつがどこまでどう思ってんのかはわかんないけどな」
 ぽつんっと、隆二さんが呟いた。
「俺が同居人で、満足してんのかね」
 ほんの少し、自信なさそうに呟かれた、言葉。
 あんなに仲良さそうなのに、どうしてそんなことを言うんだろう。
「あのっ」
「うん?」
「私、前、真緒さんのノート見ちゃって」
 言ってから失言に気づく。しまった、これは内緒にすべきことだった。
「あ、見ちゃったこと、内緒にして欲しいんですけど」
「あー、うん。あれな、真緒が図書館に忘れていったノート。あれ、なんのノートだったわけ?」
「読書記録ノート、だそうです。読んだ本の感想とか、書いているみたいで」
「へー、わざわざそんなことしてたんだ、あいつ」
 意外だなーなんて呟いている。
「あの、それで、『くまとやまねこ』覚えてますか? 真緒さんが、読みながら大泣きしていた……」
 私の問いに、隆二さんは少し悩むように視線を上に向けてから、
「……鳥が死ぬやつ?」
「それです。それの感想に真緒さん、書いてました。あたしは隆二のやまねこになれているだろうか、って」
 私の言葉に、隆二さんが意外そうに眉をあげた。
 傷心のくまを癒すやまねこ。そのやまねこに、彼女はなりたがっていた。
「あと『すてきな三人組』。あの、盗賊たちが、孤児を引き取るんですけど、ラストで。それには、隆二はあたしのすてきな三人組だって、書いてあって」
 引き取ってくれたことを言っているんだろう。
 『だるまちゃんとてんぐちゃん』にあった、隆二さんはだるまどんだって言う言葉。今ならわかる。
 どこかちょっとずれているけれども優しいから、精一杯、真緒さんのお願いごとを叶えて来たのだろう。
 今までも、これからも。
 隆二さんは、真緒さんの、魔法使いだから。
 灰にまみれたシンデレラを、舞踏会に連れ出してくれる、ドレスを与えてくれる、魔法使い。
「だから、真緒さんは、よかったと思っていると思います、隆二さんで」
 要領を得ない私の話を聞いて、隆二さんは視線を少し下に落とし、
「……そっか」
 眉間を軽く掻きながら小さく呟いた。
「……なら、いいんだ」
 顔をあげて、また小さく微笑む。
「うらやましいです、お二人が」
 そんなに近い距離感で生きていける人がいることが、とても。
 隆二さんはなんだか、少し、くすぐったそうに笑った。
「ああ、そうそう。それで、今日はどうしたわけ?」
 それから、我にかえったかのように尋ねてくる。
「いや、散々関係ない話した俺が言うことでもないけどさ。っていうか、ごめん、玄関先で」
「あ、いえ。すぐ帰るんで」
 あんな話を聞かされた後で、この人と二人っきりにはなりにくいし。
「あの、これ」
 持って来た紙袋を渡す。
「この前のお礼です。なにからなにまで、ありがとうございました」
「ああ」
 別によかったのにとか言いながら、隆二さんがそれを受け取る。
「……その後、どう?」
 ためらいがちに問われる。
「……まあまあです」
「そっか。まあ、無責任に聞こえるかもしれないが、無理しないでがんばれ。駄目になる前に、頼れ。俺としては本当、それしか言えない」
「……はい」
 頼れない。
 そうは思っていたけれども、頷いた。
「これ、ありがとう」
 おせんべいの紙袋を軽く持ち上げて、隆二さんが笑う。
「ここのせんべい、よく買うんだ。二人とも好きだから」
「ああ、ならよかったです」
「うん。あいつが帰って来たら、一緒に食べるよ」
 本当にありがとう、いえこちらこそ本当にありがとうございました、そんな会話をして、自転車の方に向かう。
「それじゃあ、また」
「ああ」
 自転車に跨がって、図書館へ向かい漕ぎ出した。
「あんまここに来るなよ」
 そんな言葉が聞こえたような気がして、振り返る。
 隆二さんはさっさと、家の中にはいっていくところだった。