ロー内恋愛ー26歳の男


 ヒロ君とはやっぱりたまに廊下で会う程度で何ら劇的なことは起こらない。
 前は、廊下でヒロ君が笑顔で手を振ってくれるだけで幸せな気分になったのに、段々欲深くなっていくなー。
 そんなことを思いながら、今日も夕飯前に帰宅。
 みんなやる気がない! っていうけれども、あたしは家でも勉強できるタイプなのだ。というか、家でも自習室でも同レベルの勉強しかできないともいえるけれども。
 どんな環境でも勉強できるというのが本来受験生のあるべき姿であって、自習室でなければ勉強出来ないというのはその時点で敗者だ。という自分を擁護するための意味不明な論理を今日も振りかざし、そそくさと帰宅する。
 駅に向かっていると、こちらに向かって歩いてくる同い年ぐらいの男の人が、あたしの顔をみて首を傾げるのを視界の端に捉える。失礼な人だなー、と顔をあげて、固まった。
「榊原、くん?」
 見知った顔の彼は驚いたような顔をして、小さく口を開けたままこちらをみてくる。
「西園寺さん?」
 こくり、と頷くと、彼は驚いたー、と小さく言った。それはこっちの台詞だ。
「えっと、元気?」
「おかげさまで」
 彼が笑う。記憶にあるよりも少しだけ高い背に低い声。そして、柔らかくて屈託のない笑顔。こんな笑顔を彼があたしに向けてくれるなんて初めてだ、と思った。
 高校時代のあたしが欲しくて欲しくてたまらなかった、彼の笑顔。
「西園寺さんは?」
「元気」
 榊原龍一。微笑みながら彼の名前を舌の上で転がした。それだけで甘酸っぱい何かがあふれてくる。高三の時、あたしが大好きだった人。暴走気味な気持ちでつっこんで、逆に嫌われてしまったけれども。
 うーん、青かったな、と苦笑い。ストーカーで訴えられてもおかしくなかった。
「今は、社会人?」
「まだ学生。医学部」
「ああ、そっか。お医者さんになるんだよね」
 彼は頷いた。
「覚えててくれたんだ、ありがと」
 4年以上の歳月で、彼は知らない間に高校生の男の子から大人の男の人になっていた。少しだけ低い声と言葉に不覚にもちょっとぐっと来た。
 でもなぁ、どうせ彼女いるんだろうし。
「カノジョさんは、お元気?」
 一応、ちょっと探りを入れてみると、
「おかげさまで、一応」
 彼は本当に嬉しそうな顔をした。
 本当は、あの時あたしがその顔を彼にさせたかった。本気で。
 高校時代にした恋愛はどれもお遊びで上っ面だけで、あんたはほれっぽいんだから! とこずちゃんには注意されていた。それでも、榊原君だけは、本当に本気だったと、あのときのあたしの持てる全てで本気だったと、誓える。
 でも、きっとそのカノジョには勝てない。彼は、現代の医学じゃ完治は難しいとかいわれるよくわかんないけど難しい難しい病気のカノジョのために、文系クラスだった高三に医学部に進むことを決めたのだ。そして本当に進学してしまったのだ。
 凄すぎだ、そんなに想われているカノジョが本当に本当に羨ましい。誰が、あたしのために医者になろうとしてくれるのだろうか?
「そう、じゃあ、幸せに」
 あたしは微笑んだ。
 ありがとう、と彼は答えた。
「西園寺さんは、今は?」
「法科大学院生」
「ほうか……?」
「ロースクールって言った方がいいかな?」
「……え、弁護士?」
 一拍を置いての驚いたような声。ひどいなーと笑う。まぁ、そんなイメージじゃなかっただろうけど。
「いろいろあってね」
「ごめんごめん。まあ、西園寺さん、頭はよかったもんね」
「そーでもないけど。まあ、頑張ってるよ」
「じゃあ、何かあったら頼むよ」
 何かあることなんて願っていないくせにな、と想いながらあたしはまかせて、と笑う。
 みんな「何かあったらよろしく」なんていうけど、本当は弁護士に関わりたいなんて思っていないなんてこと、知っている。
 自分の人生で弁護士に何かを頼むことなんてありえない。そう思っているからこそ、簡単に「何かあったらよろしく」なんて言っているのだ。
 知っている。
 それなのに、なんであたしは目指しているのかな。
「じゃあ、ね」
 それでも出来るだけ微笑みながら片手を挙げる。なんだかんだいって、彼には少しだけ大人になったあたしの、出来るだけ綺麗な顔を覚えていて欲しかった。例え、すぐに忘れてしまうとしても。
「うん。元気で」
 高校生のときから変わらない笑顔で、彼は頷く。
 さよなら、とあたしは去って行く彼に呟いた。
 きっと、もう二度と会うことはないだろう。さよなら、あたしの恋。


『へー、榊原にねー』
 電話の向こうでこずちゃんが驚いたような声を上げる。
『普通に喋れたんだ? よかったねー。あんた、超嫌われてたもんねー』
 オブラートに包む事なく、こずちゃんが告げる。
「……やっぱり、嫌われてた?」
『うん、露骨に嫌がってた。気づいてなかったの?』
「卒業してから、もしかして……とは思ってた」
 電話の向こうで、あっきれたという声が聞こえる。
『しかし、あいつマジで医者になるんだー。見直した』
「こずちゃんは、榊原君のこと嫌いだったよ、ね?」
 伺う様に尋ねると、
『だってなんかうさんくさかったんだもん』
「うさんくさかったって……」
 仮にも、クラスメイトに対してその評価はどうだろう。
『俺とか僕とか一人称を人によって使い分けて。それも別に悪くはないけど、普通それを対クラスメイトにする?』
「……そういえば、あたし、榊原君が俺って言うの聞いたことないかも……」
 それって、やっぱり距離を置かれていたってことか。
『でしょう? そういうのがなんかむかついたのよねー。まあ、私も若かったし』
 苦笑。
『幼なじみのカレシには相応しくないな、って思ったの』
 そして電話の向こうで早口で付け足された言葉。
「……え、え? 何それどういうこと? こずちゃん、あたしのこと心配してくれて」
『ああっと、煮物作ってるんだったまたねー』
 あたしの言葉を遮るようにして、こずちゃんが言い、通話が切れた。煮物って、絶対嘘でしょ……。さっき今日の晩ご飯は炒飯って言っていたじゃん。
 微笑む。
 高校生のころは、こずちゃんはとってもしっかりしていると思っていた。でも、今はまた少し別のことを思う。
 こずちゃんは、少しだけ感情表現が下手で、ぶっきらぼうだ。それから、照れ屋さん。
「なーんだ、心配してくれてたんだー」
 微笑んだまま、切れた受話器に向かって呟いた。