そして、今。ため息もつけないぐらい、息も絶え絶えになって走っている。 発車ベルが鳴り響くホーム。 あたしは階段を駆け下り、飛び込んだ。 直後、背後で閉まるドア。 それから、駆け込み乗車を注意するアナウンス。すみません。 思い立ったときから始めるべき! と行政法中間の勉強を始めたら、ちょっと楽しくなって夜更かししてしまった。はまると楽しいんだけど、普段はつまらない。 そして、案の定、寝坊。 「杏子ちゃん」 声をかけられて、びくっと顔をあげる。 この声は。 予想通り、そこに居たのは少し笑ったヒロ君だった。 「おはよう」 「お、おはようっ」 これは、同じ電車に乗り合わせたことを喜ぶべきか、駆け込み乗車が見られたことを悔やむべきか。 断然、前者だ。 「二限から?」 「そう」 「寝坊した?」 いつもよりもメイクが薄めの顔を指差して言われる。 たとえ、ばっちりメイクではなくても、同じ電車に乗り合わせたことを喜ぶべきだ。絶対。 「ばれた……」 肩をすくめると、くすくすと笑われる。少し呆れたように。 やばい、その顔はとっても可愛い。 ああ、本当、電車に飛び乗ってよかったな。最近ちっとも会えてなかったし。 こうやってゆっくり話すのなんていつぶりだろう。 なんて浸っていると、 「ヒロ……?」 背後からかけられる声。女の人の、どこか甘い感じの含まれた声。 ゆっくりと、ヒロ君が振り返る。 「敬子……」 甘い中に、苦さを放り込んだ、カカオ78%のチョコレートのような声。 「えっと、久しぶり」 敬子と呼ばれた女の人が微笑む。 「うん、久しぶり」 ヒロ君もそういって微笑むと、一歩あたしから距離をとった。 「今、何してるの?」 「学生」 「学生?」 「うん、ロースクール」 「ああ、ついにあきらめたのね」 敬子さんはくすり、と笑う。とても親しげで、意味ありげな笑顔。 「俺は絶対旧司で受かる! って言ってたじゃない」 「ああ、あれは、まあ」 視線を下に逃がし、気まずそうに笑うヒロ君。その顔はあたしが初めて見るものだ。その顔は、決してあたしには向けられることのないものだ。 そして、恋の勝率がものすごく低いあたしには、この状況下が把握できた。 これは元カノにうっかりであった、パターンだ。 どうしていつもこう、あたしはタイミングが悪いんだか。 「でも、ふーん、がんばってるんだ」 笑む。 それは大人の笑い方で、この笑い方をする人にはあたしは勝てない、と思い、そしてものすごく嫌みな笑い方だ、と思った。 中学のときの、高校のときの、大学のときの友達がたまにする笑い方にも似ている。少しだけ滲んで見える。「よくまあ、勉強頑張るよね、まだ学生なんて、何考えてるんだか」の感情。 「ん、まあ」 「そっか……」 敬子さんは微笑み、少しためらってから 「あのね、ヒロ、私……」 恋の勝率はものすごく低いくせに、恋ばかりしているあたしには何が起こるかあっさりと分かった。打率は低いのに打席に立ったことは人よりも多いんだ。 グロスではなく、口紅が似合う唇。その唇が何を言うか、想像がついてしまう。 出来ることなら、今すぐにヒロ君を連れてここから逃げ出したい。 ここから先を、ヒロ君に聞かせたくない。 それは、ヒロ君のためじゃなくて、あたしのためだけど。 「結婚、するの」 はにかむ彼女が鞄を持ち直す。先ほどまで隠れていた、左手の薬指にはきらりと光るものがあった。 ほら、やっぱり。 「へー、そー」 一拍の間のあと、答えたヒロ君の声は淡々としていた。 「おめでと、よかったね」 微笑む。微笑む彼は一歩、あたしに近づいた。 「あ、そうだ。紹介するよ。俺の今カノ。同じ学校の杏子ちゃん」 彼はそういうと、あたしの肩にそっと手を回した。 ぺこり、とあたしは頭を下げる。 そこで自然と話に乗れる程度には、あたしは空気が読めた。 「あ、そうなんだー!」 一気に敬子さんの声のテンションがあがる。多分、後ろめたさとかそういったものが消えたのだろう。 「へー、かわいいじゃーん」 「あ、ありがとうございます」 「ヒロ、よかったねー」 「まあ、ね」 二人の会話を聞きながら、あたしは出来るだけ微笑もうとした。早く、駅に着かないかと、願った。 早く早く、駅に着いて。あたしをここから逃がして。 泣きそう、だ。 |