ロー内恋愛ー26歳の男


 そして、今。ため息もつけないぐらい、息も絶え絶えになって走っている。
 発車ベルが鳴り響くホーム。
 あたしは階段を駆け下り、飛び込んだ。
 直後、背後で閉まるドア。
 それから、駆け込み乗車を注意するアナウンス。すみません。
 思い立ったときから始めるべき! と行政法中間の勉強を始めたら、ちょっと楽しくなって夜更かししてしまった。はまると楽しいんだけど、普段はつまらない。
 そして、案の定、寝坊。
「杏子ちゃん」
 声をかけられて、びくっと顔をあげる。
 この声は。
 予想通り、そこに居たのは少し笑ったヒロ君だった。
「おはよう」
「お、おはようっ」
 これは、同じ電車に乗り合わせたことを喜ぶべきか、駆け込み乗車が見られたことを悔やむべきか。
 断然、前者だ。
「二限から?」
「そう」
「寝坊した?」
 いつもよりもメイクが薄めの顔を指差して言われる。
 たとえ、ばっちりメイクではなくても、同じ電車に乗り合わせたことを喜ぶべきだ。絶対。
「ばれた……」
 肩をすくめると、くすくすと笑われる。少し呆れたように。
 やばい、その顔はとっても可愛い。
 ああ、本当、電車に飛び乗ってよかったな。最近ちっとも会えてなかったし。
 こうやってゆっくり話すのなんていつぶりだろう。
 なんて浸っていると、
「ヒロ……?」
 背後からかけられる声。女の人の、どこか甘い感じの含まれた声。
 ゆっくりと、ヒロ君が振り返る。
「敬子……」
 甘い中に、苦さを放り込んだ、カカオ78%のチョコレートのような声。
「えっと、久しぶり」
 敬子と呼ばれた女の人が微笑む。
「うん、久しぶり」
 ヒロ君もそういって微笑むと、一歩あたしから距離をとった。
「今、何してるの?」
「学生」
「学生?」
「うん、ロースクール」
「ああ、ついにあきらめたのね」
 敬子さんはくすり、と笑う。とても親しげで、意味ありげな笑顔。
「俺は絶対旧司で受かる! って言ってたじゃない」
「ああ、あれは、まあ」
 視線を下に逃がし、気まずそうに笑うヒロ君。その顔はあたしが初めて見るものだ。その顔は、決してあたしには向けられることのないものだ。
 そして、恋の勝率がものすごく低いあたしには、この状況下が把握できた。
 これは元カノにうっかりであった、パターンだ。
 どうしていつもこう、あたしはタイミングが悪いんだか。
「でも、ふーん、がんばってるんだ」
 笑む。
 それは大人の笑い方で、この笑い方をする人にはあたしは勝てない、と思い、そしてものすごく嫌みな笑い方だ、と思った。
 中学のときの、高校のときの、大学のときの友達がたまにする笑い方にも似ている。少しだけ滲んで見える。「よくまあ、勉強頑張るよね、まだ学生なんて、何考えてるんだか」の感情。
「ん、まあ」
「そっか……」
 敬子さんは微笑み、少しためらってから
「あのね、ヒロ、私……」
 恋の勝率はものすごく低いくせに、恋ばかりしているあたしには何が起こるかあっさりと分かった。打率は低いのに打席に立ったことは人よりも多いんだ。
 グロスではなく、口紅が似合う唇。その唇が何を言うか、想像がついてしまう。
 出来ることなら、今すぐにヒロ君を連れてここから逃げ出したい。
 ここから先を、ヒロ君に聞かせたくない。
 それは、ヒロ君のためじゃなくて、あたしのためだけど。
「結婚、するの」
 はにかむ彼女が鞄を持ち直す。先ほどまで隠れていた、左手の薬指にはきらりと光るものがあった。
 ほら、やっぱり。
「へー、そー」
 一拍の間のあと、答えたヒロ君の声は淡々としていた。
「おめでと、よかったね」
 微笑む。微笑む彼は一歩、あたしに近づいた。
「あ、そうだ。紹介するよ。俺の今カノ。同じ学校の杏子ちゃん」
 彼はそういうと、あたしの肩にそっと手を回した。
 ぺこり、とあたしは頭を下げる。
 そこで自然と話に乗れる程度には、あたしは空気が読めた。
「あ、そうなんだー!」
 一気に敬子さんの声のテンションがあがる。多分、後ろめたさとかそういったものが消えたのだろう。
「へー、かわいいじゃーん」
「あ、ありがとうございます」
「ヒロ、よかったねー」
「まあ、ね」
 二人の会話を聞きながら、あたしは出来るだけ微笑もうとした。早く、駅に着かないかと、願った。
 早く早く、駅に着いて。あたしをここから逃がして。
 泣きそう、だ。