硯さんを抱えて戻ると、お嬢様が安心したように泣き崩れた。
「硯さん、よかった……」
 お嬢様が近づいてくる。のに、
「あの、どこかここから近い部屋、貸してもらえますか?」
 渋谷は執事に向き直って尋ねた。お嬢様を避けたようにも見えるが、あるいはこいつに余裕がないだけかもしれない。
「こいつ、熱があるっぽいんで。頭と……、足も怪我しているみたいだし、寝かしておきたいんです」
 確かに硯さんの顔色は最悪だし、頭からでていた血は止まっているものの、右足首が腫れていた。
 しかし、犯人と目星をつけている奥様はさておき、旦那様じゃなくて執事に尋ねるとは。こいつ、外聞を取り繕うのをやめて、一番スムーズな話の持って行き方を選んだな。
 実際、旦那様は不愉快そうな顔をしているだけだし、奥様はおろおろしているだけで頼りになりそうはない。
「はい、それでは二つ隣の部屋をご用意します」
 執事もそんな主人の態度に慣れているのか、すぐに答えた。
「あとタオルもご用意した方がいいですね。お着替えは?」
「そうですね、お願いします。着替えは、自分のがあるんで大丈夫です」
「あ、あの、お手伝いします!」
 近づいたものの、さりげなく渋谷に距離を取られて困っていたお嬢様が、慌てたように宣言する。
「いえ、平気です」
 答える渋谷の声は、少し冷たい。
 あ、こいつやっぱり、さっきわざと距離をとったのか……。
「あ、でも洋服のお着替えとか……女性の方が……」
 お嬢様がごにょごにょ言うのを、
「俺、恋人ですよ? 今更裸を見られただのなんだの言う関係じゃない」
 ふっと渋谷が鼻で笑った。小馬鹿にするように。
 お嬢様の顔が不愉快そうに歪む。
 ああ、こいつ怒ってるんだ。その光景を見て思う。
 普段の渋谷だったら、こんななんでもないところで、それもお嬢様のような若い女性を怒らせるような言い方をするわけがない。犯人に対してカマをかけるときなんかは別だけど。
 この一家のせいで、硯さんがひどい目に遭ってしまった。それぐらいのことは思っているんだろうな。
「笹倉、ちょっと手伝ってくれるか?」
「あ、ああ」
 住人たちに、申し訳ないがもう少しここにいてくれと告げてから、渋谷の後を追う。
 執事は二つ隣の誰も使っていなかった部屋を開けてくれた。
「シーツなど、洗濯していないのですが」
「いえ、大丈夫です。ひとまずみんなからそれほど離れていないところに寝かせられたら、それで」
 言いながら、渋谷は優しく硯さんをベッドに寝かせる。
 執事の用意したタオルで彼女の顔をそっと拭いた。
「笹倉、悪いけど執事さんをみんなのところに送って、帰りに俺と茗ちゃんの鞄を持ってきてくれるか?」
「いえ、私は一人で戻れますから」
「念のためです」
 言葉こそ丁寧だが、有無を言わせない口調で渋谷が言う。
「そうですね。行きましょうか」
 執事をリビングに送り、二人の鞄を用意する。全然お前らの部屋、通り道じゃなかったけどな。
 ドアをノックすると、しばらくしてから渋谷がドアを小さく開けた。
「ほら。俺、ここで待ってるから」
 鞄を手渡す。どうせ今から着替えさせるんだろうし。
「悪い」
 渋谷はそれだけ言うと、また部屋に引っ込む。
 壁に背を預け、終わるのを待つ。
 あいつは本当に怒っている。珍しいぐらい。
 犯人に対してはもちろんのこと。そしておそらくだけど、硯さんを巻き込んでしまった自分自身に対して怒っている。
 あんまり思いつめなければいいけど。あいつ自身も言っていたように、悪いのは犯人なのだから。
 そして、犯人に少しだけ同情する。あいつをあんなに怒らせてしまったら、三人目の殺人は絶対に成し遂げられない。それよりも早く、あいつは謎を解く。
 もちろん、殺人事件なんて起きない方がいいし、これ以上罪を重ねない方が犯人のためにもいいのだろうけれど。
「笹倉、悪い」
 ドアが開いて、渋谷が顔を出した。
 部屋に入ると、着替えた硯さんが眠っていた。顔が赤い。
 怪我はどうしたのだろうか、と思ったら、割としっかりした救急セットのようなものが、渋谷の鞄の上に置かれていた。
「なんでそんな救急セット持ってるんだよ。そもそも、今日はただの旅行だったんだろ?」
「何があるかわかんないだろ。……だいたいは自分用になるんだよ」
 不愉快そうに呟く。
 ああそういえばこいつ、よく海に落ちたり、逆上した犯人に襲われそうになったりしてるもんな。体を張らざるを得ないのだろう。
「硯さん、平気そう?」
「結構熱が高いな。寒さもあるけど、怪我のショックもあると思う。足は折れてはないようだけど……、ヒビぐらいはいってるかもしれない。頭の方は血は止まっているけど……頭だから心配だし」
「そうか。だけど……」
 この屋敷にいる限り、医者にも見せられない。圏外だし、電話線は切られているし、つり橋だって落ちている。
「犯人をとっちめれば、帰れる道が見えるはずだ。さっさと終わらせて、茗ちゃんを病院に連れて行く」
 渋谷はそう断言した。
「でも、足りないって言ってなかったか? 事件を終わらせられるのか?」
「ああ。正攻法で謎を解くにはもうちょっと時間がかかる。だからもう、はったりと罠で切り抜ける」
 とんでもない発言をした。
「……あんまり無茶するなよ」
 不安になって忠告するが
「ああ、さっさと終わらせる」
 全然、会話がかみ合わない。頼むから、お前まで犯人に刺されるとかそういう展開はやめてくれよ。
「だから俺は、今から謎を解いてくる」
 渋谷は硯さんの額をそっと撫でると、
「笹倉、茗ちゃんのこと頼んでいいか?」
 俺を見て、問いかける。
「……俺が何かするとは思わないわけ?」
 真剣な顔に思わずまぜっかせすように尋ねると、
「お前は犯人じゃねーよ」
 フッと笑って立ち去る。
 そうじゃねーよ。俺が硯さんのこと好きなの、知ってるだろうが。
「信用なんだか、侮られてるんだか」
 まあ、何にもしないけどさ。
 椅子に腰掛けると、ベッドに眠る硯さんを見る。
「し……ん」
 寝言であいつの名前を呼ぶ彼女を。
 それになんだかうんざりして、視線を外す。女性の寝顔をジロジロ見るもんじゃない。
 謎解きの場から外された刑事は、ぼんやりと窓の外を眺める。
 今頃あいつは言っていることだろう。
「さて、皆さん」
 名探偵の見せ場だ。探偵のターンだ。
 あいつが犯人を間違えることはないだろう。今回は手駒が足りない段階での推理披露になるが、多少危ういところがあってもあいつは切り抜けるはずだ。
 そこは、信頼している。信用している。
 なんたってあいつは、名探偵の渋谷慎吾なのだから。
 心配してるのは、あいつが傷つかないかだ。肉体的にも、精神的にも。
 あいつのことを歩く死神だと思っているし、結構気にいらない部分もあるが、心配もしているのだ。
 事件に何度も関わって、何度も巻き込まれるなんて真っ当な人間がすることじゃないから。しかも、だいたいがタダ働きだしな。
「お前になんかあったら、硯さんが泣くだろ」
 素直に心配したのが気恥ずかしくて、誰が聞いてるわけでもないのに言い訳した。


第二章 刑事の場合