巡査部長に送られて、警察署の一階まで戻る。
「あ、いた、慎吾」
 受付付近にいた硯さんが駆け寄ってきた。
「時間が空いたから。気になって。解決した?」
「俺サイドでは。あとは、笹倉たちの仕事」
「それが大変なんだってば」
「ごめんね、笹倉くん」
「いえいえ、いいんですけど」
「仕事だからな」
「お前に言われると一気にむかつくの、なんでだろうな」
 そんな会話をしながら、玄関まで向かおうとしたところ、
 パシャパシャ!
 何かたくさんの音と光がして、そちらに視線を向ける。騒がしい。
 ちょうど、玄関を偉そうな人が出て行くところだった。それを取り込む人々。カメラ。必死にその人をかばおうとする警備員のような人。今のはカメラのフラッシュだったか。
「あー、例の政治家の汚職事件のやつか」
 つまらなさそうに巡査部長がつぶやく。
 なるほど、取り調べを終えて出てきた政治家を、マスコミが取り囲んでいる図、といったところか。
 シャッターとフラッシュが続く。
 がっしゃん!
 すぐ近くから別の音がして、私がそちらに視線を移すのと、
「茗!」
 慎吾が叫ぶのは一緒だった。
 流れるように私を巡査部長に預けると、座り込みそうになった硯さんの肩を支える。
 硯さんの足元にはカバンが落ちている。
 ああ、さっきの音は彼女のカバンが落ちた音か。
 慎吾に支えられた硯さんの、顔色は悪い。真っ白だ。
 どこか、目の焦点もあっていない。
「ダイジョウブ?」
「硯さん?」
 私と巡査部長が、状況がつかめないまま呟く。
 慎吾が硯さんの頬を両手で挟むと、自分と強引に視線を合わせる。
「茗!」
 それで、さまよっていた彼女の視線が慎吾に向き直った。
「あ……、シン」
 そのか細い声に、少し慎吾が安心したような息を吐く。
 そのまま、硯さんは両手で顔を覆った。
「ごめん、なさい」
 そんな彼女をなだめるように、慎吾が頭を撫でる。
「仕方ないよ。急だったから」
「ごめんなさい、大丈夫だと、思ってたけど」
「謝らなくていいから」
 慎吾にしては、真剣に心配そうな顔をしている。真面目な顔も、やろうと思えばできるじゃないか。
「大丈夫。油断していたから、びっくりしただけ」
 と、なんだか二人にしかわからない会話をする。
「あの、硯さん? 大丈夫ですか?」
 置いてけぼりの我々を代表して、巡査部長が問いかける。
「心配かけてごめんなさい、大丈夫」
 笑う硯さんの顔色はやっぱり悪い。慎吾の腕にすがりつくようにして立っている。
「貧血的なあれだよね」
 慎吾が言うと、硯さんが小さく頷いた。それは事実の確認というよりも、事実の強要のようだった。
 嘘だなと私も思ったし、巡査部長も思っただろう。しかし、賢い我々はわざわざここでその話を広げようとはしなかった。触れていいことと、悪いことの違いぐらい九官鳥にだってわかるのだ。
 納得できるかは別として。
「笹倉悪い、あとは大丈夫」
 慎吾が言う。それは、巡査部長をねぎらうというよりも、あとは放っておけという言い方に近かった。
 落ちた硯さんのカバンを拾い、巡査部長から私を受け取る。
 巡査部長は何か言いたげに慎吾を見て、硯さんを見て、もう一度慎吾を見てから、
「わかった。硯さん、お大事に」
 そのまま、自分の職場に戻っていく。その後ろ姿に少し視線をやってから、慎吾は置かれたソファーに硯さんを座らせる。
「ちょっと、休んでいこうか」
 そのまま、私を硯さんの横に置き、自分は彼女の正面にしゃがみ込んだ。
 子供にするかのように目線を合わせ、彼女の両手を握る。
「なんか飲む? 大丈夫」
「もう大丈夫。何年前だと思ってるの?」
「何年前でも辛いことは辛いよ。時間が経ったからこそ、辛いこともある」
 この二人はたまに、私には全くわからない会話をする。それはきっと、私が渋谷探偵事務所に来る前にあった何かに影響しているのだろう。
 いずれにしても、私にはわからないことである。知らないものは知らないのだから。
 それでも、こうやって私にはわからない話をしている二人を見ていると、硯さんが慎吾を好きになるのには、何か深淵な理由があるのだろうか、と思う。
 私が知らない、過去に何かがあったんじゃないか、と。
 ただの恋人同士、ではないのだ。きっと。
「でも」
 納得していないかのように、さらに言葉を重ねようとする慎吾を、
「……だけど、何かあったら助けてくれるでしょう?」
 硯さんが愛情のこもった声で遮った。
 慎吾がちょっと驚いたような顔をして、
「もちろん、いつでもウェルカムだよ」
 おどけて手を広げる。硯さんが笑った。嬉しそうに。
「なんだったら今からでもうちで……」
「まだ、仕事あるから」
 慎吾の言葉を硯さんはあっさり却下して、
「でも……今日、泊まりに行ってもいい?」
「もちろん」
 笑う硯さんの顔は、少しだけ血色が戻ってきているようだった。
 ここだけ見ると、比較的いつもの二人だ。
 しかし、何で警察署でいちゃついているんだ、このカップルは。

 名探偵という生き物がいる。
 それは職業ではない。生き物の名前だ。
 そいつは、世の中の難事件を解決し、喰らい、生きている。妖怪のようなものだ。
 見た目は人間の形をしているし、法律上も生物学的にも人間だが。それでも、名探偵がそういう生き物なのは間違いない。
 だから、名探偵の周りには不可解な事件がうようよしている。一度名探偵の物語に巻き込まれると、無事で逃げることは難しい。
 殺されるかもしれないし、殺すかもしれない。身近な人を失って、心を病むかもしれない。そうじゃなくたって、死体を、それも誰かにむりやり命を奪われた死体を見るなんて、普通の人にはあってはならない事態だ。
 硯さんや巡査部長のように、レギュラーとして振り回されるなんていうことだってある。
 至極、迷惑な男だと思う。我が主人ながら。
 名探偵ははた迷惑で、おぞましい生き物だ。
 それでも、この男もただの人間なのだろうな、と思う瞬間がある。それが、硯さんと一緒にいる時だ。仕事が絡んでいない時に二人は、ただのバカップルだ。
 何か、訳ありではあるようだが。
 だが、私にはわからない。尋ねることもできない私には、過去にあったことを知ることはできない。
 私が知っているのは、事務所に来た日以降のこと。あの日、別れようと硯さんが切り出したことからしか知らない。
 そう、確かにあの日一度、硯さんは別れを切り出したはずだ。なのに、なぜか今でも二人は交際を続けている。
 あの時、慎吾は殴られていたはずなのに……・
 何れにしても、今の二人はとても仲が良い。
 私にできるのはただ、今を見ることだけ。今の二人が幸せそうならば、ペットとして私も本望だ。満足だ。
 あとは、ちゃんとした名前で呼んでもらえるようになれば、言うことはない。


第一章 九官鳥の場合