そこから俺は、探偵事務所を開くための準備を始め、一方で他の女の子たちと縁を切り始めた。
 同じころ、茗ちゃんが司法試験の予備試験に合格した。今の司法試験は法科大学院を卒業するか、別に予備試験を合格するかしないと受験資格がなくって、俺は何も考えずに茗ちゃんも法科大学院に進学するんだろうと思っていた。
 けれど、彼女には大学の四年間と、大学院の二年間は長すぎたようだ。予備試験に合格して、次の年に受けた司法試験で合格した。
 頭がいい子だとは思っていたけれど、めちゃくちゃ優秀だと思った。大学在学中に司法試験合格とか。そして、本当に努力していたのだ。
 司法試験の合格発表の日、茗ちゃんに海辺に呼び出された。
「法務省まで見にいかないの?」
 法務省に合格者の番号が張り出されるが、それを見に行くのはやめたようだ。
「ネットでいい」
 短く言われた。
 合格発表は十六時。直後はなかなかサーバーに繋がらなかったりしていたようだ。
 呼び出されたものの、ちょっと離れたところにいて、と言われたので、砂浜に腰を下ろして、黙って海を眺めていた。近くにいても俺にできることはないし、待っているこっちも胃がキリキリしてくるし。
 ちょっと経ってから、俺に背を向けていた茗ちゃんが振り返る。顔がこわばっていて、それがどっちだかぱっと見にはわからなかった。
 在学中一回で合格する可能性の方が低いことを考え、慰めの言葉をなんとかひねり出そうとした俺の予想に反して、
「番号、あった」
 硬い声で彼女が答える。
 理解するのに一瞬間があって、
「マジで?!」
 理解したときには、妙に大きな声が出た。
 慌てて彼女に駆け寄ると、画面を見せてもらう。確かに彼女の番号があった。
「本当だ! すごい! やばい! 茗ちゃん、やったじゃん!」
 はしゃぐ俺に対して、茗ちゃんは無言で頷くと、なぜか靴を脱ぎだした。
「茗ちゃん?」
 怪訝に問う俺を無視して、茗ちゃんはそのまま海の方へガンガン進んで行く。服を着たまま、海の中へ。
「ちょっと、茗!」
 慌てて追いかける。茗ちゃんは俺を無視してガンガン進んでいき、突然顔を海につけた。
「うわぁぁぁ、何やってんだよ!!」
 慌てて腕を掴んで引っ張りあげる。
 なんだ、この奇行は!?
「しょっぱい」
 茗ちゃんが呟く。
「だろうね! ああ、もう、目にしみるでしょ」
 シャツを脱いで、それで茗ちゃんの顔を拭いていると、
「うん、しみる」
 茗ちゃんが、呟く。
「だったら、なんで……、茗ちゃん?」
「これは、海水の、せいだから」
 茗ちゃんはそれだけ言うと、俺の胸元に額を押しつけた。
 そのまま静かに泣き出した。
 ああ、本当にこの子は、どうしようもない。こんな時ぐらい素直に泣けばいいのに、海水のせいにしないと泣けないなんて。
「茗」
 隠したいだろうにだんだん大きくなってくる嗚咽。
 たまに聞こえる、お父さん、お母さんっていう言葉。
 彼女が七歳の時から背負ってきたもの。
「合格、おめでとう」
 耳元で囁くと、彼女はついに大声をあげて泣き出した。
 ああ、もう絶対この子を守っていこう。そう決めた。
 だからだろうか。夢の中に出てくる茗ちゃんにはいつも、蝉の鳴き声と潮の匂いがつきまとっている。
 俺はもう完全に他の女の子と手を切って、真面目に茗ちゃんと向き合っていくと決めた。それは俺が勝手に決めただけだと知ったのは、遺産相続が決まってから一年半ぐらいあとだろうか?
 晴れて探偵事務所のオープンが決まった日だ。
 前々から、事務所を開く時には何か看板犬のような動物を飼いたいと思っていた。犬はちょっと大変だし、と思っていた時に出会ったのがキューだった。ペットショップで売れ残っていた九官鳥。
 言葉を覚えすぎて逆に買い手がつかないと店主が言っていた。それが俺にぴったりだと訳もなく思った。
 そのまま連れて帰り、事務所の俺の机の隣あたりに置く。
「これからよろしくな、キュー!」
「ゴンベイ!」
 そうだ、あの頃からあいつは変な言葉を言っていた。誰か客が覚えさせたんだろうな。
 そうこうしているうちに、茗ちゃんがやってきた。オープン祝いと言って。
「よかったね、慎吾」
「ありがとう、茗ちゃんのおかげだよ」
 答えると、茗ちゃんは弱弱しく笑った。珍しく。
 そして、ちょっと言いよどむようにしてから、
「いいきっかけだから、私たち、別れない?」
 とんでもないことを言い放った。
 え、別れるって、何!?
「慎吾も事務所開いたし、私も司法修習始まるし、いい機会だと思うの。いつまでもこんな……過去にとらわれて傷の舐め合いみたいなことをしていても仕方ないでしょう?」
 知らなかった。茗ちゃんがそんなことを考えていたなんて。
 そして、そんなの絶対嫌だった。俺はもう、傷の舐め合いがしたいから茗ちゃんと一緒にいるわけじゃなかったから。本当に好きだったから、だから一緒にいたのに、そんなこと言われるなんて。
 パニクった俺が口にした言葉は、
「わかった。それじゃ別れよう」
 だった。
 あっさりとした別れの言葉に、茗ちゃんがちょっと泣きそうな顔をして、
「それで、今日からまた新しく付き合おう」
 俺は変なことを口走った。意味がわからん、と今なら思う。でもその時は、なんとかして別れたくなくて必死だったのだ。
「傷の舐め合いとかじゃなくて、本当に。俺、茗ちゃんのこと大好きだよ?」
 茗ちゃんはくしゃっと顔を歪めて、
「あなたは、何にもわかってないっ!」
 そのまま右手を振り上げると俺の頬を叩いた。
 ばっしん! と超いい音がした。
「ウヒョォ!」
 キューが変な声で鳴いたことは、よく覚えている。
 そうやって殴られたものの、最終的に俺の提案は受け入れてもらえた。茗ちゃんとしても、俺に好意を抱いてくれていたのは間違いないことだったから。
 それ以来、変な傷の舐め合いとかじゃなくて、普通の恋人として付き合っている。ちゃんと、茗ちゃん一筋で。
 一つ問題があるとすれば、探偵事務所を開いてしばらくしたころから、俺が完全に名探偵になってしまったことか。
 おちおち旅行にも行けやしない。
 以上、回想終わり。ちょっと長くなってしまった。
 とまあ、そんなわけで女遊びの激しかった俺は、ちゃんと付き合うようになった後は反省して自分ルールをいくつか設けた。
 寂しいからという理由で、彼女に手を出さない。あと、酔った勢いもなし。それから、事件を解決した夜、名探偵として仕事をした日もなし。
 そんな時は、ただ単に欲を満たすためだけに彼女を抱いたような気がしてしまうから。
 さて、そして今、俺の恋人は隣で眠っている。
 今日は土曜日。第三土曜日はもともとできるだけ予定を入れない約束をしている。茗ちゃんは真面目だから、仮に俺から連絡がない状態であっても無理になったら連絡をくれるはずだ。ということは、今日は茗ちゃんの予定は空いている。
 で、今日は事件を解決した日には、当たらない。
 寝起きの彼女はいつもより素直で、可愛い。
 二週間も離れていてしんどかった。
 とかなんとか俺が考えている間に、
「ん……、シン?」
 茗ちゃんが目を覚ました。
「おはよ」
 俺は微笑みかけると、身を屈めて頬と頬をくっつける。ちょっと体が痛かったけれども、我慢だ。
 茗ちゃんがくすぐったそうに笑う。普段ならなかなかしない、寝起きならではの顔だ。
 決めた。この後意識がはっきりした茗ちゃんに怒られるかもしれないけど、嫌がられないならしたいようにシよう。
 ということで、茗ちゃんの隣にもう一度寝転がった。

第五章 名探偵の場合