その日、帰宅したのは、日付変更間近だった。明日、土曜日を休みにしたいがために、強引に仕事を詰め込んだからだけど。
 そう思って小さくため息。
 第三土曜日は、なるべく空けるようにする。慎吾との約束だ。とはいえ、その本人が今不在なんだけど。便りがないのは無事な知らせ、そう思いたいけど。
 もう一度ため息をつきながら、玄関のドアをあける。
 一人暮らしの部屋。
 ただ、そこには明らかに私のものではない、それでも見慣れたくたびれたスニーカーが脱ぎ散らかされていた。
 苦笑ともため息ともつかないものが口から漏れる。
 自分の靴と一緒にそれをきちんと揃えると、部屋に入る。
 部屋には人の気配はなく、ただダイニングの灯だけは小さくついてた。
 テーブルの上には小さめに作られたおにぎりが置いてある。
「オカエリナサイ」
「ただいま」
 くーちゃんが出迎えてくれる。
「貴方のご主人様はどこ? くーちゃん」
 ふざけて問いかけながら、おにぎりを一つ頬張る。
「ゴンベイ! ゴンベイ!」
 おにぎりを食べながら、寝室の方に向かう。相変わらず、絶妙の塩加減と力加減で作られたおにぎりですこと。最後の一口を飲み込む。
 寝室のベッドの上には、泥のように眠る彼の姿があった。どこで何をやっていたのか。額と、腕に傷がある。
 ベッドの端に腰掛けて、その髪を撫でる。かろうじてシャワーは浴びたようだけど、濡れたままで、きっと明日の朝はすごい髪型になっているのだろう。
「……茗ちゃん?」
 うっすらと目をあけて、一瞬驚くぐらいかすれた声で呟かれた。
「ん。おにぎり、ありがとう」
「ん……」
 目は眠そうなまま。左手で手を握られる。
「……大丈夫?」
 色々聞きたいけど、それだけ告げる。
「うん」
 彼は微笑んでそれだけ言い、また目を閉じた。すとん、と左手が布団の上に落ちる。
 掛け布団を直し、その場を後にする。
 また傷を作って帰ってきて。
「駄目なご主人様ね」
 くーちゃんに笑いかける。夜だから布をかぶせて寝かせてあげる。
「おやすみ」
「オヤスミ」
 残ったおにぎりにラップをかけた。しまおうと冷蔵庫を開けて、息をのんだ。
 冷蔵庫にはきんぴらごぼうと、鮭の塩焼きと、冷や奴が用意されていた。
 ああ、もう……。
 おにぎりをしまうと、やや乱暴に扉をしめる。
 どこの世界に、二週間も連絡せず、帰ってきたと思ったら怪我をしていて、それも自分の家ではなく恋人の家に来て、大怪我をしているくせに料理をする馬鹿がいるんだ。ここにいるけど。
 きっとおにぎりは、私の帰りが遅くなった時点で夜食用に切り替えたんだろう。どういう細やかな気配りだ。
 本当にどうしようもない人だけど、気遣いだけは出来るんだから。そういうところが、本当憎らしいぐらい愛おしい。
 思わず舌打ち。
 連絡してくれれば、はやく帰ってきたのに。
「仕様の無い人……」
 言いながらも少しだけ口元が緩むのが自分でわかった。
 コンタクトを外して、化粧を落として、シャワーを浴びて。軽く髪を乾かして。日付はとうに変わっている。
 明日は休みだからゆっくり起きればいい。朝ご飯には、用意してもらった料理を二人でわけあって食べればいい。お昼にはなにか美味しいものを食べよう。
 どんな事件で、一体何があったのかはわからないけど、一人で抱えないで頼ってきてくれたのは嬉しい。
 目覚まし時計をいつもより遅い時間にセットする。
 セミダブルのベッドいっぱいをつかって彼が寝ているから、一瞬ためらったものの、ちょっとつっつくとすぐに避けてくれた。
 隙間にそっと滑り込む。
 よく見たら、背中にも湿布が貼ってある。
 心配させるな、ということだけは明日怒ってやろう。それぐらいの権利、私にだってあるはずだ。
 彼の手が、私の右手を掴んだ。
「……おやすみ……」
 起きているんだか寝ているんだかわからないけど、そういわれて苦笑する。
「うん、おやすみ」
 手をそっと握り返して、目を閉じた。。

 うつらうつらと夢を見る。
 あの、最終電車での光景。
 大学生になり、付き合いで行った合コンで慎吾と再会した。あの日の、帰り道、最終電車。
 座った私と、その前に立つ慎吾。
「あ、次で降りますね」
 そう言った私に、慎吾はそっかと笑った。
 慎吾は笑ったけど、彼がとった行動は、またねと手を振ることじゃなかった。
 電車が駅のホームに滑り込み、私が立ち上がろうとしたタイミングで、
「茗ちゃん」
 私の名前を呼び、ゆっくりと身を屈めた。
 近づいてくる顔に、あの時に私は、何を考えたのか素直に目を閉じた。それなりに人が乗った電車で何をしていたのか。今思い返すと呆れてしまう。
 ちょうどドアが閉まり、電車が動きだしたころ、慎吾は唇を離した。そして、
「終電、なくなっちゃったね」
 そう言って、いたずらっぽく笑う。
 もしも、人生の分岐点で選択肢を間違えたのだとしたら、あの最終電車でのことだったと思う。
 あのとき、いきなりキスしてきた慎吾を殴って強引に電車を降りるとか、そうじゃなくても次の駅で降りてタクシーで自宅に帰るのでもよかった。
 なんであれ、あの時慎吾の家までついていかなければ、今こんなことにならなかっただろう。
 私は名探偵なんていう人種にかかわることなく生きていけただろうし、もしかしたら慎吾も名探偵になんかならなかったかもしれない。
 でも、もしも、今またあの電車の中に放り込まれても、私は最寄り駅では降りないだろう。
 そんな気がしている。

第四章 弁護士の場合