大通りから一本中に入った、小さな個人経営の喫茶店。
 五月蝿すぎない、聞こえないわけではない、ちょうどいい音量のジャズ、人の少ない店、ほんのり薄暗い照明。
 特に窓際のこの席は心地よい。お気に入りの店だ。
 二杯目のコーヒーを飲み、一つため息。
 待ち合わせの時間から、そろそろ一時間半。
 机の上にだしたケータイには、さきほどメルマガが一通来ただけ。3回かけた電話への返事はない。
 日頃お世話になっている人へのお礼状は書き終えた。今日、休みなのに。有能過ぎる自分が怖い。
 もう他にここで出来る事も無い。持っていた本も読み終えた。
 カップに残ったコーヒーをぐっと飲み干し、あきらめて立ち上がる。コートに手を通そうとした、そのとき
 かっしゃん!
 派手な音を立ててドアをあけて、息を切らして入ってきた人物。ドアの近くに座っていた人に白い目で見られて、ぺこぺこ頭を下げている。
 あっきれた。
 そう思いながらも、コートは再び椅子の背に。
 すとん、と椅子に腰掛ける。
 向かいの椅子に置いてある鞄も、自分の方に引き寄せる。
 彼は私を視認すると、両手をあわせて拝むようなポーズをする。
 本当、相変わらず計算のようなタイミングですこと。
 マスターと一言二言言葉を交わすと、正面に座る。
「ごめん」
 もう一度、両手をあわせて頭を下げる。
「言い訳をどうぞ」
「寝坊しました。ケータイも充電切れてて」
「あっきれた」
 今度は口にだしてそう言うと、子どもみたいに頼りない、泣きそうな顔をする。泣きたいのはこっちの方だ。
 運ばれてくるのはアイスコーヒーと、紅茶とケーキのセット。
 私の前に置かれるケーキセット。季節のフルーツのタルト。甘過ぎるお菓子は好きじゃない。コーヒーは飲み過ぎて、そろそろ違う物が飲みたかった。
 理解されている。そのことを喜ぶべきか、それとも、この組み合わせをお約束として頼めるようになるぐらい、遅刻し続けた彼を罵倒すべきか。
 タルトは美味しい。
「ごめんね?」
 二口食べたところでもう一度告げられる。
「忙しいなら、別にいいのに」
「え?」
 どうしてそこで怯えたような顔をする。傷つくじゃないか。
「だから、仕事、忙しいんでしょ? どうせ昨日も遅くまで起きてたんでしょう? だったら別に無理しなくていいのに、ってこと」
 我ながら可愛くない言い方。これじゃあ、来なくていい、と同義語だ。忙しいのに来てくれてありがとう、嬉しい、っていうのが可愛い女だろう。
 でも、おあいにく様。そんな可愛い女じゃない。
「茗ちゃん、優しいね」
 可愛い女じゃないのに、にっこり微笑まれる。
「無理なんかするわけないじゃん。俺がどんだけ面倒だったり大変だったりすることが嫌いか、茗ちゃんよく知ってるでしょう?」
 どうしてそこで笑うんだろう。神経を逆なでするような言い方しているのに。
 最悪。遅刻されて怒っていいはずなのに、なんでこんなこと思うんだろう。そういうところが、好き、だとか。
「あと、仕事で寝坊って信じてくれるのがいいよねー。深夜までエロ動画見てて寝坊しただけかもしれないじゃん」
「そんな理由で、遅刻するようなアホと付き合っているつもりはありません」
 カップをとると、アールグレイの香りが広がる。
「茗ちゃんのそういうとこが好き」
 頬杖をついて、嬉しそうに微笑みながらそう言われて、口に含んだばかりの紅茶をふきだすところだった。
 どうしてこうも、恥ずかしげなくそういうことが言えるんだろう。
「あれ、照れた?」
 にやっと笑う。
「あきれただけ」
 なーんだ、と不満そうにいい、コーヒーを飲む。いくつだ、あんたは。
 私も、慎吾のそういうところが好きよ、とか言ったら、さぞかしびっくりするんだろう。絶対、言えないけど。
「でも、よかったー、ふられるのかと思ったよ、俺」
 わざとらしく息を吐く。ああ、だから怯えたような顔をするのか。
「そうね。何回目の遅刻かわからないしね。一時間半の遅刻に、あら今日早いじゃない、とか思っちゃったもんね」
「ごめん……」
「もういいよ。それより、食べる?」
 半分に減ったタルトをしめすと、嬉しそうにフォークをうけとった。
「ん、美味しい」
 そこでうまい、ではなく、美味しいをチョイスする言葉のセンスが好きだ。
 ぴょんっとはねた髪の毛。もともとくせっ毛だけれども、これは寝癖。それを愛おしいと思うと同時に、くせと寝癖が分かる自分にうんざりする。
 病的だ。
 彼の遅刻の最長記録は四時間。友達には馬鹿だと言われた。自分でもそう思う。
 それでも、どんなに遅刻されても待っているのは会いたいから。いつもの遅刻だろうと思っても、連絡が来ないと何かあったんじゃないかと不安になる。
 ばかばかしい。
 どんなになっても別れを切り出せない。それで嫌いになるぐらいの、好きでいることに疲れるぐらいの、そんな思いじゃない。
「映画、16時からのでいい?」
「うん」
 ケータイで席を予約してくれる。それを優しいと思うなんて、べた惚れにも程がある。
 毎回毎回、遅刻されるたびに今日こそは別れてやろうって思うのに、彼が来たらもうどうでもよくなるなんて。
 自分の馬鹿さ加減に内心ではうんざりしながらも、表面上は微笑んだまま紅茶を飲み干す。
 さよならは言えない。やっぱり、今日も。
 そして、言わなくて済んだことに、今日も感謝する。


さよなら、My dear.