ここなが目を醒ましたとき、一番最初に視界に入ってきたのは、黒髪の頭だった。
 事態が把握出来ず、首を傾げる。
 左手に巻かれた包帯に、眠る前にあったことを思い出し、眉をひそめた。
 いくらなんでも錯乱し過ぎていた、と少し冷静になって思う。京介には迷惑ばかりかけている。
「キョースケ?」
 小声で名前を呼んでみる。
 ベッドの脇の床に座り込んで、ベッドに顔を埋めるようにして、うつぶせで京介は眠っていた。
 その髪をそっと撫でる。
 さらさら、とこぼれる。意外と、髪の毛さらさらだな、とどうでもいいことを思う。
「ん」
 京介が小さくうめき、
「……ココ」
 顔をあげた。
「……あー、悪い、寝ていた」
 少し伸びをする。
「ううん、ありがとう」
 素直に微笑めた。
 京介は、眠る前のことなんて何でもないと言いたげに笑う。
「今は……、夜の七時か。微妙に長い事寝ていたな」
「ん」
「なんか食べるか?」
 京介の言葉に少し悩んで、頷いた。
 京介は満足そうに微笑む。
「なんか作るよ」
 京介は立ち上がり、ここなに右手を差し出す。
 ここなは少しためらって、素直にその手を握った。
「行こう」
 その手に導かれるようにして、ダイニングに向かう。
 こつん、と足が何かを蹴った。
「あ」
 それが何かを確認して、小さく声をあげる。
「ああ、そうだ」
 京介は優しく微笑むと、ここなが蹴飛ばしたジッポを拾い上げた。
「これ、ありがとう。凄く嬉しい。お礼、言えてなかったから」
 京介の手に握られたジッポは一つじゃなかった。
「あの、それ」
「お揃い、やったね」
 嬉しそうに京介が笑う。
 そして、ここなの方を手渡した。
「……うん」
 ここなは小さく頷く。
「ありがとう、ココ」
 本当に優しく、嬉しそうに京介が微笑む。
「ううん」
 そういえば、この顔がずっと見たかったのだと思いだして、ここなはゆっくりと微笑んだ。

 出来上がった炒飯を頬張る。
「ごめん、簡単なもので」
 謝る京介に首を横に振ってみせる。
「美味しい」
 ぱらぱらご飯をつつむような卵。
「本物みたい」
「本物ってなにさ」
 呆れたように笑う。
「ありがとう」
 頭を下げると京介は、少し困惑した表情をみせてから、
「どういたしまして」
 柔らかく微笑んだ。
「……ココ」
「ん?」
「これ食べたら、ちょっと出かけてきていいかな?」
「え?」
 思わずスプーンを取り落としそうになる。
 顔色を変えたここなに、京介は少し慌てて、
「商店街。明日のバイトのこととか、ちょっと確認」
「……うん」
 心細そうに頷くここなを見て、
「用事終わったら、すぐ帰ってくるから」
 ね? と子どもをあやすように笑う。
「……絶対ね?」
 下から伺うようなここなの顔に、
「もちろん」
 京介は力強く頷いた。

 心細そうなここなを宥めて、京介は家を出た。
 あの状態のここなを置いて行くことに、心配がなかったわけではない。
 けれども、眠る前よりは落ち着いているようだったし、何よりも行動するならば早い方がいい。
 地下道は避けて歩く。
 せっかく出会った場所なのに、穢された。そう感じた。
 足早に歩き、目的地に着く。
「いらっしゃいませ」
 笑う男に、
「店長か誰か、責任者呼んでもらえますか?」
 早口に告げる。
「……失礼ですが?」
 京介は男を正面から睨みつけた。
「ここで働いていた中曽根ここなの、恋人です」
 言い切った。

 見るつもりもないテレビから、明るい音がする。
「はやく帰ってこないかな」
 もう、何回目になるかわからない言葉を呟いた。
 左手首をそっと撫でる。
 好きだ、と言われた。自分の醜態を思いだして恥ずかしくなるものの、同時に京介の言葉を思いだす。
 嬉しい。
 出来れば落ち着いて、もう一度聞きたい。
 甘えている、と思う。
 図々しいとも、思う。
 自分は何もしていないのに、ただ京介から与えられているのを待っている。卑怯だとも思う。
 それでも、はやく帰ってきて欲しい。
 ソファーに倒れこむ。
 彼の匂いがして泣きそうになる。
 話したいことがたくさんある。謝らなければならないこともたくさんある。
 時計を見る。
 まだ三十分しか経っていない。
 寝室からもってきた熊のぬいぐるみを抱えると、小さくため息をついた。


 かちゃり、と鍵が開く音に、ここなは飛び起きた。
 いつの間にか、少し眠っていたらしい。
「ただいまー」
 彼の声。
「お帰りなさい」
 駆け寄って、抱きつく。
「わ」
 京介は少し驚いたような声を出したけれども、
「ただいま、ココ」
 すぐに優しく笑った。
 優しい。
 今日の京介は、優しい。
「バイト、休みもらったからさ」
「うん?」
「明日、出かけない? 一緒に行って欲しいところがあるんだ」
「うん」
 一も二もなく頷いた。
 京介が安堵したように笑う。
 彼が望むことならば、なんだってする。そういう気持ちだった。