結局、英輔さんは一週間経っても大和撫子に居た。つまり、マスターが折れたのだ。英輔さんは正式に大和撫子に雇われることになった。
 その前に、もう一度確認されたけど。
「理恵ちゃん、本当にいいの? 雇って」
「? 何が駄目なんですか」
「自分のこと不死者とか言っていて、怪しいから」
 さらっと言われた。
 ああ、そういえば不死者とか言っていたっけ? 接している英輔さんはごくごく普通で、……ごめんなさい、ごくごく普通は嘘だけど、甘いものを愛し過ぎている以外は普通の人だから忘れていた。
 今だって、客席でマスターに強請って作らせた餡蜜を食べている。普通サイズだけど。
「あれ冗談じゃなかったんですか?」
「冗談なら冗談で問題」
 それもそうか。
「変なこととかされてない?」
 信頼感零な発言をぶちかます。そこまで信頼感ないのに正式に雇おうとか思う辺り、やっぱり疲れているんだな……。
「されてませんよー」
 だから私は、その背中を押すように明るく笑い飛ばした。私がマスターの足枷になってはいけない。
「ちょっと変わってるけど、いい人ですよー」
「……ならいいんだ」
 ほっと安心したようにマスターが肩の力を抜く。
「本当にただの行き倒れか」
 そして小さく呟いた。まだ行き倒れていなかったけれどもね、時間の問題だっただろうけれども。あと、行き倒れの前に「ただの」っていうのは普通つかないだろうけれどもね。
「ならいいんだ」
 そう言ってマスターが笑う。
 その顔を見ると、やはり前よりも多少血色が良くなっている。やっぱり、無理を言ってよかったな。
 こうやって長々とマスターと喋るの久しぶりだ。今まで二人だったところが、三人になるのだから仕方がない。ちょっと寂しいけれども。
「……元気ないね?」
 そんな思いが顔に出ていたのか。マスターが怪訝そうに問いかけてくる。
「そうですか?」
 私は慌てて顔をあげて笑ってみせる。
「どうした、疲れた?」
「いえ、別に」
 疲れた、とか貴方にだけは聞かれたくない。
「……餡蜜でも食べる?」
 伺うような声色で言われた言葉に、思わず吹き出す。
「それで元気でるの、英輔さんぐらいですよ」
 マスターまで思考回路が英輔さん寄りになっているんじゃないだろうか。
「……それもそうか」
「でも、作ってくれるなら食べたいです」
 マスターが作ってくれた餡蜜なら。
「ん。じゃあ、いつも頑張ってくれる理恵ちゃんに特別サービスで作ってあげよう」
「英輔さんのあれは?」
「あれは可哀想な貧しい少年への施し」
「ああ……」
 否定も出来ずに苦笑い。
「あと三十分で閉店だから、そしたら食べてから帰りな」
 時計を見ながら言われた言葉に、
「はい」
 大きく頷いた。

 そして閉店後。海老茶式部から、セーラー服に着替えて、マスターが作った餡蜜を食べる。うん、美味しい。
 さっきまで餡蜜を食べていた可哀想な少年こと英輔さんは、マスターとカウンターの方で何かを話している。
 ああ、あの怠惰なマスターが作ってくれた餡蜜なんて、とても貴重だ。あ、写真とっておけばよかった。ちょっと食べちゃったけど、今からでも間に合うかな。
 慌てて鞄からケータイを取り出し、餡蜜の写真をとっていると、ちゃりん、っと音がした。聞き慣れたそれは、入り口のドアが開いた音。
「いらっしゃいませ」
 条件反射でそう言って、ドアの方を振り返る。振り返ってから、あれ、クローズの看板出したよな、と訝しく思う。
 入り口に立っていたのは、黒ずくめの男だった。身長が高い。二メートルぐらいあるんじゃないだろうか。枯れ木のようにほっそりしているのに妙な威圧感がある。
 いらっしゃいませ、を言ったまま、中腰になっていた私は、そのまま立ち上がるのも座ることも出来ず、スプーン片手に彼をじっと見てしまう。
「すみません、もう閉店なんですよー」
 言ったのは英輔さんだった。その言葉に、はっと我にかえる。じっと見たのは失礼だったかもしれない。ぱっと視線をカウンターの方に向ける。
 予想外に英輔さんは真剣な顔をしていた。いつもへらへら笑っているのに。
「お前は?」
 男の声は低い。少しざらついている。
「ただのしがないバイトです」
「……店長は」
「ゴミ捨て」
「呼べ」
 英輔さんはちょっと躊躇ってから、カウンターからキッチンへ身を乗り出す。いつの間にか、マスターはゴミ捨てのため席を外していたらしい。ゴミ捨て場は、キッチンの奥からでてすぐだ。
「さーわーむーらーさーん。なんかきたー」
 おおよそ、客商売で、お客様の前でするとは思えない呼び出しの言葉。普段ならば、先輩バイトとしてたしなめるところなのだが、今日はそんな気分になれない。
 営業時間外だし、そもそもこの男、本当にお客様なの?
「はぁ?」
 マスターの怪訝な声がして、次いで足音。
「何?」
 嫌そうな声で出て来たマスターは、男の姿を見ると顔を歪めた。
「なにしに来た」
「決まっているだろう」
 マスターが舌打ち。いつもだらだらしているマスターに相応しくない、真剣な顔。それに少し、怒っている?
 なんだか嫌な空気に、心臓がどきどきする。子どものころ、両親の喧嘩を見てしまった時みたいな気分。
 胸元のペンダントに手を伸ばすと、唇だけで呟く。ピラマ、パペポ、マタカフシャー。
「来るのはやい」
「営業は終わっただろう」
「だから良いってもんじゃねえだろ」
 いらいらとそう言うと、呆然と見ていた私に気づき、困ったように笑う。
「ごめんね、理恵ちゃん」
 なんで謝られたのかわからずに、それでも慌てて首を横に振る。
 マスターはまた、怖いぐらいの顔で男を見ると、
「表で話す。一旦外に出ろ」
 そう告げる。男は意外にも素直にそれに従った。ちゃりん、と鈴が鳴る。
「英輔。悪い、あと片付けといて」
「わかった」
「理恵ちゃんもごめんね」
「あ、いえ」
 よくわからないけれどもそう言う。私の方を見たマスターは、いつものマスターだったから。
「英輔、理恵ちゃん送ってあげて」
「へ?」
「はいはい」
 マスターの思いがけない言葉に、素っ頓狂な声をあげる私とは対照的に、英輔さんは当たり前のように頷く。
「え、え、私、平気ですよ?」
 そんなに遅い時間でもないし。いつものことだし。
「いいから」
「だけど」
「心配だから」
 マスターが真面目な顔でそう言うから、それ以上何も言えずに黙る。だって、心配されるのは、気にしてもらえるのは、嬉しいから。
 私が黙ったのを見てマスターは、少し満足そうに頷くと、
「餡蜜はゆっくり食べていいから。じゃあね、お疲れさま」
 片手を上げて、男と同じようにドアの外に消えた。
「お疲れさまですっ」
 ちゃりん、と閉まったドアに慌てて声をかける。一体なんだというのか。
 英輔さんの方を見ると、人でも殺しそうな鋭いまなざしでドアを睨んでいた。
「……英輔さん?」
 恐る恐る呼びかけると、
「なぁに?」
 いつものへらっとした笑顔をこちらに向けてきた。なぁに? は私の台詞だ。
「……今の、誰ですか?」
「理恵ちゃんが知らない人を、新米バイトの俺が知っているわけないじゃん」
 嫌だなぁーと英輔さんが笑う。
「嘘っ」
 知らないのにあんな対応をとっていたら、そっちの方が問題だ。
「なんか怪しいから警戒しただけだよ」
 へらへらっと笑われる。それから、
「餡蜜、食べなよ」
 それだけ言うと、片付けするからー、と言葉を残してキッチンの奥に消えていく。
 絶対なにかわけありだ。
 餡蜜を睨む。そこに答えなんてないけれども。
 どうしよう。実は借金取りとかなのかな。この店借金がたくさんあるとか。だってそんなに儲かってなさそうだし。
 マスター、困っているのかな。すごく真剣な顔をしていたけれども。
 溜息のような吐息がこぼれ落ちる。
 私には何も出来ないけれども、だからマスターが心配だ。
 残った餡蜜を口に運ぶ。
 なんだか味はよくわからなかった。