大鎌さんが帰ってから、一人でじっくり考えた。 考えると確かに、当日よりもマスターや英輔さんのことを怖いと思う気持ちも湧いてきた。あの悪夢も何回か見た。 あの人達が本気になれば、私なんてひとたまりもないのだろう。それはまぎれもない事実だ。 だけれども、あの人達が私に対して本気になることなんてあるのだろうか? そこが想像できない。私に襲いかかってくる状況というのが、想定できない。 英輔さんはまあちょっと、倫理観ずれてるなーって思うところがあるけれども……。 でも、マスターに対してはそんなこと思わない。不真面目で怠惰で駄目な大人だなぁ! と苛々することの方が多いけれども、それでもマスターは、人間の私と同じ倫理観を持っている。 それはつまり、人殺しをタブーとしている、ということ。人に危害を与えることを罪だと思っている、ということ。 それならば、何も問題はないんじゃないだろうか。 もしも、マスターがなんらかの理由で私に殺意を抱いた時、マスターがただの人間でも、私はきっと太刀打ちできない。男のマスターに、女で子どもの私が太刀打ちできるわけがない。 つまりそれって、なんにも変わってないってことじゃない? 私がマスターに殺される危険性は、マスターが人間でも狼男でも変わらなくって、そしてマスターがそんなことする人じゃないこと、私はよく知っている。 あの牙や爪が私に向けられるわけないってこと、知っている。 第一、このままさよならなんて、できるわけなかった。 大和撫子の再営業開始の日、土曜日で学校が無かったから、開店前に店に向かった。 ドアの前で一度深呼吸。ペンダントを握って、心落ち着かせる。 大丈夫、もう迷わない。 ドアをあけると、ちりん、っと聞き慣れた音がした。 「すいませーん、まだでーす」 接客業としてあるまじき適当な声が飛んで来たが、声の主は私を見るとああ、と笑った。 それから、ちょっとそこに座っていて、とキッチンから死角になる席を指さされる。意味がわからなかったが、素直に言われるまま座った。 店内はすっかり綺麗になっていた。二人で片付けたのだろうか。手伝えなかったことを申し訳なく思う。 英輔さんは、そのまま、 「さーわーむーらーさーん」 と相変わらずな適当さでフロアからキッチンへ呼びかける。 「なんだよ。無駄話はいいから、掃除したのかよ」 マスターの声だけがキッチンから帰ってくる。 「してるしてる」 と、帚を適当に揺らしながら英輔さんは答えた。してない……。 「ねー、沢村さん。確認したいんだけどさ」 英輔さんがカウンターからキッチンへ身を乗り出す。 「なんだよ」 マスターの声だけが聞こえる。フロアの方を見る様子はない。 「理恵ちゃんのこと、本当にいいの?」 「……いいんだよ」 低い声でマスターが答える。 「本当に?」 「英輔、お前しつこい。何回目だよ、それ。この一週間ずっと言ってんじゃないかよ」 「俺はね、沢村さん。心配して言ってあげてるの。大切なものを、一時の気の迷いで手放すと碌なことにならないよ?」 「見てきたような言い方だな」 「だって見てきたもん。あ、俺じゃないよ? 俺の知り合い。俺と同じような化け物で、人間の女に恋したけど、化け物の自分がこれ以上一緒に居られないとか一人で思い悩んで、結局死に別れて、ずぅっと長いこと引きずってるバカがいんの」 へらへらとした口調で、なんだか結構すごいこと言ったな、今。 「バカだよね。相手は別にそいつのこと化け物だから嫌だ、とか言ったことないのに。化け物であることを知っていて、受け入れて、一緒にいるのに。勝手に負い目を感じて、大バカだ」 へらへらとした横顔だけど、口調が少しだけ真剣味を帯びた。 「結局、そいつも、相手の女も幸せになれない」 断罪するかのように英輔さんが言った言葉に、マスターは少し沈黙してから、 「俺は、別に、後悔とかしてないし」 ごにょごにょと小さい声で呟いた。 「沢村さん、その言い方じゃ、驚く程説得力ないよ」 英輔さんが呆れたように言う。それはまあ、確かに……。 「ね、沢村さん、答えて」 「なにを……」 「あの時の質問の答え。沢村さんが言いかけたこと」 「言いかけた?」 「あの犬畜生を前にして、俺、沢村さんに言ったよね? 大切なものを守るためには手段を選ぶべきではなく、邪魔するものは排除できるうちに排除して、化け物であることを最大限利用して守るべきだって。犬畜生を生かしておかなくていいんじゃないか、って。あの時の沢村さんの考え、俺、まだ聞いてない」 ああ、そういえばそうだ。ちょうど、警官が来たから途中になったマスターの言葉。「それでも、俺は」の続きの言葉。 「それ、今関係あるか?」 マスターの嫌そうな声。 「あるよ」 「どんな風に」 「俺が納得できる答えを提示してくれるならば、俺はもう理恵ちゃんのことでとやかく言わない」 マスターは沈黙した。 私からはマスターがどんな顔をしているのか、全然わからない。想像もつかない。 「……確かに、英輔の言うとおりだと思う」 しばらくして、マスターはゆっくりと話だした。落ち着いた声が、たくさんの言葉の中から最適なものを選ぶように、慎重に言葉を紡いでいく。 「あいつのこと、殺してしまえば、話ははやいっていうのは、わかっている。先に襲ってきたのは向こうだし、上手くいけば正当防衛にみせかけることもできただろう」 「うん、俺ならそれぐらいできたね」 「だけど、それじゃあ駄目なんだよ」 どこか諦めの混じったような声。 「事態を解決するために、実力行使に訴える。それじゃあ、ただの知性のない化け物じゃないか」 英輔さんは何も答えない。ただ、薄く微笑んでいる。 「俺は、ただの化け物にはなりたくないんだよ」 穏やかではあるけれども、力強い声。なんだか、祈りの言葉みたいに聞こえた。 「人間とあやかしとを繋ぐ存在で俺はありたい。そのためには、俺はただの化け物になっちゃいけないんだ」 「人間でありたいと?」 「そこまでは言っていない。狼男としての自分も、大事にしたいと思っている。ただ、ルールは守りたい。そう、血と同じで半分ぐらいは人間として、人間のなかで生きていきたいんだ」 はっきりとマスターは言い切った。 「なるほど、ね」 カウンターに頬杖をついて、英輔さんが呟く。自分で聞いておきながら、驚く程気のない言い方。 「納得したか?」 面倒くさそうなマスターの声。 「うん、したした」 「じゃあ、もういいよな。この話はこれで終わり」 「うん、そうだね。俺はもう、理恵ちゃんのことで沢村さんにとやかく言ったりしないよ、俺はね」 そこで英輔さんは、なんだか悪戯っぽく笑った。俺はね、になんだか力がこもっていたい。 「……なんか含みのある言い方だな」 「うん。ところで沢村さん、人が来ているんだけれども」 さらりと、英輔さんが言う。右掌で、私が座っている方を示しながら。 「はぁ?」 マスターの怪訝な声と足音がする。カウンターからでてくるみたいだ。 英輔さんがお膳立てをしてくれたのだから、ここからは私ががんばるところだ。立ち上がって、マスターを待つ。 「なにが、……理恵ちゃん」 キッチンが出て来たマスターは、私を見ると強張った顔をした。 「なにしに来た」 わざとらしく、怖い顔を作って言うマスターに、 「クビとか納得できないんですけど」 挑むように答えた。 「もう、ここには来ない方がいい」 「あやかしと人間のための店なのに、人間の入店を拒否するんですか?」 「理恵ちゃんっ」 懇願するようなマスターの声。 「この前のことでわかっただろう。俺は人間じゃない」 「半分は人間として生きていくんじゃないんですか?」 さっきマスターが言ったばかりのことを繰り返してみせると、マスターは表情を歪めた。悲しそうにも悔しそうにも見える。 「それは、そうだけど……。だけど、もうここには来ない方がいい。また巻き込んでしまう前に。頼むから」 それから、泣きそうにも見える。 「もう来ないでくれ」 必死に言われた言葉は、拒絶じゃない。ただの優しさだ。それから、ちょっと臆病。 マスターは私が嫌いで距離をとろうとしているんじゃない。心配してくれているのだ。それがわかったから、マスターの言葉に傷ついたりしないし、その言葉を素直に受け止めることもできない。 私の決意は、もう揺るがない。 「沢村友哉さん」 初めてフルネームを呼びと、マスターの顔が驚いたものに変わる。雇い主であるマスターとしてじゃなくて、私は一人の人間として、ひとつの生き物として貴方と接したい。 「沢村友哉さんのこと、私、怖くないです。ううん、まったく怖くないって言ったら、嘘になるけど」 だけど、としっかりとマスターを見つめる。 「私の好きは、怖いになんて負けません」 目を見てしっかりと言い切った。 「私はこの店が好きだし、この仕事が好きだし、のっぺらさんにはまたねって言われたし、それに」 貴方のことが好きです。という言葉は、さすがに言えなかった。 「マスターは巻き込むことが怖いっていうけど、それって他のあやかしのお客様に失礼だと思います。あの人達は、人間じゃないからって私に危害を加えたり、絶対しない」 みんないい人達だ。優しい人達ばかりだ。 「あやかしだから人を襲うんじゃない。理性を越える程のなにかがあって人を襲うんです、あの黒男みたいに」 あの動機も私からしたらしょうもないものだけれども、あの黒男としては重要なことだったのだろうし。 「それって、人間だって同じだと思います。人間に危害を加える人間だってたくさんいます」 マスターは泣きそうに眉を寄せたまま、黙って私のことを見ていた。 「ここにいたからって変なことに巻き込まれるって決まったわけじゃないのに、拒絶しないでください。そんな未来を勝手に描いて、遠ざけないでください」 胸元のペンダントを握る。 「どうしても心配だっていうなら、私にはこれがあるし」 万能ではないかもしれないけれども、軽く身を守ることぐらいはできる。万が一に備えて。 「私は自分のことを、この店を人間として繋ぐ、重要な存在だと思っているんですけど、違いますか?」 マスターは黙って私の話を聞いていたけれども、ゆっくりと左手を額にあてた。顔が俯く。 「……本当に、平気なの? 怖くないの?」 「平気ですよ。マスターの牙も爪も私には向かないって、私、勝手に自信を持ってますから」 「俺は、半端な狼男なのに? 理恵ちゃんを危険な目に遭わせたのに?」 「守ってくれたじゃないですか、この前。あれ、嬉しかったです」 ありがとうございます、と微笑む。それから、 「あと、そんなことよりも、仕事しない怠惰さを恥じてください」 いつものように言い返すと、マスターは一度両手で顔を覆い、 「ありがとう」 一つ息を吐くようにして、そう言った。 ゆっくりとマスターの顔があがる。もう泣きそうな顔はしていなかった。 「本当は、理恵ちゃんにはやっぱり居て欲しかった。だけど、怖くて。理恵ちゃんに怖がられるのも嫌われるのも、怖くて。だから、距離を置こうと思ったんだ」 真剣な顔で、声は少しだけ震えていたけれども、しっかりとマスターが言った。 「マスターは意外とびびりで情けないですからね」 「……なにそれ」 「って、大鎌さんが言ってましたよ?」 くすくすと笑いながら言うと、三恵子のやつとマスターが毒づいた。 「お仕事さぼってばっかりで情けないマスターとこの店のこと、私がちゃんと面倒みてあげますから、安心してください」 普段どうしようもなく情けなくても、仕事さぼっていても、本当はすごく頼りになって優しいことを知っているから。大好きだから。 「そいつは百人力だね」 戯けたようにマスターが言葉を返してきた。いつものようなやりとりに安心する。 「ありがとう。嫌になったらいつでも言って」 「嫌になんてなりませんよ」 進学とかの関係で辞めることになっても、客としてきてやるんだから。 黙って成り行きを見守っていた英輔さんが、話がまとまったところを見計らって、ひゅーひゅーと指笛を吹いた。オヤジか。 「それじゃあ、着替えてきますね」 微笑んでそう言うと、マスターの横を抜けて更衣室に向かう。 海老茶式部の制服はきちんとそこに置いてあった。それから、新しい白いエプロンも。それに少し微笑む。 エプロンがあるってことは、私に帰って来て欲しいと思っていたんでしょう? 慣れ親しんだそれに、袖を通し戻って来ると、 「やっぱり、理恵ちゃんがいないとねー」 英輔さんが楽しそうに笑った。 「華がないよね、ね、沢村さん」 マスターはなんだか曖昧に頷く。あれはきっと、照れている。ふふっと笑う。 さあ、開店の時間だ。 ちりん、とドアのベルがなる。 「いらっしゃいませ!」 |