「ねぇ、知っている? 理沙ってば、エンコーしてるらしいよ」
「えー、うそ、マジ? っていうか、今時?」
「大人しい顔してねー」
「でも、ほら、理沙って、千枝のカレシとったんでしょ?」
「ああ、噂で聞いた!」
「マジビッチ」
 きゃぴきゃぴと、クラスの女の子達が、教室の後ろの方で楽しそうに話している。朝のさわやかな風に似合わない、黒い話題。
 窓際の一番後ろの席。そこは、噂の主、七瀬理沙の席だ。その机に腰掛けて、紺ソに包まれた足をゆらゆらと揺らしながら、楽しそうにあの子達は話している。
 がらり、と教室の後ろの扉をあけて、七瀬理沙が入って来たときも、話は終わらなかった。あの子達は、確かに一瞬ちらりと理沙を見たけれども、それでも話をやめなかった。
「どんだけ、男好きなのって話」
「でも、千枝の元カレと付き合ってないんでしょ?」
「だから、遊びで盗って捨てたんでしょ」
 そこで、一拍、間をおいて、
「理沙のやつ」
 はっきりと、一音一音言葉を発した。
 出て来た自分の名前と、内容と、それから占拠された机に、理沙の顔が歪む。泣きそうにも見えるし、怒っているようにも見える。
 普段から白いその肌は、よりいっそう青白く見えた。
「あんな清廉潔白、みたいな顔して」
「大和撫子っぽいって、男子が言ってたのに」
「男はああいうのに騙されるからー」
 けらけらと、笑い声。
 理沙が、染めたことのない、黒い綺麗な長い髪をそっとひっぱった。何かから逃れるかのように。
 そのまましばらく、机から離れたところで困ったように俯いていたが、
「あの!」
 突然、意を決したかのように声を発した。
 あの子達の視線が、理沙に突き刺さる。
「こわっ」
 私の隣の席の、男子が呟く。
 朝の喧噪の中にあった教室が、一瞬静まり返った。
「わ、わたし、そんなことっ、しないからっ!」
 上擦った声。小さかったけれども、教室中に響いた。
 沈黙。
 体の真横で握られた、理沙の拳が震えている。
 沈黙を破ったのは、リーダー格の子の、
「で?」
 という一言だった。
 ぞっとするぐらい、冷たい目。
 理沙が、怖じ気づいたかのように、一歩、後ろに下がった。
「あんたが、それは嘘です、違います、って言って、あたしたちが信じると思ったの?」
「そんなの素直に認めるやついるわけないじゃん」
「無実なら堂々としていればいいのに」
「慌てるなんて怪しい」
「どうせ、本当の事なんでしょう?」
「火のないところに煙はたたないっていうもんね」
 口々にそう言って、げらげらと笑う。
 何か、言葉を探すかのように理沙の唇が二、三度動いて、結局泣きそうな顔で閉じられた。
 まったく、どうしようもない。
「それぐらいにしといたら?」
 廊下側の一番後ろの席から声をかける。
 さっきから、わざわざ横向きに座ってまで、ずっと見ていた私のことには気づいていなかったらしい。あの子達は、少し驚いた顔をした。それから、
「なに、友子」
 不満げに歪められた眉に、
「そろそろ先生、来るよ」
 わかりやすく事実を告げる。
 どんな言葉でいさめても、届かないから意味がない。これが一番、効くのだ。
「あ、ほんとだ」
 時間を確認すると、素直にあの子達は自分の席に戻って行く。
 空いた席に、幾分ほっとしたような顔をしながら理沙が鞄を置いた。
「女子こえー」
「なー。でもマジどーなん? 七瀬って、そーなん?」
「知らんよ」
 男子がこそこそと話をしている声が聞こえる。
「でもまあ、火のないところに煙はたたないっていうしなー」
「それさ、俺、ずっと非道の非だと思ってたんだよね。非がある、悪いところがあるから噂話されるんだって思ってた」
「はぁ? お前、バカだろ」
「いや、でもそれはあるんじゃね? ほら、いじめられる方も悪い、っていうだろ?」
 男子の会話を聞き流しながら、ブレザーのポケットから赤い携帯電話を取り出す。
 がらり、と前のドアをあけて先生が入って来たから、机の下に隠すようにしてメールを打つ。
 理沙へ。気にしなくていいよ。人の噂も七十五日。
 送信。
 真面目な理沙は、先生がいるときには決して携帯電話を見ない。それが例え、朝のショートホームルームの時であっても。
 先生が去って、一時間目が始まるまでの僅かな時間に、理沙はメールを確認したらしい。
 ありがとう、友ちゃん。友ちゃんが居てくれるから、わたし、頑張れる。
 そんなメールが来ていた。
 視線を送ると、窓際の理沙が、小さく微笑んだ。
 理沙はまだ、小さく微笑むことが出来ていた。

 理沙の噂が広がり始めたのは、高校二年になった、五月のころのこと。
 人の男を盗った。
 カンニングしている。
 万引き常習犯だ。
 援助交際をしている。
 誰が言い出したのかは定かではない。噂なんて、そんなもんだ。
 皆が皆、信じているわけでもないだろう。
 噂を広めている子達だって、本当は信じていないのかもしれない。ただ、暇だから。何か楽しいことが欲しいから。他人の悪口は盛り上がるから。だから、話している子もいるだろう。
 それでも、次から次へと出てくる悪い噂は、少なくとも七瀬理沙はそんな噂をされるような人物だ、誰かに恨まれてそんな噂話を作られるのだ、と思わせるには十分だった。
 そして、この学校という社会において、誰かにそこまでの悪意を向けられているというのは、迫害するに十分なのだ。
 火のないところに、煙はたたないのだから。
 私は、あの噂が全部でたらめだって知っている。
 理沙とは、幼稚園からの付き合いなのだ。
 理沙が、噂のようなことはしないって、知っている。

「七瀬」
 お昼休み、いつものように理沙と屋上でご飯を食べようと、立ち上がる。理沙も同じように、お弁当を抱えて立ち上がったところ、クラスの男子が声をかけた。
「……石川くん」
 理沙が驚いたような顔をする。
 彼は、サッカー部のレギュラーとかで、女子に人気がある。そんな彼が、嫌われ者の理沙に声をかけたことに、教室が少しざわめいた。
 視線が、二人に集まる。
 私も、皆と同じように二人を見ていた。
 彼は、何を言うつもりなんだろうか。
 理沙が怯えたように身構えたのがわかった。
 なにか、意地悪でも言うつもりだろうか。
 けれども、彼の口から出たのは、予想に反して、
「がんばれ」
 力強い、そんな言葉だった。
「え?」
 理沙が驚いたような顔をする。
 噂をしていたあの子達も、同じような顔をしていた。
「俺、女同士のことはよくわかんないけど、負けるな」
 はきはきとした声で、彼はそう言う。
「俺は、七瀬のこと、信じてるから」
 僅かに朱色に染まった頬が、彼がなんのためにわざわざこんなことを言い出したのかを、指し示していた。
「それだけだから」
 逃げるようにそう言い切ると、理沙に背を向けて、彼は教室を出て行こうとする。
 そして、完全に外に出る直前、吐きすてるようにこう言った。
「噂話とか、くだらねーの!」
 そして、ぴしゃり、とドアが閉められる。
 しばらくの沈黙のあと、教室はまた、ゆっくりとざわめきを取り戻していく。
「え、何、石川くんって理沙のこと好きなの?」
「え? やっぱり、そういうことなの」
「……石川が言うと、噂話で盛り上がってた俺等、恥ずかしいな」
「なんか、な」
 彼の投げた石は、教室に波紋を広げて行く。
「理沙」
 ぽかんっと、間抜けな顔をしたままの理沙に近づくと、その手を掴んだ。
「友ちゃん」
 そして、波紋から逃げるように教室をあとにした。

「理沙、大丈夫?」
 屋上でお弁当を広げても、理沙はぼーっとした顔でどこかを見ているだけだった。
「……友ちゃん」
 目の前の私のことも、今ようやく目に入ったみたい。ゆるゆると、視線がこちらに向く。
「石川の言うことなんて、気にしなくていいよ」
「……うん。だけど」
 理沙の白い肌が、ほんのり赤く染まる。
「嬉しかった」
 頬の熱を逃がすかのように、両手を頬にあてて、そっと息を吐く。
「わたしのこと、わかってくれる人がいるんだなぁーって」
 うっとりと呟いてから、
「あ、でもね、友ちゃんが一番だよ?」
 慌てたように理沙が言う。
「いいよ、そんな取り繕わなくって」
「そうじゃないよ! 友ちゃんが、わたしのこと一番わかってくれているよ。いつも、味方になってくれて。幼稚園のころから、ずっと」
 言いながら、理沙はにっこり微笑んだ。
「本当、友ちゃんが居てくれて感謝しているの。友ちゃんが同じ高校でよかった」
「ん」
 まっすぐにそう言われて、なんだか照れくさくなって、視線を下に逸らす。
「お弁当、食べなよ」
「あ、うん」
 いただきます、と言ってから、理沙はお弁当を食べ始めた。
「でもね、理沙」
「うん?」
「石川のこと、あんまり信用しすぎない方がいいよ」
「どうして?」
「だって、男子の考えてることなんて、わかんないもん」
「……そうかなぁ」
「理沙」
 少し強い調子で名前を呼ぶと、理沙がびっくりしたような顔をした。
「理沙のことを思って言っているの。あんまり、信用し過ぎると、酷い目に遭うかもしれないよ?」
「……うーん。石川くんはそういう人じゃないと思うけど」
 ごにょごにょと、小声で理沙は何かを言っていたが、
「友ちゃんが言うなら、そうする」
 小さく頷いた。
「うん。そうして」
 ほら、お弁当食べよう、時間なくなるよ。そう、私は続けた。
 お昼を食べながら、鞄の中の青い携帯電話に思いを馳せた。

 次の日、私達の教室は、朝から騒がしかった。
「なんだよ、七瀬のやつ、信じられねぇ!」
 叫んだのは、石川だ。
「ふざけんなよ!」
 苛立ったように彼が言ったその瞬間、七瀬理沙が入って来た。
 いつものようにおどおどと入って来た理沙に、教室中の視線が集まる。
「え?」
 怯えたように、理沙が立ち止まる。
「七瀬!」
 一声吠えて、石川が理沙に歩み寄る。
「おまえ、やっぱり噂どおりの最低なやつだな!」
「え、なにが……」
「とぼけんなよ!」
 石川が理沙に突きつけたのは、数枚のコピー用紙。
 理沙が困ったようにそれに目を落とす。
 クラスの皆は、それぞれ同じようなコピー用紙を持っていた。教室の前の黒板にも貼られている。
 そこにあるのは、あるブログの印刷。
 昨日の日付には、こう書かれている。
「I、うぜー。なに、正義のヒーロー気取っちゃってんの? 「俺、女同士のことはよくわかんないけど、負けるな。俺は、信じてるから」とか、マジうける。噂話はくだらないとか言ってたけど、火のないところに煙は立たないって、知らないんですかぁー? って感じ。ま、アタシが言っても意味ないけどね」
 石川が読み上げる。
「これ、俺のことだよな?」
「え、なにこれ、わたし、知らない」
 ぶんぶん、と理沙が必死に首を横に振り、否定の意を表明する。
「ふざけんなよ! 今更そんな言い訳、通用すると思ってんのかよ!」
「だって、知らない!」
「昨日だけじゃないんだよ! これまでのこと、全部書いてあんだよ!」
 そのブログには、今まで理沙の噂にあったことが、全て書かれていた。まるで武勇伝のように。
 人の男を盗った。
 カンニングしている。
 万引き常習犯だ。
 援助交際をしている。
「これだけ、噂と一致していて、管理人の名前もリサセブンだし、お前じゃなければ、誰なんだよ! 七瀬理沙!」
 声をあらげているのは石川だけ。昨日、味方発言したばかりだから、より裏切られた気持ちが強いのだろう。
 他のクラスメイトも、直接理沙に声はかけないものの、冷たい視線を向けている。
「誰がこのブログ見つけたんだか知らないけど、よくやってくれたよな!」
「違う、わたし、こんなの、書いて……」
「お前の本性、全部明らかにしてくれたもんな!」
「違う……」
「どうせ、ブログならバレないと思って、言いたい放題書いたんだろう?」
「違うよ……」
「まだ認めないのかよ」
 石川が、コピー用紙を理沙に投げつける。
「サイテーだな、お前。消えろよ」
 低い声で、そう告げた。
 そうして、理沙に背を向けると、友達の元に向かう。
 違う違うよ、と呟く理沙の声は誰にも届かない。
 クラスメイトの視線が理沙に向かう。冷たく。突き刺すように。
 がらり、とドアが開いて、先生が入って来た。
「うわっ、なんだこれ!」
 驚いたような先生の声。
 それに、ようやく我に返ったように、理沙は後ろを向くと、教室から走って逃げ出した。
 廊下側の一番後ろ、いつもの席に座ってすべてを見ていた私は、ゆっくり立ち上がる。
「おい、お前ら、これなんだよ!」
 先生の声を背中で聞きながら、理沙の後を追った。

 逃げ出した理沙が行く場所はわかっている。いつも、二人で行く屋上だ。
「理沙」
 追いかけて、声をかけると、ぐしゃぐしゃに泣いた理沙が振り返った。
 ぺったりと、屋上の床に座り込んでいる。
「友ちゃん……。ひどいよ。どうして、みんな」
 その隣に座る。
「わたし、そんなことっ、しないのにっ」
 細い肩が震える。
 クラスという世界から拒絶されて、理沙は心底傷ついている。
 もう、理沙は笑わない。笑えない。
 かわいそうに。
 慰めてあげる。
 守ってあげる。
 私だけは、絶対に、貴女の味方。
「理沙がそんな子じゃないの、私、知っているよ」
「友ちゃん……」
 泣いている理沙をそっと抱きしめる。
「大丈夫だよ、理沙。私はずぅっと、理沙の味方だよ」
「友ちゃん……」
 鞄の中で、青い携帯電話が震えているのがわかる。
 私がずっと作っていた、噂世界の理沙のブログ。あのアドレスは、クラスの全員に送信済みだ。本来のメアドとは別のメアドで送った、あのメール。
 ねえ、理沙。貴女には、私だけがいればいいの。私だけが、貴女の良さをわかっていればいいの。
 他の人なんて、要らない。
 貴女と二人、ずっと一緒に居られるならば、私は火のないところにだって煙をたてるの。