一通り家の中を見たあと、居間に向かう。
 家具や食器類は予め運び込まれているので、コーヒーぐらいならば直ぐに飲むことができた。
 隆二が人数分のコーヒーを、運び込まれたダイニングテーブルの上に置いた。
 エミリはそれを受け取ると、自分の向かいでなにやら楽しそうに話す、隆二とマオを見る。
 そろそろ、あの話をしよう。
 きっと、隆二はなんらかのことを察しているだろうけれども。
「……あの」
 二人の会話が途切れたところを見計らって声をかける。
「お話が、あるんですけど」
「エミリさん、どうしたの?」
 一つ深呼吸してから、
「……わたし、研究所をやめることにしました」
「ええ!?」
 エミリの言葉に、マオは驚いたように声をあげたが、隆二は少し眉を動かしただけだった。やはりそれなりに察していたか。
「え、あれ、もしかして、あたしのせい? あたしのこと助けたから?」
 慌てたようにマオが言うが、
「いえ、自分で決めたことです」
 それはしっかり否定した。
 確かに直接のきっかけは、マオ達の側についたことだ。だけれども、マオ達の側につくことを選んだのは自分自身だ。研究所とはかりにかけて、マオ達を選んだ。
「正直、自分の人生において研究所よりも大きな存在ができるとは思っていませんでした」
 それぐらい、研究所の存在はエミリにとって大きいものだったから。
「でもだったら、辞めてもわたしはきっと平気だな、と思ったんです」
 研究所を辞めたら何もなくなってしまうと、昔は思っていた。今は違う。何もないかもしれないけれども、それは何かを掴めるということなのだと、知っている。
 辞める前に最後の我が侭だ、と今回の引っ越しのことなど全てをねじ込んだ。あれが自分の最後の仕事だ。最後にこの二人の役に立てたのならば、言うことはない。
「……おっちゃんは?」
「父は好きにしろと言っていましたから」
「ふーん、ならいいか」
 隆二は興味なさそうな顔をして、呟いた。
「……だから今日、ちょっと地味な格好なんだな」
 そのまま呟かれた言葉に苦笑する。見ていないようで、この人は意外とよく見ている。
「ええ、まあ。あれはなんとなく、制服みたいなものだったので」
 真っ赤な格好は研究所の人間として働くときの、制服のようなものだった。私服ではあるものの。戦闘服と言い換えてもいい。あれを着ると身が引き締まる気がしていた。
 今となっては、もうあれを着ることもないのだろう。そう思う。
「え、でも、辞めてどうするの?」
「イギリスに行きます」
 マオの言葉に小さく微笑み返す。
「わたし、高校も行ってませんし、どうしようかと思っていたんですけど、祖父の友人がこちらで勉強しないか、と言ってくれたんです。数年、向こうで勉強しようと思っています。自分がなにをやりたいか、を」
 それから小さく息を吸い込み、一番大切なことを告げた。
「ですから、しばらくお会い出来ません」
 エミリの言葉を聞き終わると、マオが横の隆二に訊いた。いつもわからないことを訊くのと同じ口調で。とても軽く。
「イギリスって遠いの?」
「遠いだろ。海越えるし」
「へー、いいな。あたしも行きたい!」
「パスポートないだろお前」
「実体化してない時にいけばいいじゃん」
「俺が無理。あんな鉄のかたまりが空飛ぶ何てありえない、絶対乗ったら落ちる」
「隆二おじいちゃんだもんねー」
 そうやって、ぽんぽんといつもとおりの会話をしていく。それなりに意を決しての発言だったのにいつもの会話を。
 そんな二人の会話に圧倒されて、エミリはぽかんっと間抜けな顔をした。
 そんなエミリのことは気にせず、
「まあ、帰って来たらまた遊びにきてね」
「どうせ俺たち暇してるから。いつでもいいからさ」
 二人は微笑んだ。
 それになんだか、きゅっと心臓が痛くなる。視界が歪む。
「……エミリさん?」
 マオの心配そうな声に慌てて深呼吸をすると、微笑んだ。
「ありがとうございます」
 もう二度と、会わないぐらいの心づもりだった。そちらの方が、彼らの負担にならないと思ったのだ。
 だけれども、来ていいと言ってくれるのならば、自分はまた彼らに会いたい。そして、彼らが社交辞令を言うなんて、そんなことが出来る人じゃないことをエミリはよく知っている。本心から、来ていいと思ってくれている。
 それは、とても、嬉しい。
「絶対にまた来ます」
 力強く言い切った。


 事務的な話を終えて、エミリを駅まで見送った。
 帰り道、のんびりと手を繋いで帰る。マオの左手と繋いだ隆二の右手には、あのブレスレットが巻かれていた。
「ところでさ」
 隆二は歩きながら、隣のマオに話かける。
「んー?」
「お前、なんであそこに住みたいって言ったわけ?」
「え、今?」
 驚いたようにマオが目を見開く。まあ、タイミング逃して、訊くのが遅くなってしまったことは否めないが。
 マオは、隆二らしいね、と小さく笑うと、
「隆二が住んでいたところに住んでみたかったんだよー」
 と、なんでもないように続けた。
「この前来たときはすぐ帰っちゃったし。じっくり見てみたかったの。隆二が住んでいたところ。隆二が見てたものとかも」
 そこまで言ってから、ちょっと困ったような顔をして、
「もしかして、嫌だった?」
 こちらの顔色を伺ってくる。
「……や、別に?」
 嫌ではないのだ。ただ、なんとなく微妙なだけで。現在と過去が交差する感じが、うまく言えないけれども、不思議な気分になるだけで。
「嫌ではないよ」
「そっか」
 よかった、とマオが笑う。
 さっきからよく笑っているな、とその顔を見て思う。楽しそうに笑っているのならば、まあ引っ越しも悪くなかった。
 角を曲がり、自宅が見えてくる。
 門のところで、一度マオが立ち止まった。つられて一緒に立ち止まる。
 マオは家全体を見回すと、
「ねぇ、隆二、ここは、あたしたちの家よね?」
 隆二の顔を見て首を傾げた。
「ん? ああ」
 なに当たり前のこと訊いているんだか。
「ふふーン! これでも居候なんて言わせないんだからねっ!」
 するとマオは、何故だかやたらと勝ち誇った声でそう言った。
「は?」
 予想外の展開にあっけにとられる。
「隆二の家に居たら居候だけど、隆二とあたしの家なら同居人でしょう?」
 そう言って楽しそうに笑うと、隆二の手から鍵を奪いとって、さっさと玄関の鍵をあける。
 居候? ああ、なんだ、そんなこと気にしていたのか。
 そう言えば、確かにいつまでも居候猫だと言っていたけれども、それは便宜上そう呼んでいただけで、隆二の中ではとっくの昔に居候から同居人ぐらいには格上げされていたのに。
 言ってくれればよかったのに。そんなに気にしているのならば、言ってくれればよかったのに。
 そう思いながら、同居猫の後ろ姿を見ていると、
「あ、あとさ」
 玄関を入ってすぐのところでマオが振り返った。
「ん?」
「あたし、決めたから」
「何を?」
「覚悟を」
 言ってマオは、悠然と微笑む。
 予想だにしない言葉に、思わず息を呑んだ。覚悟を、決めた? 何の?
「もしも死んでも、また幽霊になるから。絶対になるから。そう決めたの。元々幽霊なんだもの、またなるのなんて、簡単だよね、きっと。未練があればなるっていうし、未練たらたらだし? 猫に九生あり、って君子で言ってたしね!」
 なんだか悪戯っぽく笑って、歌うように続ける。
「隆二が泣いて喚いたって、一人になんかしないから」
 くすくすと笑うと、あっけにとられる隆二を残し、くるっとターンして家の中に入って行く。
 幽霊になる? 何を言っているんだ、こいつは。そんなこと、出来ると思っているのだろうか。
 でもそうか。幽霊になったら、また元に戻るだけなのか。それがもしも、可能ならば、それもありなのかもしれない。
 相変わらず想定の斜め上をいく。想定外の存在だ。想定外の存在だから、もしかしたら本当に幽霊になって、またまとわりついてくるのかもしれない。それならば、それでいいかもしれない。
 見ていて飽きない、と茜に言った。あれはやっぱりそのとおりだ。一緒にいて飽きない、退屈しない。いささか振り回されてはいるけれども。
 この同居人が何を考えているのか、まだまだわからないことだらけだ。
 まあ、ゆっくり知っていけばいいさ。時間はまだまだあるのだから。
 とりあえず今は。
「さって、テレビ見ようっと!」
 マオが、既に運び込まれていた赤いソファーにぽんっと飛び乗る。今までと同じように。
「マオ」
 そこに声をかけた。
「ん?」
「ただいま」
 言ってみる。ここは二人の家なのだから。
 マオは驚いたように目を見開き、
「おかえりなさい、隆二」
 ぱっと花が咲くように、笑った。

End.