第八幕 迷い仔猫の素性


 ゆっくりと、マオは目を覚ました。
 顔をあげる。
 知らない場所だった。
 正面には十字架。二列に並べられた長椅子。天井のステンドグラス。
 テレビやなんかで見たことがある。ここは、
『……教会?』
 ゆっくり体を起こす。動こうとしたが、右足が上手く動かなかった。何かに縛られているかのように。
 視線をやると、黒い鎖のようなものが右足に絡み付いていた。今、幽霊なのに。
 動かそうとするが、どうにもうまく動かない。
『なにこれっ』
「足枷の一種だよ」
 声がして、慌ててそちらを向く。
「おはよう、花音。手荒な真似して悪いが、逃げないようにつけさせてもらったよ。それは花音が研究所から逃げ出したときに反省して、研究班が作ったものらしいよ」
 あの男がそこに居た。
『誰、あなた?』
 ただの変な人じゃない。そんなことはもうわかっている。霊体に戻ったのに逃げられなかった。捕まった。
『研究所の、人?』
「そうだよ、花音」
 男が両手を広げて言う。
『花音じゃないっ』
「花音だよ。一条花音、わたしの娘」
 男、一条稔が微笑む。
『……何を、言っているの?』
 一条から距離をとろうと、少し後ろに下がる。少しでも、後ろに。
『娘? あたしが? あなたの? ありえない。だって』
 認めたくないけれども、こんなこと自分で言いたくないけれども。
『あたしは、実験体ナンバーG〇一六。人工的に作られた幽霊で、父親なんていない』
 覚えている。発生して最初のこと。記憶にあるのは、あの嫌な液体で満たされた水槽。
『あたしは、ただのひとでなしだもの』
 何を勘違いしているのか知らないが、わかったなら帰して欲しい。
「いいや、花音だよ」
『だからっ!』
「実験体ナンバーG〇一六の元になったのは、花音の魂だよ」
『……え?』
 意味がわからなくて、抗議のために開いた口をそのまま、ぽかんっと間抜けにあける。
『たましい?』
「そうだよ、花音」
 一条は手近な椅子に腰をおろした。
「やはり、忘れてしまったんだね」
 そうして、少し悲しそうな顔をする。
「花音が亡くなったのは、交通事故だった」
 そのまま、ゆっくりと話始めた。マオはただ黙ってそれを聞いていた。
「三年ほど、前だね。悲しむわたしの元に、研究班がやってきたんだ。新しい研究のために、花音の魂を献体として使わせてくれないか、と」
 そこで一条は、じっとマオを見た。マオは視線から自分の体を守るかのように、両腕で肩を抱いた。
「最初は渋ったが、研究所内のしがらみと、それから花音にもう一度会えるかもしれない、という言葉にそそのかされたんだ」
『……研究班は、その人の魂を使ってあたしを作ったの?』
「その人、じゃない。花音自身のだ」
 睨まれて口ごもる。
 だけど本当は大声で言いたかった。花音なんて人、知らない。あたしは、マオだ。
「だけれども、研究班からそれからしばらく音沙汰がなかった。一年ぐらいして届いた書類には失敗した、とあったよ。愕然としたね。わたしは」
 一条の声が震えた。何かを耐えるかのように。
「花音をまた失ってしまったんだっ」
 張り上げられた声が室内に響く。
「そのまま眠らせてあげるべきだったのに。花音の魂は消滅したという。わたしは完全に娘を失った!」
 荒げられた声に、ひっと息を呑む。怖い。
「それから二年、わたしはずっと抜け殻のようだった。何も考えられなくて、気づいたら妻とも離婚していた。そんなときだよ、テレビで花音を見たのは」
『……テレビ?』
「心霊写真としてだったが、笑顔の花音の写真を見たんだ」
『っ、オカルトクエスト!』
 テレビに映った自分の姿といえば、それしか考えられない。
 ああ、と一条は頷いた。
「そこから調べたよ。花音のことを。研究班の資料を勝手にね。実験は成功していたんだ。だけれども、わたしに花音を引渡すつもりがないから、研究班は失敗したことにしたんだ、とわかった。わたしのところに通知がきたときには、まだ実験の途中だったのに、失敗したことにした。それに腹がたったけれども、冷静に考えれば研究所ではよくあることだからね」
『……それで、あたしを?』
「そう。G〇一六という実験体ナンバーが花音なことも、U〇七八のところにいることも、全部調べた。肝心の、U〇七八の居場所がわからなくて、時間がかかってしまったがね」
 一条は立ち上がり、ゆっくりとマオに近づく。マオは少し後ろにさがった。
「待たせたね、花音。一緒に帰ろう」
 そんなマオを気にすることなく、一条はそう言った。そうして片手を差し出す。
「わたしたちの家に帰ろう、花音」
 畳み掛けるように言われる。
 差し出された手と、一条の顔を順番に見る。
『あなたが、……あたしの父親かもしれないっていうことは、わかりました』
 震える声で言葉を発する。
 一条の視線はどこか定まっていなくて怖い。
「ああ、そうだよ。まだ思い出せなくても、いつか思い出せるかもしれない。花音」
 一条が満足そうに頷く。
 この人が、悲しい思いをしたことはわかった。大事な娘を亡くして、一人になってしまって、色々後悔して、悲しくて、必死に娘を探していたことはわかった。それには同情するし、マオが娘だと知って嬉しかった気持ちを、期待を裏切るようなことは出来ればしたくなかった。一人が淋しいのは知っているから。
 だけど、
『あたしは、あなたとは一緒に行けない』
 それとこれとは話が別だ。
 一条の顔をじっと見つめる。
『あたしは帰らなくちゃいけない。それは、あなたのところじゃなくて、隆二のところに。だって、あたし、約束したんだもの。隆二と。ずっと一緒にいるって』
 だから貴方とは帰れない、と続ける。
 一条の表情は変わらない。僅かに微笑んだまま。それがまた、少し怖い。
 だけれども、思っていることはちゃんと言わないと。
『それに、あたしは、花音なんていう名前じゃない。ましてや、G〇一六でもない。あたしは、マオ』
 あの日、初めてあった日に隆二が名付けてくれてから、ずっとマオだ。この名前を大切にしてきた。それ以外の何者でもない。それ以外の名前ならば、例え本物であっても要らない。
『マオだから、あなたとは一緒に行けない』
 この手が掴むのは、隆二の手だけだ。
 ごめんなさい、と続ける。
 一条はしばらく何も言わなかった。
 沈黙に耐えながら、じっと一条の顔を見る。
 どれぐらいそうしていただろうか。一条がゆっくりと息を吐くと、手を下ろした。そうして、椅子の方に向かう。
「わかったよ、花音じゃない」
 背中を向けたまま、一条が言う。
 納得してくれたのだろうか?
 そう思って胸をなでおろしていると、一条が振り返った。
「花音はそんなことを言わない」
 その右手に握られているものに、視線が釘付けになる。
「花音の形をした紛いものに用はない」
 右手に握られているもの。見た目は小型の剣。だけれども、それがただの剣でないことを知っている。
 あの時見た。公園で京介と話した時に。
 あれは、
『エクスカリバーっ』
 霊体であるマオも、不死者である隆二や京介も、実験体である以上すべてを消し去る唯一のもの。
「わたしはまた、花音を失うことに耐えられない」
 マオの悲鳴に返事はせず、一条はエクスカリバーを片手にマオに近づく。
「同じぐらい、わたしが死んだあと花音の形をしたものが存在していることも耐えられない。花音でもないくせに」
 何を言っているのかわからない。だけれども、一つだけわかる。
 このままじゃ、絶体絶命だ。
 なんとか逃げられないかと身をよじるが、右足が上手く動かない。動けない。
 刃が光る。
「やっぱりこうするのが一番いいんだ。花音の形をしたものがいなくなってしまえば、わたしは安心して、死ねる!」
 エクスカリバーが振り上げられる。
 咄嗟に転がるようにして避けた。体は。
『やっ!』
 右腕が避け切れず、刃に触れた。
 何が起きたのか、最初わからなかった。
 刃に触れた先を見る。何もない。
『いやぁぁぁぁ!』
 理解すると同時に悲鳴をあげた。
 斬り落とされたように、刃が触れたよりも先、肘から先が無かった。
 痛みもなにも無いのに。
 左手を伸ばすけれども、やはり、ない。
「ああ、避けるから」
 眉根を寄せて一条が言った。
「花音の顔がそうやって歪むのは見ていられないんだ。頼むから、避けないでくれ」
『なにをっ!』
「エクスカリバーは突き刺した箇所から消える。突き刺さないで今みたいに斬っただけじゃ、そこから先が消えるだけで本体の抹消には繋がらないんだ」
 なんでもない口調で一条が言う。
 なにを言っているかわからない。
 なんで、そんな、なんでもないように言うのだろう。
 だって、消えるって、どういうことかわかっているんだろうか、この人は。
 逃げようともがくが、どうやっても動けない。
 一条がエクスカリバーを振り上げる。
 消える。
 消えてしまう。
 アレに刺されたら、消えてしまう。
 今度は腕だけじゃない。あたし自身が。
 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。
 だって、約束したのだ。
 ずっと一緒に居るって。居なくならないって。約束したのだ。
 約束は、守らなくっちゃいけないんだ。
 約束したのに。一緒に居るって。
 一人にはしないって。
 違う。ずっと、一緒に居たいのは、あたしの方だ。隆二じゃなくって。
 あたしが、隆二と一緒に居たい。
 ずっと一緒に居たい。
『嫌だっ!』
 消えたくない消えたくない消えたくない消えたくないっ。
 刃が眼前で光る。
 嫌だ。助けてっ。
 助けてっ!
『隆二ぃぃっ!』
 一際大きな悲鳴が漏れたのと、ばりんっという音がしたのはほぼ同時だった。
 音は上からして、マオは思わず視線をそちらに向ける。一条も同じように一瞬視線を上に逸らした。
 屋根のステンドグラスが割られて、きらきらと光を浴びながら破片が降ってくる。綺麗に輝きながら。
 そして、
「マオっ!」
 一緒に落ちて来た黒い影が、彼女の名前を呼びながら、着地と同時に一条を蹴りとばす。蹴りとばされた一条は吹き飛ばされ、長椅子にぶつかった。
「マオっ、大丈夫かっ!」
 そのままふりかえり、マオに駆け寄って来たのは、
『りゅ、うじ』 
 神山隆二、その人だった。
 破片で切ったのか、頬から血を流しながら隆二はマオにかけより、
「怪我とかっ」
 そこまで言って、隆二は言葉をのんだ。
 マオの右腕を見て、言葉を失う。
 なんだかそれが恥ずかしくて、マオが左手でそれを隠そうとするのを、
「ごめんっ」
 ぐいっと手を引っ張られて妨げられる。代わりにぎゅっと抱きしめられる。
「ごめん、遅くなってっ」
 言われた言葉に、ぶわっと目元が熱くなる。気づいたらぽろぽろと涙がこぼれていた。
『りゅーじ』
 左手でぎゅぅっと彼にしがみつく。
『りゅーじ、りゅーじっ』
「ごめん。遅くなってごめん」
『ごめんなさいっ』
 あたしが勝手に外に出たから。言いつけを破って一人で外に出たから。だから隆二に心配をかけて、こんなことになってしまった。
「マオ」
 優しく名前を呼ばれる。それにあわせて、またぼろぼろと涙が出る。
 頭を撫でられる。いつもの隆二の手で。
「遅くなってごめん。だけど、よかった、また会えて」
 掠れた声で囁かれた言葉に、隆二にしがみついている左手に力をいれた。
『約束、したからっ』
 隆二のこんな声を聞くのはあの時以来だ。神野京介の一件があった時以来。
『ごめんなさい』
 泣かないで。あたしはここにいるから。まだいるから。
「……うん」
 隆二の手がマオの肩をそっと押した。隆二の顔が見えた。泣きそうに歪んでいたけれども、小さく微笑んでいた。
「一緒に帰ろう」