水族館の大水槽のような大きな硝子。その硝子の向こうで、マオが不安そうな顔をしながら白衣の説明を聞いている。ちらりとマオがこちらを見てくるから、軽く片手をあげてみせると、ほっと安堵したような顔をした。
 ここは研究所。今は、あれ以来恒例となった定期検査の最中だ。目の届かないところには行かせない、という隆二の主張のもと、硝子で隔てられた部屋でそれは行われている。強化硝子らしいが、こんなもの、隆二にとってはあってないようなものだ。いざとなれば。
 カルテのようなものを持った白衣の言葉に、マオが首を傾げながら何かを答えている。
 机に頬杖をついてそれを見ていると、
「どうぞ」
 紙コップに入ったコーヒーが机に置かれた。
 視界の右端に赤い色。
「ども」
 素直に受け取り、一口啜りながら、右隣に腰を下ろしたエミリを見る。
 エミリは自分の分のコーヒーを飲みながら、硝子の向こうのマオを見る。それから小さく溜息をついた。
「そろそろこの定期検査なくなればいいんですけどね。……やはりいい気分しないでしょうし」
 その言葉に、やっぱりまだ不安そうな顔をしているマオに視線を移す。
 まあ確かに、マオはここに来ることがあまり好きではないようだ。自分が生み出されたこの研究所。いい思い出がないのはわかっている。
 それでも、
「この前みたいに、急になにかなるよりは、まあこっちのほうが、俺は安心だな」
 保険として、この定期検査に安心している隆二がいる。
「まあ、マオと違って、俺にとっての研究所ってここじゃないしな」
 隆二にとって嫌な思い出がある研究所は、別の場所にあった時代のものだ。
「あの頃はもっとこう、怪しい研究所感満載だったのに、こんな製薬所なんて」
 外見上、普通すぎて怪しさの欠片もない。
 無条件で怖がるマオの気持ちを、十分に慮ることは出来ていないかもしれない。
「薬も作っていますよ」
 しれっとエミリが答えた。
「あ、そうだ」
 そんなエミリと白衣を見ていたら、急に思い出したことがある。覚えていたら、言おうと思っていたこと。
「今更だけど、ありがとう」
「……何がです?」
 唐突な隆二の言葉に、エミリが怪訝そうな顔をする。
「この前、庇ってくれただろう」
 それだけ言うと、エミリはなんのことだか考えるかのように視線を宙にさまよわせる。
 この前、マオが消えかかった時に、白衣に銃を突きつけてまで庇ってくれた。隆二が使いものにならなくて、一人不安がるマオにずっとついていてくれた。そのことは、覚えていたら礼を言おうと思っていたのだ。
「……え、今?」
 ようやく答えに思い至ったらしい。エミリが珍しく間抜けな顔をして、呟いた。
「忘れてた」
「……らしいですね」
 悪びれない隆二の言葉に、呆れたようにひとつ笑う。
「ちょっと意外だった」
 あんな風に感情をあらわにしたエミリを見るのもはじめてだったし、冷静な彼女が白衣に銃口を向けるなんていう行動をとるなんて思いもしなかった。そんなことしたら、自分の研究所内での立場が危うくなるのに。
「わたしも色々考えているんです。これでも」
 小さく肩をすくめて、エミリが答える。
「ふーん」
 なんか前も似たようなことを聞いたよな、と思いながらも深くつっこむことはしない。面倒だから。
「まあ、正直、助かったし、嬉しかったよ」
 もう何も、神山さんから奪わせたりさせません。あの言葉は、色々な意味で心に突き刺さった。自分の元から消えていった様々なものを思い出す痛みもあったが、それよりも嬉しかった。あのときは、この感情の名前がわからなかったが、落ち着いた今ならわかる。あのとき自分は、嬉しかった。
 基本的には、一人でなんでも出来る。やろうと思えば、この研究所を壊滅させることだって出来る。それでも、誰かに心配してもらうとか、助けてもらうとか、誰かに自分のことを意識してもらうことが嬉しいことなのだと、改めて思った。
 それも、エミリという思いがけない方向からきた手助けに、一瞬、心が鷲掴みにされたのだ。
 そんなことを思っていると、右頬に突き刺さる戸惑いの視線。
「……何?」
 辛いものだと思って口にいれたら、甘かった。そんな顔をしているエミリを見ると、
「……いえ、ちょっと驚きました」
 言葉を選ぶようにして、エミリが答えた。
「何が」
「神山さんが、そんなこと言うなんて。なんていうか、だいぶ、丸くなられましたね」
 しみじみと呟かれた言葉に、今度はこちらが顔をしかめる番だ。
「……俺だって、色々考えてるんだよ」
 苦々しく、似たような言葉を返した。
 硝子の向こうの居候猫を見る。
 ずっと一人でいたのに、突然現れたアレに終始振り回されているのだ。それなりに性格だって変わる。
 それに、マオが来てから色々あった。
 ようやく茜に会いに行くことができたし、同族の一人を見送った。
 一人じゃない生活は自由がないけれども、やっぱり楽しい。あのソファーは一人には広過ぎる。
「マオさんのおかげですね」
 エミリの言葉に苦笑する。
 そのまとめ方は、心情的には不満なのだが、結局そのとおりだ。彼女のあの無駄な前向きさに、ひきずりあげられている自分がいる。
 だからこそ、最近、たまに思う。
「……俺でよかったのかねぇ」
 小さく呟く。
 隆二がここにいるのは偶然だ。
 先にマオに会っていたのが自分以外の誰かだったならば、今の隆二の位置にいるのは、そいつだったことだろう。
 もしかしたら、そいつの方がマオのことを可愛がって、優しくして、楽しい生活を与えて、今みたいなことも起きていなかったかもしれない。
「何がですか?」
 マオには絶対に言うなよ、と念押ししてから、
「例えば、颯太だったらもっと上手く動いていたんじゃないか、って思うんだよな」
 マオが見えて、同じような境遇という点では、隆二も颯太も同じだ。自分達、不死者の仲間うちで一番頭のいい彼ならば、もっといい方法を見出していたんじゃないだろうか。前回みたいなことには、ならなかったんじゃないだろうか。
 エミリは、弱音を吐く隆二を、意外そうに一瞥してから、
「わたしは神山さんでよかったと思っていますよ」
 小さく微笑んだ。
「確かに神崎さんは頭がいいですし、他の方法を選んだかもしれません。ですが、神崎さんの場合、そもそもマオさんを拾う、という選択をしなかったんじゃないかと思います」
 エミリの言葉をうけて少し考えると、
「あー、確かに」
 それもそうかもしれない。興味のないことにはとことん興味をしめさない。
 隆二のときみたいに、マオが落ちてきたって何の反応も示さなかった可能性の方が高い。
「気まぐれで拾ったところで、ちゃんと最後まで面倒をみたかどうか……。神坂さんに関しては言うまでもありませんしね」
「英輔、なー。それは同意する」
 力強く頷く。甘いもののためには世界を敵に回すことも厭わない隆二の同族は、知識の偏った純粋な幽霊の世話係に適さないことこの上ない。英輔のコピーが出来上がるかもしれない。恐ろしくて預けられない。
「それに」
 そこでエミリは何かに気づいたかのように口をつぐんだ。
「京介だとどうなわけ?」
 代わりにこちらから水を向けてみせる。
 気にしなくていい、と言っても、京介が消えたことについて責任を感じていることはわかっている。
 エミリはしばらく、躊躇うそぶりをみせてから、
「……神野さんは、スポイルし過ぎそうです」
 それから隆二の顔を見て、
「甘やかしそうってことです」
 言い直した。ご丁寧に、どうもありがとう。
「……確かに、あいつ、マオに甘いもんなー」
 ちゃんと外で会話していたし、テレビの話にも付き合っていたし。
「わたしは、マオさんのあの天真爛漫なところといいますか、割と自由なところは好きですが」
 これはまた、意外なこと言う。
 ちらりと隆二はエミリを見る。
 エミリは気づいていないようだ。あれだけ実験体を物としてしか扱っていなかった自分が、実験体を好きと評価したことに。
 確かに、彼女は変わったのかもしれない。
「さすがに、神野さんが世話をして、野放しにされたマオさんは好きになれたかどうか……」
「我が侭放題?」
「ええ」
「それは、……うざいな」
 そうでしょう? と言いたげにエミリが頷く。
「ですから、結局、神山さんが一番いいんですよ。ちゃんと面倒は見ているし、たまにものすごく甘やかしているように見えるときもありますが、トータル過度に甘やかしたりせず、適宜ほったらかしたり気分でかまったりするぐらいで」
「……微妙に棘がなかったか? 今」
「気のせいですよ」
 エミリは、呆れたように笑いながら隆二を見ると、
「しっかりしてください。マオさんには、神山さんが全てなんですから」
 力強く言った。
「……そうだな」
 自分がここでへたれたり弱気になったりしたら、マオに悪影響だ。それぐらいは、わかっている。
「ありがとう」
 素直に礼を言うと、エミリはまたちょっと驚いたような顔をした。
 だから礼を言ったぐらいで、いちいち驚くなっつーの、失礼だな。