第七幕 猫の手だって厭わない


 いつの間にか、少しうとうとしてしまったらしい。
 マオは慌てて顔をあげた。
 辺りは明るくなりはじめている。
 今、何時ぐらいだろうな。
 抱えた膝にぎゅっと力をこめた。
 隆二、心配しているかな、しているだろうな。イマイチ素直じゃないし、なんか冷たいし、ひとでなしだけど、隆二はいつだって心配してくれている。
 最初は、隆二が初めて自分のことを認識してくれる人だから一緒にいた。
 今は違う。隆二がそういう風に優しいこと知っていて、大好きだから一緒にいるのだ。
 一晩も隆二から離れていたなんて、初めてだから、寂しい。心細い。
 ペンダントをぎゅっと掴む。
 もうちょっと、もうちょっと待てば実体化がとける。そうすれば、隆二のところに帰れる。
 そう、思った時。
「花音」
 声が上から降ってきた。
 全身が冷水を浴びたように凍えた。
 恐る恐る上を見る。
 マオがもたれかかっているビルの屋上に、あの男がいた。
「やっと見つけた。すぐに行く。待っていなさい」
 そんな声が降ってくる。
 冗談じゃない。
 慌てて立ち上がると、ビルの隙間に体をつっこむ。
「花音」
 呆れたような声がする。
「花音じゃないしっ、しつこいし!」
 また何カ所か擦り傷を作ったけれども、気にしない。もうそんな細かいことはどうでもいい。
 あとちょっとなのに、なんなのっ。
 通りにでると、走り出す。なるべく家に近づくように。隆二の家に向かって走り出した。


 すっかり朝になって、通りは通勤通学の人々であふれはじめた。
 隆二は走りにくくなった通りに舌打ちする。
 エミリから一度連絡があったが、特にマオがかかわっていそうな事件事故はないらしい。それにひとまず胸を撫で下ろしたものの、だったら何故ここまで見つからないのかが不安になるところだ。
 人の間をすり抜けて、勢いよく走りながら、角を曲がったところで、
「わ」
「きゃっ」
 反対側から来た人影にぶつかりそうになった。慌てて立ち止まる。
「うわっ、びっくりした」
 角でぶつかりそうになったのは、例のコンビニのオカルトマニアな店員、菊だった。
「あ、お久しぶりですー、お元気でしたか? どうしたんですか血相をかえて、またヴァンパイア」
「こいつ、知らないかっ!?」
 なんだか無駄な話をはじめそうな菊を遮って、二つ折りのケータイを開く。待ち受けに設定された、マオの写真。それがまさかこんなところで、役に立つとは。
「わ、かわいー。どなたです? 恋人さん?」
「いいからっ」
「……んー、見たことないですね」
「そうか、ありがとう」
 ケータイを奪い返すと、再び走り出そうとした隆二に、
「あの」
 菊が躊躇いがちに声をかける。
「また人探しですか? 手伝いましょうか?」
「頼む」
 迷わなかった。その手を掴むことに。
「じゃあ、連絡先と、あとその写真いいですか? 皆に回します」
「……ごめん、やって」
 ケータイをそのまま渡す。写真いいですか? ってどういうことだよ。
 菊はきょとんとした顔をしてから、少し微笑むと、
「わかりました」
 うけとったそれを操作する。ああ、やっぱり若い子ってすげーな。
「できました」
 しばらくしてから、菊が隆二にケータイを返す。
「写真をまわして友達に見なかったか聞いてみます。なにかあったら、電話しますね」
「頼んだ」
 いつだったか、エミリを探し出してくれた彼女の情報網ならば、見つかるかもしれない。ならばそれにすがることに躊躇わない。
 手段は選ばない。差し出された手は拒まない。プライドや見栄なんてどうだっていい。自分だって成長するのだ。びびたるものだけど。
 菊に軽く頭をさげると、また走り出した。


 マオは先ほどとは違う路地裏の、駐車場の影隠れた。
 乱れた呼吸を整える。
 あと、ちょっと。
 体内の感覚でわかる。あと少しで実体化がとける。そうすれば、遠慮なく飛んで帰ればいい。隆二の家へ。
 それまで見つかりませんように。
 祈るようにペンダントを握りしめる。
「かのーん」
 男の声がする。思っていたよりも近くだ。
 あと少し。あと少しだから。
 ぎゅっと目をつぶる。
 声。足音。
 あっち行け。あっち行けあっち行け!
 体から体温が消えていくのがわかる。実体化がとける前兆。
 あとちょっとだ。
 ここまで来たら、あとはもう待つだけだ。
 少し視界が揺らぐ。
 耐えるように一度目を閉じる。
 ふわりと、体が浮くような感覚。浮遊感。
 目を開ける。
 目の前に手をかざすと、透けて地面が見えた。よかった、ようやく実体化がとけた。
 今なら逃げ出せる。
 そう思って動き出そうとしたとき、かしゃんっと何かの音がした。視線を落とすと、着ていた服と、ペンダントが転がっていた。
 それに一瞬、足が止まる。
 ペンダント。せっかく隆二がくれたペンダント。それをこの場所においておくことに、一瞬の躊躇いが生じた。
 それが、間違っていた。
「見つけた」
 すぐ後ろから声がして悲鳴をあげかけたときにはもう遅かった。
 腕を掴まれる。
 その白い手袋は、エミリがつけているものによく似ている。幽霊が触れるというあの手袋。
 そんな風に思った次の瞬間には、銃を突きつけられ、撃たれた。