「ただいま」
 スーパーの袋を片手に帰って来た隆二は、言いながらドアをあけた。
「……マオ?」
 いつもならとんでくる居候猫の姿がない。部屋も暗い。テレビもついていない。
「マオっ」
 急に不安になって、靴を脱ぐのももどかしく、片足は脱がないまま部屋にあがった。
 いつものソファーに居候猫の姿はない。
「マオっ」
 もう一度名前を呼んだところで、テーブルの上のメモに気づいた。慌ててそれに目を通す。
 マオのあの、へたくそな字で、「おかいものいってきます。ごはんにはかえってきます。ごめんなさい」なんて書いてあった。
「出かけるなつっただろうが、あのバカっ」
 舌打ちすると、ポケットからケータイをとりだす。慣れない手つきでマオの番号を呼び出すと、電話をかけた。
 ぷるるると呼び出し音はするが、マオは出ない。いらいらと指でテーブルを何度も叩く。
 落ち着け。何かがあったから出ないとは限らない。マオのことだ、約束を破ったことはわかっていて、怒られるのが嫌で電話を無視しているだけかもしれない。
 留守番電話サービスに接続される。
「怒ってないからこれ聞いたらすぐに電話しろ」
 吐きすてるようにそう言ってから、どう考えてもこの言い方は怒っているな、と考えを改めた。
「かけ直さないともっと怒るぞ、このバカ」
 早口で続けた。
 そのまま電話を切る。
 まったく、あのバカは。
 舌打ちを一つすると、いつでも出られるようにケータイをまたポケットにしまう。
 探しに行って入れ違いになるのも嫌だし、ご飯までに帰ると言っているのならば、ぼちぼち戻ってくるころだろう。出かけたから即、何があるわけでもない。落ち着け。
 自分に言い聞かせると、一つ深呼吸。
 とりあえず、少しだけ待ってみよう。
 そう決めると、履いたままだった靴を脱ぎ、買ったものを冷蔵庫にしまいはじめた。


「うげっ」
 留守電に残された隆二のメッセージを聞いて、マオは小さく悲鳴のような声をあげた。
「ん?」
 向かいの女が首を傾げる。
「……なんでもなぁーい」
 聞かなかったことにしよう。そう決めると、ケータイをテーブルの上に置いた。
 あの後、ナンパから助けてくれた女と少し会話し、なんだか意気投合した。
 柚香と名乗ったその女性は、自分で作ったアクセサリーを売って生計をたてているらしい。マオが隆二へのプレゼントを探している話を聞くと、アクセサリーを見立ててくれると言い出した。
 アクセサリーなんて隆二絶対買わないし、いいかもしれない! この人、隆二に合ったことがあるらしいし、このペンダントを作った人のアクセサリーなら申し分ないし!
 渡りに舟な申し出にマオも乗っかり、柚香の作品を見るために近くのファーストフードに入ったところだ。
 あとちょっとで終わるのだ。途中で連れ戻されたり、隆二に来られたりしたら意味がない。これが終わるまでは、留守電を聞かなかったことにしておこう。用事が終わったら、ちゃんと電話するから。自分にそう言い訳する。
「ならいいけど?」
 言いながら柚香は、片手に持っていた大きめの紙袋から、いくつかのアクセサリーをテーブルに並べていく。
「まあ、あの人アクセサリーとか頓着なさそうだったけど」
「隆二が興味あるのは本とコーヒーだけだよ」
 小さく唇を尖らせながらマオが言うと、そんな感じっぽいね、と柚香も笑った。
「だから、シンプルな方がいいよね」
 メンズはこれぐらいかなー、と並べられたアクセサリーを見ていく。
 うーん、そもそも何かを身につけている隆二が思い浮かばない。
「ピアスは?」
「あいてないよ」
「じゃあ、この辺は論外」
 ピアスが幾つか袋に戻される。
「ペンダント系か、ブレスレット系か」
「んー」
 それらを眺めながら、まだちょっと痛い右手を擦る。そうしながら、隆二と言えば、手だな、と思った。
 最初にした約束も、そういえばそのうちに頭を撫でてくれる、というものだった。
 いつも頭を撫でてくれる手。最初の時、逃げようと繋いだ手。最近は、普通に繋いでくれる手。
「……ブレスレットだなぁ」
 小さく呟くと、
「そう?」
 とペンダント系統が袋にしまわれる。
 いくつか残ったブレスレットを眺めて、
「……これ、いいかなぁ」
 つかみあげたのは、シンプルな革のブレスレットだった。茶色い一枚の革が編み込まれている。
「ああ、いいんじゃない? シンプルだし」
「……うん、これにする。これください」
「はい、毎度」
 柚香が笑って受け取ると、袋にいれてくれる。値札に書かれた金額を手渡し、商品を受け取った。
「ありがとう」
「いいえ。喜んでくれるといいけど」
「んー、隆二が喜んだりするところ、想像できないけど」
 それよりも先に怒られそうだし。
「それでもきっと、嫌がらないでつけてくれると思うから」
「じゃあ、また、どこかで見かけるの楽しみにしてる」
「うん」
 大きく頷いた。


 遅い。
 時計を見て、隆二は一つ舌打ちをした。
 ご飯までに帰ってくるって言ったのに、帰ってくる気配がない。あれから三回追加で電話をかけたがちっともでないし。
 苛立ちは段々不安に変わっていく。もう一度電話をかけて出なかったら、探しに行こう。
 そう決めて、電話をかけると、意外にも今度はかけはじめて直ぐに電話に出る音がした。
「マオっ」
 怒鳴りつけるように名前を呼ぶと、
「あー、もしもし?」
 返ってきたのは、マオの声じゃなかった。
「……誰だ」
 低い声で誰何。
「あー、あのおにーさん? この前ペンダント買ってくれた。私私、アクセサリー売りの」
 言われてみれば、そのやる気のなさそうな声には聞き覚えがあった。京介似のアクセサリー売りの女。
 それがなんで、マオの電話に?
「ええっと、話せば長くなるんだけど、マオちゃん? とは道であって。私のペンダントつけてくれてるから話してて。ちょっと一緒にお茶してて」
「……ああ」
 その言葉に、ちょっとだけ安堵する。おしゃべりに夢中になって、電話に気がつかなかったのか。ありそうなことだ。
「……あの、マオは?」
「それなんだけど」
 女はなんだか言いにくそうにした。それに収まっていた不安がまた暴れ出す。
「追加の飲み物をね、買いに行ってくれたの。……それから三十分ぐらい経つんだけど戻って来なくって。レジ一階だから見に行ったんだけどいなくって。ケータイはテーブルにおきっぱなしだし。そしたら、おにーさんからの電話があったから」
 言われた言葉に、目眩がする。
 いなくなった?
「今、どこに?」
 あげられたのは駅前のファーストフードの名前だった。そこならマオと二人で行ったことがあるから知っている。
 一階にレジがあって、二階が客席になっていた。駅前だからかいつも混んでいるが、そんな三十分も戻って来られないような混雑ではないし、ましてや行方をくらますスペースがあるわけがない。
「あんのバカっ」
 舌打ち。
 何があったというのだ。どうしてこうなるんだ。
 もっと早く探しに行けばよかった。
「今から行くんで待っていてください」
 一方的にそう言い切ると、電話の向こうの女の返事も待たずに通話を終えた。
 ひっかけるように靴を履くと、駅前に向かって容赦ないスピードで走り出した。