第五幕 居候猫の恩返し


「ごちそうさまでした」
 唇を離したマオが、小さく呟いた。
「おそまつさまで」
 いつものようにだらけたように、隆二は言葉を返した。
 一カ月、はやいなぁ。
「着替えてくるー」
 隣の部屋に消えるマオを見送りながら、ぼんやりそんなことを思う。
 今日から半月、またマオは実体化していることになる。
 マオが消えてすぐに、隣の部屋から、途切れ途切れの音楽が聞こえて来た。これ、なんだっけな。
 見えるわけでもないのに、ソファーに座ったまま隣の部屋への壁を見る。しばらく考えて、エミリが持って来たオルゴールの音楽だと気づいた。
 実体化してすぐに、あのペンダントが入っているオルゴールを開けたのか。そのことに思い至ると、なんだかくすぐったい気分になる。
 ふっと唇が緩んで、慌てて片手で口元を押さえた。
「着替えたー」
 戻って来たマオは、ラフな部屋着姿だったが、首元にちゃんとあのペンダントをつけていた。そして、すとんっと隆二の隣に腰掛けた。
「コーヒー、飲むか?」
 なんとなく照れくさくて、マオと入れ替わるようにソファーから立ち上がる。
「牛乳ある?」
「買っといたよ、昨日」
「じゃあ、飲むー!」
 マオがはしゃいだ声をあげる。
 実体化してすぐに、コーヒーが飲みたいなどと言っていたマオだったが、中身と同じおこちゃま舌の彼女には、ブラックでコーヒーを飲むことなんてできなかった。それでも隆二とお茶がしたい、と主張する彼女のため、色々と調整した結果が、ミルクと砂糖たっぷりのコーヒーだ。
 それ、もうコーヒーじゃないだろ。とは思うが。
 二人分のコーヒーを作って、ソファーまで戻る。マオは早速テレビをつけたところだった。
「はい」
「ありがとー!」
 マオ用に購入した猫の柄のコーヒーカップを手渡すと、嬉しそうに受け取った。
 ソファーの足によりかかるようにして、床に腰を下ろした。
「そうだ、検査、明後日な」
 さっきエミリからきたメールを思い出して言う。
「……はーい」
 露骨に下がったテンションでマオが返事をした。まあ、そうなるよな。
「帰り、買い物でもなんでも付き合うから」
 なだめるようにそう言うと、
「じゃあ、行く前に、なんかお菓子とか買いたいの」
「前に?」
「うん、エミリさんにこの前のお礼。オルゴールの」
「……ああ」
 小さく頷く。
「そうだな、色々世話になってるし」
 エミリが研究所内で隆二達の担当であるにしても、橋渡し役になってくれていることには感謝している。きっと、研究班と隆二達との間に挟まれて色々面倒な思いもしていることだろう。仕事としての領域を越えて、面倒を見てもらっている、という自覚はある。
「じゃあ、それ買ってからだな」
「うん!」
 嬉しそうにマオが大きく頷いた。

 検査の日、マオがテレビで見たというバームクーヘンを買ってから、研究所に赴いた。
「わざわざすみません、ありがとうございます」
「いや、いつもありがとう」
 隆二が素直に礼を言うと、エミリがなんだかまた微妙な顔をした。礼を言うたびにそういう顔をされるんじゃ、本当、割にあわない。
 硝子の向こうでは、今日もマオが白衣と何か話している。右手が胸元のペンダントを掴んでいるのを見て、小さく目を細めた。
「あ、そうだ」
 エミリもエミリで何かを思い出したのか、置いてあった鞄から小さな袋を差し出す。
「これ、一応渡しておきます」
「何これ」
 開けてみると、円盤状の何かが入っていた。
「先日の、マオさんの写真が採用されたテレビ番組の録画です。丁度同じ回を、父の知り合いが、知人のが採用されただったか、映っているだったかで見たがっていたので、一緒に焼いておきました」
「……なに、これ、どうすればいいの」
 中身とかよりもそこを説明して欲しい。
 エミリは一瞬軽く眉をひそめてから、
「DVDです。プレイヤーで再生して見て頂きたいのですが、そういえば神山さんの家にはありませんよね。マオさん、レコーダー欲しがっていましたし、今度購入されてはいかがですか?」
 言っていることの内容があまり理解できなかったが、ひとつだけよくわかったことがある。
「これ以上、うちに変な機械を増やせと」
「真っ当な機械です」
 思わず渋い顔になってそう言うと、真顔で訂正された。使い方がわからないものは、全部変な機械、だ。
「神山さんが使えなくても、マオさんが使えるでしょうから大丈夫ですよ。休みの日でしたら、買いに行くのも付き合いますよ」
「それは大変ありがたい申し出だがな」
「なにがご不満ですか?」
「すべてだよ」
 などと不毛なやりとりを繰り広げている間にも、無事検査は終わったらしい。マオが安心した顔でやってきた。
「おつかれ」
 片手をあげる。
「おつかれさまです。この前の、オカルトクエストの録画、DVDに焼いて神山さんに渡しておきましたので」
「え、本当!?」
 ぱぁぁっとマオの顔が明るくなった。
「あー、でもうちじゃ見られないのかー。隆二ー、プレイヤー買って帰ろう?」
「お前は……。さらっと変な機械を俺の家に増やそうとするんじゃない」
「変じゃないよー、普通の機械だよー」
 軽く唇を尖らせたマオが、エミリと同じようなことを言う。
「買い方わかんないし。知らないけど、色々あるんだろ、そういうの」
「うーん。さすがにあたしも、家電については調べてないんだよなぁ。……あ、エミリさんは?」
「わたしは、このあとちょっと用事がありますので」
「……そっか」
「今度、一緒に買いに行きましょう」
「うん、それじゃあ、約束!」
 はしゃいだ声で勝手に約束をする二人に、呆れてしまう。だから、誰の家に置くと思っているんだよ、それ。
 二人の間で勝手に話はまとまったらしく、メールしますね、なんて言っている。まあ、この二人が仲良くしているのを見るのは、割と楽しいからいいのだが。
「帰るぞー」
 呆れ半分で声をかけると、
「え、まって」
 慌ててマオがこっちにきた。
「じゃあね、エミリさん」
「はい、また」
「どーも」
 挨拶を交わして、研究所を後にする。
「ねー、りゅーじ! 電気屋さん行こう!」
「はぁ?」
「下見、下見!」
「やだよ」
 なんでそんな変な機械ばっかり売っているところに行かなきゃなんないんだ。
「普通の機械だからね!」
 心を読んだかのようにマオが言った。
「はいはい」
「もー」
 あっきれたーとマオが呟いた。誰にでも、向き不向きがあるのだ、仕方あるまい。
「……ねー」
 呆れたような顔をしていたマオだが、急に何かに気づいたかのように、隆二の顔を見た。伺うように。恐る恐る。
「何を企んでる?」
 そういう顔は、過去何度も見てきた。
「た、企んでなんかないよ!」
 どうだか。どうせまた、意味のわからないおねだりでもするつもりなんだろう。
「ちがくて! あたしばっかり欲しいもの言ってるけど、隆二は欲しいものとかないのかなーって思ったの!」
 なんだか怒った調子で言われる。
「欲しいもの?」
 考えたこともなかった。
 元々性根が怠惰なのだ。物欲だって錆び付いている。何かを欲するということが、あまりない。
「……ないなあ」
 コーヒーが飲めて、のんびり本が読めれば、それで満足だった。
「なんかないの!?」
 強い口調で言われる。何を怒っているんだか。
「ないよ」
「……ああ、そうっ!」
 ふぃっとマオがそっぽを向いた。おおかた、こちらが欲しいものを聞き出して、それにあわせて強引に自分の欲しいものでもねじ込んでくるつもりだったのだろう。
 苦笑する。
「別に俺欲しいものないし、マオが欲しいものがあるんだったら、まあ、相談ぐらいにはのるよ」
 変な機械が家にくることはいやだが、だからといって過度にマオに我慢を強いるつもりもない。マオに渡している金額分で足りなければ、ちっともない貯金を多少渡してもいいし。多少なら。
 そうやって譲歩したにもかかわらず、
「別にっ」
 マオの機嫌はなおらなかった。変なやつ。いつものことだけど。
 片手をあげて軽くマオの頭を叩く。ぽんぽんっと。既に一種の流れのようになっている。臍を曲げたマオの頭を撫でること。
 マオのへの字に曲げられた口元が、ほんの少しだけ緩んだのを視界の端で確認すると、
「電気屋、ちょっとだけだぞ」
 言って、彼女の片手を掴んだ。
「……はーい」
 不機嫌を装った返事は明るい。現金なやつ。小さく笑った。