第五幕 猫眠、暁を覚えず


 ぷかり、ぷかり、と水槽の中に浮かぶマオを、食い入るように隆二は見つめていた。斜め後ろでエミリも心配そうな顔をしている。
 突然部屋に現れた、この人が一人入れるほどの大型の水槽。研究班が持ち込んだものだ。Gナンバーの研究に使っていたもので、研究所ではGナンバーはこの水槽、厳密には水槽を満たしている少し粘着性のある水の中で管理していたらしい。普通に外にでているよりも、身体にかかる負担は軽減される、と彼らは言っていた。嘘か本当か、調べる手段が隆二にはない。だから、素直にそれを受け入れた。藁にもすがる思いで。
 彼らだって、貴重な、この風変わりな実験体が無くなることは阻止したいはずなのだ。それだけは信じられる。それしか信じられない。
 白衣を着た研究班の人間は、三人来ている。しかし彼らは全員、ダイニングの方でなんだか不満そうな顔をしている。
 わざわざ呼び出されたから来たのに、着くなり、
「悪いが、研究班は信じられん。そっから先に入って来るな」
 などと言われれば当然のことかもしれない。
 だけれども、隆二としてもこれが精一杯の譲歩なのだ。本当は、研究班の人間なんて家にあげたくない。それでも、マオを助けるためには、家に呼ばざるを得ない。
 まったく忌々しい。背中に感じる研究班の視線に一つ舌打ちする。これで役に立たなかったら、覚えとけよ。
 ゆらゆらと、マオの髪の毛が水に浮かんで揺れる。
 今はただ、見守ることしかできない。
 人よりすぐれた身体能力があっても、傷つかない体があっても、無くならない命があっても、そんなもの、なんの役にも立たない。
 苛立ちは自分に向かう。やり切れない気持ちを、爪を立てて拳を握ることでどうにか堪える。ぷちり、と皮膚が裂ける音がして、
「神山さん」
 その腕をそっとエミリに押さえられた。
 少し後ろでエミリが首を軽く横にふる。
「……悪い」
 苛立つな、落ち着け。自分を責めるのは後にしろ。じゃないと大切なものを見落としてしまう。また無くしてしまう。自分にそう言い聞かせると、一つ深呼吸する。
 血がにじんでいる右手を、左手でそっと押さえる。手を離した時には、傷痕は綺麗さっぱりなくなっていた。
 水槽の中のマオに視線を移す。閉じられた目蓋。
 じっと見つめていると、やがて、ぴくりとそれが動いた。
「マオっ」
 硝子に手をあて、名前を呼ぶ。
 ゆっくりと瞳が開く。
『りゅーじ?』
 舌足らずに名前を呼ばれる。それに少しだけ安堵する。
「マオっ、大丈夫かっ」
 マオは自分の置かれた状況を確認するかのように視線を軽く動かし、
『いやぁぁぁっ!』
 自分の置かれた状況を理解すると同時に悲鳴をあげた。
『いやっ、やっ! この中は、いやぁっ!』
 ばしゃばしゃと両手を動かし、体を捻り、もがく。
「マオ!」
 慌てて上から手を差し込むと、腕を掴んでひっぱりあげた。
「あ、こらっ、勝手にっ!」
「動かないでくださいっ」
 なんだか文句を言いそうになった白衣を、エミリが睨んで止める。
『いやぁぁっ』
 白衣を見つけて、さらにマオが悲鳴をあげる。
「マオっ」
 落ち着かせるように抱きしめる。白衣から庇うように、自分の体をマオと白衣の間に滑り込ませる。
『やだっ、やだっ』
「大丈夫、大丈夫だからっ」
 怯えたように呟くマオの頭を撫でながら、何度も囁く。
 しばらくそうしていると、ようやくマオは落ち着いたようだ。そっと体を離し、視線を合わせる。涙に濡れた頬を片手で拭うと、
「落ち着いたか?」
 出来るだけ優しい声で問いかける。
『ん』
 マオは小さく頷き、それでも隆二の腕を掴んだまま離そうとしない。
『……なんでぇ?』
 一瞬水槽に目を落として尋ねてくる。上半身は外に出ているが、下半身は浸かったままだ。
『これ、嫌い……。思い出すから』
 研究所にいたころを、ということだろう。目覚めたマオが研究所のにいたころを再現させられたら、どういう気持ちになるか。考えなかった自分の迂闊さを呪う。だからといって、完全に外にでることを是とするわけにもいかない。
「説明するから。だから嫌かもしれないけど、ここからでないように。できるか?」
 泣きそうなマオの頭を撫でる。
「全部が無理なら今みたいな形でいいから」
 それでも多少はなにか違うはずだ。
『……手』
「うん、繋いでいるから」
 頷くと、頭を撫でた手はそのままに、もう片方の手でマオの手を握る。そうすると、マオは小さく頷いた。
「ん、ごめんな。嬢ちゃん、頼む」
「はい」
 自分がするよりも幾分マシな説明をしてくれるだろう。エミリに説明を託す。
 エミリはGナンバーの消滅が続いていたことと、その原因、マオに起こっていることを、極めて平易な言葉で説明した。完全な解答とは言えないかもしれないが、マオに理解させるという意味では申し分ない説明の仕方だった。
 マオはきちんと理解したらしい。
『……あたし、消えちゃうのぉ?』
 泣きそうな声で言われた言葉に、
「消えない」
 強い口調で言葉を返す。
 そんなことにさせないために、招きたくもない白衣を呼んだのだ。
「消えさせない」
 ぎゅっと握った手に力をいれると、思いは伝わったのか。マオが小さく頭を動かし、手を握り返してきた。