マオが帰ってきたのは、たっぷり一時間後。Gナンバーのこともあるし、さすがに隆二が探しに行こうかと思った頃だった。
「遅かったな」
 心配していたことなんてちっとも見せずにそういうと、
『なんかお腹いっぱいにならなくてー』
 のんびり言われた。その設定、まだ守っているのか。
『あ、エミリさんに聞いてくれたー?』
「ああ」
 頷く。ちゃんとメールしてみたのだ。忘れているとマオうるさそうだし。
「次来たら、やってくれるってよ」
 メールで説明するのが面倒なので、と書いてあったことは忘れることにする。
『本当? やった、ありがと!』
 軽く手を叩き、マオが笑う。
「なぁ」
 その嬉しそうな顔に問いかける。
『ん?』
「もう平気なのか、嬢ちゃんのこと」
 ついこの前まであんなに怖がっていたのに。あの嬢ちゃんは研究所の中では、比較的、どちらかといえばまともな部類ではあるが、だからといって急に距離感を縮めすぎだろう、エミリさんエミリさんって。ちょっと前まで名前を聞くのも嫌がっていたのに。
『んー』
 マオはほんの少し表情を曇らせる。
『たまにやっぱりちょっと怖いけど。今、エミリさんがあたしに何もしないのは、そういうお仕事がないからであって、もしそうしろって命令されたら、エミリさんまた何かしてくるのかもしれないな、って思うことはあるけど』
「……ああ」
 それは否定できない。そして、命令に背けということを、エミリに願ってはいけない。それは踏み込んではいけない領域だと、弁えている。それが彼女の生き方なのだから。まあ、口八丁で説得もどきぐらいはするけど。
 それもマオは、恐らくなんとなくわかっているのだろう。決して賢い部類ではないが、勘が鈍いわけでもないのだ。
『だけど、でも、エミリさん、良い人だから。あたしと普通に話してくれるし、ケータイくれるし』
 ああ、やっぱりケータイのくだりは、影響力大きいんだな。幽霊にも使えるケータイあげるよ、とか言われたら、あっさり誘拐されるんじゃないだろうか、こいつ。
『あたし、研究所のことは大嫌いだしなくなっちゃえってずっと思ってるけど。エミリさんのことは嫌いじゃないよ』
 ほんの少しだけ、マオは微笑んだ。少し強張った笑みだけれども。
『隆二とね、テレビとね、このソファーと』
 一つずつ、指折り数えながら列挙していく。
『あと、それから京介さんの次ぐらいに、エミリさんのこと好き』
「……そうか」
 屈託なく言われた京介の名前に、一瞬どきりとした。現在進行形で京介のことを好きだと言う、マオの屈託のなさになんだか心が揺さぶられる。そうか、別に無理に過去の話にしなくてもいいのか。そんなことを思う。
 あと、テレビとソファーの順位高過ぎだろ。知っていたけれども。
『研究所は嫌いだけど、それとエミリさんは関係ないから、今は平気』
 マオは微笑んだまま締めくくる。
「そっか」
 変なこと訊いて悪かったな、と言いながらその頭を撫でる。くすぐったそうにマオが笑い、それでも素直に撫でられるままになっていたのが、
『ああっ!』
 突然くわっと顔をあげて大声をだした。
「うわっ」
 それに驚いて手を離す。
『大変っ! ミチコはじまっちゃうっ! 隆二、テレビ! チャンネル!』
 大慌ててテレビの前に座るマオに呆れながら、チャンネルを合わせる。
 なあ、さっきの好きランキング、やっぱり俺の上にミチコがいるだろ? そう問いかけたい衝動にかられる。ばかばかしいし恥ずかしいし、口にはしないが。自分の上には何もいないのが当たり前だ、と言っているみたいで、なんだか自意識過剰にもとれる。
 オープニングテーマを一緒に熱唱しているマオを呆れて見ながら、ソファーに腰をおろす。しばらくマオを眺めていると、ソファーに置いていたケータイが震えた。着信、進藤エミリの文字。電話ということは、さっきの無駄な質問とは関係ない、重要な用件ということだろう。
「嬢ちゃん?」
「エミリです。今いいですか?」
「ああ」
 さりげなさを装って、マオから離れ、キッチンの方に向かう。
「研究班から資料を奪いとったのでお伝えします」
 奪い取ったのかよ。
「ああ」
 冷蔵庫と棚の隙間に身を隠すように背中を預ける。こんなことしなくても、テレビを見ているときのマオが、隆二の会話に気をとめるとは思えないが。
「Gナンバーが消滅している原因ですが、原動力の回路に異常が発生したことです」
 エミリは淡々と言葉を重ねて行く。その冷静さが、今はなんだか安心できる。頭が冷える。
「Gナンバーの原動力はご存知のとおり、人の精気です。摂取したそれを存在維持に使う回が経年劣化といいますか。うまく処理できなくなってきたんです。人間でいうと、そうですね、消化器官に病気が見つかったようなものだと思っていただければ」
「ああ」
「もともと無理矢理作り出しているものですから、多少の齟齬がでてしまうのはしょうがないこと、だと研究班が言い訳していました」
「……しょうがないですますなよ、バカが」
「まったくです」
 本当に仲が悪いのだろう。身内のことでありながら、エミリが冷たく吐きすてた。
「原動力が上手く処理されない。エネルギーが上手く消費できなくなるんです。燃費が悪くなる、といいますか。だから眠って行動を抑制することになるんです。エネルギーの消費が最小限で済むように、と。あとは、食事の量が増えたり」
「……待て、今なんて言った?」
 聞き捨てならないことを言われた。
「食事の量が増える、と。……心当たりが?」
「……大ありだ」
 衝動に任せて舌打ちする。
 最近、こころなしか増えた気がする食事の回数。燃費悪いな、と揶揄したことを思い出す。さっきなかなかお腹いっぱいにならなくて、とか言っていたのも、家を出て行く言い訳じゃなくて本当のことだったのかもしれない。
「はやく言えよ」
 もう一度舌打ち。
「すみません」
「止めていたのは研究班だろう?」
 あっさり謝るエミリに、それはそれで拍子抜けしながら続ける。
 それに、気づかなかったのは自分の落ち度だ。ヒントに気づいていたのに、それを結びつけて考えることが出来なかった。
「ちょっとマオの様子見てくる」
 急に持ち上がった不安に、背中を離し、テレビの方を向く。
「……マオ?」
 そこに居候猫の姿はなかった。
「マオっ」
 鋭く名前を呼び、そちらに足を踏み出したところで、
『なぁにー。今テレビ見ているんだけれどー』
 マオの面倒そうな声がして、次の瞬間には、さっきと変わらない場所に座っているマオの後ろ姿が視界に入ってきた。
 突然現れた姿に、足が止まる。
「神山さん?」
 電話の向こうでエミリの怪訝そうな声。
 そこにいるはずのマオが、今、見えなかった。
 視認、できなかった。一瞬消えた。
 視界から。
 ぞっと肌が粟立った。
 存在が、揺らいでいる?
 視認出来なくなるほどまでに、存在が揺らいでいる。消えかかっている?
「マオ!」
 そのことに行き当たると、慌てて駆け寄り、その手を掴む。
 マオが驚いたような顔をしてこちらを振り向いた。
『え、どうしたの?』
「大丈夫か?」
『なにが?』
 不思議そうな顔をするマオに、どこか強張った笑みでなんでもないと告げると、少しだけ距離をとる。そして放置していたケータイを耳に当てる。
「どうかしましたか?」
 エミリの声がどこか焦ったように聞こえる。
「頼む、すぐに来てくれ」
 思ったよりもあっさりと、頼る言葉が口から出た。そのことに自分で驚く。ああ、自分が誰かをこんな風に頼るなんて。それも研究所の人間を頼るなんて。
「もうこの際だ、研究班も連れてこい」
 背に腹は代えられない。例え代償にどんな無理難題をふっかけられても、ここでマオを失うことに比べたら安いものだ。それだけはあってはいけない。
「何がありましたか?」
「一瞬、視認できなかった」
 一拍の間のあと、
「すぐに行きます」
 エミリがそう返事して、すぐに通話が切れた。
 エミリがきて、研究班もきて、それをどうマオに説明したらいいものか。ふっとそんなことが頭をよぎる。
 これ以上、起こっていることを隠し通すのは無理だろうか。
 腹立ち紛れに片手で髪をかきむしると、マオの方をふりかえった。
「……マオ?」
 こぼれ落ちた声が掠れる。
 さっきと同じ場所に彼女は居た。ただ、さっきまでと違うのは。
「マオっ」
 慌ててかけよる。
 いつの間にか、少し目を話した隙に、マオは丸まって眠っていた。
「マオ、マオ」
 揺さぶる。なんで起こすの! と怒鳴られてもいい。とにかく一度、目を覚まして欲しかった。
 テレビでは、疑心暗鬼ミチコがやっている。丁度、変身して戦闘の真っ最中だ。
 だって、ありえない。マオが疑心暗鬼ミチコの途中で眠るなんて、こんな一番盛り上がる場面で眠るなんて、そんなこと。あってはならない。
「マオっ!」