第三幕 彼女が拾った猫との生活


「くそったれ」
 隆二が呟いた言葉は、茜色の空へと吸い込まれた。
「くそ、あのガキ。せっかく助けてやったのに、人の顔を見た途端逃げやがって」
 車に轢かれそうな子どもを見たら、咄嗟に体が動いていた。代わりに自分が盛大に車に轢かれた。さらには子どもに逃げられた。そりゃあ、こんなけがで話しかけたら、怖いだろうけれども。それでも礼の一つぐらい言っても罰はあたらないんじゃないだろうか? あんな悲鳴をあげて逃げなくても。
「俺は化け物か、っていうんだ。いや、化け物だけど」
 自分で言った言葉に自分で傷ついて、ため息をつく。
 怖いのでちゃんとは確認していないが、額は縫う必要がありそうなぐらい切れている気がする。肋骨も数本折れた気がするし、足の骨も心配だ。二、三日もすれば治りそうだが、この状況での二、三日は長い。
「やってらんねぇ」
 ため息をついた。
 これからどうしよう。頭の片隅で悩みながらも、色々面倒になって、今はもう寝てしまおうかと瞳を閉じかけたところ、
「大丈夫ですか?」
 頭上でかけられた声に再び目を開ける。
 そこには心配そうな顔をした少女が一人。
「あの、大丈夫ですか?」
「……あんたは、これが大丈夫そうに見えるわけ?」
 腕を持ち上げて額から流れる血を拭いながら逆に聞くと、彼女は途端に大きく顔をゆがめた。まるで彼女の方がけがをしたみたいな顔だった。
「そ、そうですよね。……でもよかった、話せるならば見た目よりもひどくないみたいですね」
 多分見た目よりもひどいと思う。俺じゃなかったら多分死んでいる。
 結局、見つかってしまった。
 これからの自分の運命を思うと、ため息しか出ない。化け物として見せ物小屋に売られるか、警察に連れていかけるか、それとも、また研究所に戻されるのか。最後だけは絶対に、嫌だなぁ。
 隆二が自分の身の上を悲観的に、だけれどもどこかのんびりと思っている間に、彼女は隆二の傍にしゃがみこんだ。そのまま隆二に異を唱える隙を与えず、自分のハンカチで隆二の額を抑える。
「うわっ、あんた何やってるんだ!?」
 いきなりのことで驚いた隆二に、彼女は
「え、一応止血を……」
 逆に何を聞いているのだろうこの人は? という口調で言い返した。
「別に、そんなのいいって……」
 振り払おうと動かした手を、彼女は片手でつかむとゆっくりと下に下ろさせる。
「おとなしくしていてください。大丈夫、悪いようにはしませんから。それより、動くと傷口が開いてしまいます」
「……あー」
 薄倖そうな彼女の意外と力強い口ぶりに驚いて、そしてそれが正論であることは認めなければいけない事実で、結局何も言えずに再び空を見る。
「……この近所に」
 彼女がぽつりと言った言葉に、顔をそちらに向ける。
「私の主治医の先生がいらっしゃいます。今からそこに行くつもりだったので、一緒に行きましょう。……あ、でも、そのけがじゃ動かないほうがいいですし、動けませんよね。先生を呼んできますので、待っていてください。いいですか、絶対に動かないでくださいね」
 そういって彼女は立ち上がる。
「おい、あんた」
「大丈夫、私も先生も口は堅いですから」
「……そこじゃない。名前」
「え?」
「あんた、名前は」
 彼女は、驚いたような顔をしてから、すぐに微笑んだ。
「茜。一条茜です」
 そういって、先ほどから隆二が眺めている空の色を名前に持った彼女は、微笑んだ。
 それが、一条茜との出会いだった。