赤いソファーに座り、本を読む。それは隆二のいつもの行動だった。ただ、違うのは、
「……遅いな」
 視線が本と時計の間を行ったり来たりすること。寧ろ、ほぼ時計固定になっている。
 マオが出て行って、あんな言い方をする必要はなかったと反省したものの、そこからどうこうする気は起きなかった。マオに問いつめられたことが不快だったことは事実だし、また意味も無く後ろめたい気持ちになった自分も嫌だった。
 どうせすぐ帰ってくるだろう。いつもみたいに。そう結論付けて本を読みだしたものの、内容は頭に入ってこない。
 付けっぱなしにしていたテレビは、今はニュースになっている。結局、富子放送中には戻って来なかった。あんなにいつも、楽しみにしているのに。
 やっぱり探しに行った方がいいだろうか。
 もう何度目かのその回答を導き出し、でもそれもどうだろう、もう戻ってくるかもしれないし、もう何度目かの躊躇いをみせる。
 そうこうしているうちに、
「たっだいまー」
 能天気な声と共に京介が戻って来た。
 お前に用はない。
「玄関、鍵あけっぱなし危ないよー」
「鍵もってないだろ」
 冷たく言葉を返す。
 合鍵なんてもっていないため、どちらかが必ず家にいることにしていた。
「そんなことより京介、マオ見なかったか?」
 ソファーから立ち上がり尋ねると、
「見たよ」
 あっさり言われた。
「どこでっ」
「ん」
 京介が自分の後ろを指差す。京介の影で、マオがドアからほんの少し顔を生やしていた。
「マオっ」
『ひっ』
 思わず名前を呼ぶと、マオが顔を引っ込める。
「逃げるなっ、怒ってないから」
 のんびりと買った物を袋から出している京介の背後を抜けて、玄関へ向かう。
『……本当?』
 顔だけをドアから生やしてマオが尋ねてくる。
「悪かった。無神経な言い方して」
『……あたしも、ごめんなさい』
 マオもいつもよりも素直に頭を下げる。
「とりあえず、中入れ」
 右手を差し出す。
 こんな玄関で、ドアから首を生やした幽霊とでは、まともな会話は望めない。
『ん』
 マオは頷くと、隆二の手に素直に自分の手を重ねた。
 その手をひっぱり、いつもの位置、赤いソファーまで戻ると、マオを座らせた。自分もその向かい、畳の上に腰を下ろす。
 京介は鼻歌なんか口ずさみながらキッチンに立っていた。あれのことはひとまず無視しよう。
『あの、本当にごめんなさい』
「いいって。俺も、いらついて悪かった」
『それもそうだけどそうじゃなくて』
 マオが隆二の言葉を遮ると、ちらりと一度京介に視線をやる。嫌な予感がした。
『話したくないこと、無理に聞こうとしたこともごめんなさいなんだけど。あたし、京介さんに、聞いちゃったの……。勝手に。茜っていう人のこと。だから、ごめんなさい』
「京介っ」
 マオの言葉を最後まで聞く前に怒鳴っていた。茜のこと言うなって言っただろうがっ。
『あ、あの、あたしが無理に聞いたから京介さんは悪くないよ?』
 マオが庇うような発言をするから、それにもまた少し腹が立つ。
「そういう問題じゃないっ」
「もー、隆二は五月蝿いなぁ。カルシウム足りてないんじゃん?」
 京介はのんびりとそう言うと、皿を片手にこちらにやってきた。
「はい」
「……なんだこれ」
「煮干し」
「それは見ればわかるんだよっ」
「カルシウム、摂った方がいいよ」 
 隆二に煮干しを手渡すと、京介はまたキッチンに戻る。そもそもこの煮干し、よく見たらダシとったあとのやつじゃないか。喰えっていうのか、これを。
『あ、あのね』
 くたった煮干しを睨む隆二に、おそるおそるマオが声をかける。
『京介さんも、あの、さっきは、一緒に謝るからって。ん? 謝るだっけ? 怒られる? 忘れちゃった。でも、ええっと、あの、勝手に喋ったのも同罪だからって言ってたから、その。悪気があるわけじゃないっていうか』
「今、直接、謝らなきゃ意味ないだろうが」
 溜息混じりにそういうと、煮干しをとりあえず畳の上に置いた。
 まあ、おかげでマオとのことに関しては冷静になれた、かもしれない。
「マオは悪くない。マオだけが悪いんじゃない。俺も悪かったし、京介はもっと悪かった。だからもう、謝らなくて良い。こっちも悪かった」
 気を取り直してそう告げると、マオは少し安堵したようだ。肩から力が抜ける。
『あのね』
 そのまま、いつものような口調でマオが言った。
『あたし、隆二に隠し事されたのが嫌だったの。あたしは隆二に、もう隠し事ないのに』
「それは」
 マオの言葉に咄嗟に何か弁解しようと口を開くと、マオが片手でそれを遮った。
『でもね。考えてみたら、あたしには隠すようなことないだけだったの。だって、発生してすぐにここにきて、ずっと隆二と一緒にいるんだもん。あたしよりももっともっともぉっと長生きしてる隆二には、内緒にしたいこともあるよね』
 あたしにはよくわかんないけど、と小さくつけたした。
『だから、無理強いしてごめんなさい』
 ぺこり、ともう一度だけマオは頭を下げた。
『あたしは、今の隆二と一緒にいられればいいや』
 そして笑う。屈託なく、無邪気に。
 眩しくて、見ていられない。
「……だって言ったら、軽蔑するだろ」
 その笑みから逃れるように視線を逸らし、言い訳のように呟く。
『え?』
「話したら、マオは俺のこと、軽蔑するだろうから」
 どうしてもマオに茜の話ができなかった本当の理由が、今のでわかった。
 茜のことを改めて話して、自分で自分の傷口を抉るのが嫌だっただけじゃない。
 マオに約束を破る卑怯者だと思われたくないのだ。約束を破って、愛する人を捨てた卑怯者だと。この無邪気な居候猫に思われたくなかった。
 マオは眉間に皺を寄せて難しそうな顔をし、何かを悩むようにしばらく沈黙した。
 テレビの音と、キッチンから何かを刻む音だけがする。
『よくわかんないけど、隆二が嫌なら本当に話さなくていいよ』
 しかめっ面のまま、ようやくまとまったかのように慎重にマオは告げた。
『だけど、あたしが隆二のことけーべつしたり、嫌いになったりすることはないよ、絶対』
 隆二の目を見てしっかりと告げる。
「……嘘つきの卑怯者でも?」
 呟いた声は思ったよりも弱々しくて、自分でも驚いた。情けない。
『だって隆二は元々出会った時からひとでなしじゃない。あたしもだけど。あたしのこと最初無視したりするし、でもずっと家においてくれてるし、冷たいけど優しいし。どっちも本当なの知ってるから、今更嘘つきでも卑怯者でも驚かないよ?』
 そして小さく微笑んだ。
『あたしにとって隆二が特別なの、それは絶対変わらないもの』
 そんなマオを隆二はしばらく見つめ、
「……ありがとう」
 小さく呟いた。
 本当は誰かに、話したかったのかもしれない。絶対に自分のことを否定しない誰かに。
「京介、あのさ」
「おおっといけない。買い忘れたものがあった!」
 キッチンに向かって声をかけると同時に、芝居がかった声がした。
「ちょっと再び買い物に行ってくる。少し遠くまで! 夕飯は遅れるが笑って許せよ!」
 そう早口で告げると、京介は家を出て行った。
 なんだかんだで、根はいいやつなのだ。あいつも。
『……あんなに買ってたのに、何忘れたんだろう』
 マオがぽつりと呟く。
 ああもう、だから純粋だというんだ。この居候猫は。
「マオ」
 名前を呼ぶと、不思議そうに玄関を見つめていたマオがこちらを向いた。
「あのさ、聞いてくれるか?」
『……うん』
 マオは少し表情を引き締めて頷いたものの、
『あの、でも、本当にいいの? 無理してない? 嫌だったらいいんだよ?』
 心配そうな顔をして隆二を見る。
「いいんだ」
 それを見て少し微笑んだ。
 マオならきっと、ちゃんと聞いてくれる。
「あんまり楽しい話じゃないけど、誰かに聞いて欲しかったんだ」
 本当はずっと。
 そうして隆二は、思い出の箱を開いた。