間幕劇 再び拾った猫の名は


「くそっ」
 彼が呟いた言葉は茜色の空へと吸い込まれた。土手に寝転がった状態で見る、それはとても眩しい。
 車に轢かれそうになった子どもを見たら、咄嗟に体が動いた。結果、代わりに轢かれたなんて、お粗末な展開もいいところだ。子どもには悲鳴をあげて逃げられるし。
 怖いのでちゃんとは確認していないが、額は縫う必要がありそうなぐらい切れている気がする。肋骨も折れた気がするし、足の骨も心配だ。痛覚はとっくの昔に切ったから痛むということはないし、ニ、三日すれば歩けるぐらいには傷も回復するだろう。しかし、そのニ、三日ずっとこの川原で寝転んでいるわけにはいかない。下手すると警察なり医者なりを呼ばれかねない。だからと言って、根無し草の自分に行く当てなどあるわけもなく、
「やってられん」
 ため息をついた。もう諦めて寝てしまおうとかと目を閉じかけると、
「だから車! 轢かれてね! 男の人がっ」
 どこからか、子どもの声がした。
 常人離れした彼の耳には、まだ遠くのその声がはっきりと聞こえる。
 ぱたぱたと、走るいくつかの足音と共に。
「隆二兄ちゃんっ、みたいに!」
「で、俺の時みたいに悲鳴をあげて逃げたわけだ」
「だって! 怒られると思ってっ」
「わかってるなら気をつけろよ。そそっかしいんだよ、太郎は。いつか本当に轢かれるぞ」
 走っているから呼吸が乱れている子どもの声とは対照的に、一緒に聞こえてくる男の声は平坦なままだ。乱れがない。
「でもっ、大丈夫なのかしらっ」
 こちらも乱れた女性の声。
「隆二は、ともかくっ、心配」
「俺はどっちかっていうと茜の方が心配だ」
 咎めるような声色。
「いいから歩いてゆっくりついてこい。走るな」
「でもっ」
「太郎、土手だよな」
「そうだよっ、隆二兄ちゃんと一緒」
「だって。走るな、歩け。まだ距離がある。お前まで倒れたらどうする」
「……はい」
 足音が一つ、歩きになる。
「先に行ってる。俺一人の方が速いし。太郎、茜が走らないようにちゃんと見とけ」
「うんっ」
 そして、男のものと思われる足音が、はやくなった。
 その走り方とか、名前とか、声とかに、彼はなんとなく不穏なものを感じる。知り合いな気が、ひしひしとする。
 面倒だなーと思う反面、もし本人ならば厄介ごとは軽減するよなぁ、なんて思っていると、
「……京介?」
 名前を呼ばれた。
「さすが、おはやいお越しで」
 常人離れした脚力でやってきた、知り合いに片手をあげて挨拶する。
「なんだ、お前か」
 呆れたように笑って、男は彼の隣に腰を下ろした。手当をする気とかは、まったくないらしい。彼としても、手当されても気持ち悪いだけだからいいのだが。
「俺が助けた子どもが、隆二を呼んだわけ?」
 尋ねるというよりも、確認するように呟く。
「聞いてたのか?」
「ああ」
「そっか、お前は特に耳がいいもんな」
 彼は、仲間の中でも特に聴力に優れていた。
「女の声もしたけど」
「……ああ」
 男は言葉を濁す。
「うわぁ、隆二が女連れだぁー!」
 それに思わずからかうような声をあげると、
「黙れ」
 脇腹を叩かれた。
「……怪我人相手にひでぇ」
「痛覚切ってるくせによく言う」
 図星だったので小さく笑うに止めた。
 二人でなんとなく空を見上げる。
「知り合いの医者」
 男が空を見上げたまま、呟く。
「腕もいいし、口も堅いから、京介のことも手当してくれるはずだ」
「それはよかった」
「だから」
 そこで男は言葉を切り、彼に視線を向けると、
「治ったらさっさとここから出て行けよ」
 低い声で告げた。
「……わかってる」
 彼も同じような声で答えた。
 こんなところで、自分達は出会うべきではなかった。できるだけ会わないように暮らしていたのに。後から来た方は、さっさと出て行くべきだ。お互いの暮らしを守るために。
「……京介」
「なんだ」
「お前のところにも来たか?」
「……死神さんのことか?」
 男が頷く。
「……来たよ」
 答えると、男はそうか、と小さく呟いた。
「人間として暮らすなんて、やっぱり無理なのかな」
 そうして男は小さく小さく、消え入りそうな声で呟いた。
 彼の常人離れした聴力は、その言葉もきっちり聞き取ってしまった。ああ、聞こえなければよかったのに。男と一緒に、自分の傷まで抉られた。
 人間として暮らすなんて、諦める以外、何ができるというのだ。期待したい気持ちは、わかるけれども。
「隆二っ」
 女の声がして、彼は視線をそちらに向けた。
「だから走るなって」
 小走りで現れた女を、男がたしなめた。
「でもっ」
「これ、知り合い」
 つまらなさそうに男が彼を指差す。
「え?」
「仲間」
「……ああ」
 女は得心が行ったとでも言いたげに頷いたあと、少しだけ痛そうな顔をした。
「……だからなんでお前がそういう顔するかねぇ」
 その顔を見て、男が呆れたように呟く。
 男女の間に流れる、その特有の空気に彼は溜息をついた。これは深い仲にある男女の空気だ。居たたまれない。
 まったくどうして、なるほど、男が人間になりたがるわけだ。
「あの……」
 女の影に隠れるようにして、少年が顔を出す。
「太郎、大丈夫。こいつも俺と同じようにしぶといから、生きてる」
 男のその言葉に、少年はほっとしたような顔をした。
 そのまま彼の脇まできて、
「ありがとうございました。ごめんなさい」
 頭を下げた。
「……いいよ」
 その素直な言葉から、逃げるように彼は視線をそらした。
「先生のとこ連れてく。二人は先、帰っててくれ」
 男が言う。
「でも」
「大丈夫」
 心配そうな女に、優しげに笑いかける。
 ああ、こいつ、まだそんな風に笑えるんだ。そう思った。
「本当?」
「ああ」
「……じゃあ、わかった」
 女はまだ少し、心配そうな顔をしたものの、引き下がった。
「太郎、茜送ってやってくれ」
「うん!」
「車には気をつけろよ」
「わかってるよ!」
「茜、待ってなくていいから。遅くなったら先に寝てろよ」
「……うん」
 そんな会話のあと、少年と女が去って行く。それを見てから、
「よいしょっと」
 男は彼を荷物のように肩に担いだ。
「怪我人に対する扱いかたじゃないよな?」
「じゃあ自分で歩けよ」
「いますぐは無理」
「だろ?」
 男が笑う。
「先生っていうのが、その口の堅い医者?」
「そう。茜の主治医」
「……さっきの女の子?」
「ああ」
「一緒に住んでるわけ?」
「……ああ」
「そっか」
 彼の視線の先で、地面が揺れる。それを見ながら彼はしばらくためらったあと、
「あのさ、言われたくないと思うけど」
「じゃあ言うなよ」
 恐らく何を言われるのかわかったのであろう男が、棘のある口調で言う。けれども彼は、それを無視した。
「入れ込むなよ。そんなこと言っても、もう遅いかもしれないけど。無理だよ、人間となんて」
 男は答えない。心持ち、早足になる。
「俺らじゃ無理だ。だって」
 化物なのだから。その言葉は、口にはしなかった。言わなくても伝わるだろう。
「彼女はどんどん歳をとって、死んでしまうのに、俺らはそれについていけないんだ。傷つくだけだよ、お互いに。隆二」
 夢なんて見るな。無理なものは無理なんだ。
「俺らは人間としては暮らせない」
 少しの沈黙のあと、
「……わかってるよ」
 押し殺したような返事が聞こえた。彼がそれに言葉を返す前に、
「ついた」
 男が言い、その小さな診療所の扉を開けた。
「先生ー、急患でもないけど、急患」
「なんだそりゃ」
 男の言葉に、老医者が出てくる。
 そうしてうやむやのうちに、その話は終わりになった。

 怪我が治った彼は、約束どおりさっさとその場所を後にした。
 これ以上その場所にいて、あの二人の関係を間近で見ることに耐えられなかった。どうして、お互い傷つくことがわかっているのに、夢を見て、求めあうのだろう。
 心配で心配で、だけれどもどこか羨ましくて、自分も夢が見たくなる。あの場所には、いるべきではない。

 数年後、男が女の元を離れ、別の場所に言ったと人伝に聞いた。ほどなくして、女が亡くなったことも。
 その後、再びあった男は何でもないような顔をしていた。それでも、あの時みたような笑みを見ることはなかった。
「お前の忠告を、ちゃんと聞いておけばよかった。もう、何かにかかわったりしない」
 代わりに男は小さく呟いた。
 その言葉に彼は物悲しい気分になった。
 ああ、そんな風になんでもないような顔をしているけれども、お前はしっかり傷ついているじゃないか。
 もっと真剣に、無理矢理にでも、止めておけばよかった。ほんの僅かに、彼は二人の関係に憧れていたのだ。彼らには奇跡が起きて、今後も人間として暮らしていけるんじゃないか、そう思ってしまったのだ。だから、止める手は鈍った。
 彼はひっそりと後悔した。