居候猫がいなくなった。
 最初は気を使ってどこか少し離れたところで待っているのかと思った。しかし土手周辺を探しても見つからず、隆二は慌てて来た道を戻った。こんな不慣れな土地で、一体どこに行ったというのか。
 最初はただの早足だったのが、気づいたら駆け出していた。不安が胸をかすめる。迷子になっていやしないだろうか。なにかあったんじゃないだろうか。
 駅近くまで戻ってくる。公園の横を抜けようとした時、公園を覆うように生えた木々の間から、ベンチに座る見知った後ろ姿を発見した。
「京介!」
 名前を呼ぶと、京介は不機嫌そうな顔で振り返る。
「マオ、知らないか?」
「……いるよ、ここに」
 不機嫌そうに吐き捨てられた。
「そっか……」
 それに安堵する。とりあえずいるならば、いい。
 京介は何故か眉を吊り上げ、
「はやくこっち来い」
 冷たく言うと、隆二にまた背を向けた。
「何怒ってるんだ?」
 小さくぼやきながらも、入り口にまわりベンチに駆け寄る。
「マオ!」
 ベンチの上、体を丸めるようにして横たわっているマオの姿に、少し焦る。なにか、あったのか。
「どうした?」
「大丈夫、眠っているだけだよ」
 近づくと、確かに眠っているようだった。マオの頭を撫でる。
「……泣いたのか?」
 頬に残る涙の後を見て、そう問いかけると、
「そんなに心配ならもっと大切にしてあげたらどうなんだ?」
 冷たく吐き捨てるように言われた。
「……お前、さっきから何怒ってるんだ?」
「そんなことも言われなきゃわかんないのかよ」
 睨みつけられる。
「茜ちゃん、会ったんだってな」
「ああ」
「お前のことだ、久しぶりに茜ちゃんに会って、会えて、マオちゃんのことなんかころっと忘れてただろ」
「……否定は、しない」
 だけど、お前だって俺の立場だったらそうしただろが。言い訳は、なんとか飲み込んだ。
「考えなかったわけ? 茜ちゃんが待ってるのみて、マオちゃんがどう思うかって」
 まあ無理だよな、とバカにするように笑われる。なんだっていうんだ、さっきから。
「居られなくなる」
「は?」
「茜ちゃんが幽霊になっているなら、隆二とずっと一緒にいられる。そうしたら、自分はもう隆二の家に居られなくなる。そう言って泣いてたよ、マオちゃん」
「……そんなこと、あるわけないだろうが」
 そんなバカなことで悩んでいたのか、この居候猫は。今更追い出すわけ、ないだろうが。
 もう一度、バカな居候猫の頭を撫でた。
「大体、幽霊だからって茜とずっと一緒にいられるわけないだろ」
 成仏した方がいいに決まっているのだから。
「マオちゃんにそんなこと、わかるわけないだろ」
「……そうかもしれないが」
「マオちゃん、泣いてたけど、こうも言っていた。それでも、謝りに行こうって言ったことは後悔してないって。隆二が辛そうだったから、ここに来たことは後悔してないって」
 何か言おうと口を開き、結局何も言えなかった。眠るマオを見る。
 そんなこと、思っていてくれたのか。でも、考えてみればいつもそうだったかもしれない。自分勝手で、自由気ままで、気分屋で。振り回されているけれども、彼女の思考はいつも神山隆二に向いていた。茜の話をするときだって、辛いなら話さなくていいと、言ってくれた。
「……ありがとう」
 小さく呟き、その頭をもう一度撫でた。
 未だに不機嫌そうな顔で京介が言葉を続ける。
「マオちゃんがあんまり泣くから、俺思わず言ったよね。なら俺と一緒に居ればいいって」
「お前なっ」
 簡単に言う京介に、かっとなった。
「なんで怒るんだよ」
「無責任にそういうこと言うなよっ」
「どっちが無責任だよ、俺は本気で言った!」
「茜からは手を引けってあんなに言ってたお前がかっ? ずっと、永遠に、マオの面倒見るつもりがあるっていうのかよっ」
「茜ちゃんとマオちゃんはまた別だろうがっ」
「何がっ」
「茜ちゃんは人間で、マオちゃんは幽霊だろ。前提条件が違うっ。俺は、マオちゃんならずっと一緒にいてもいいと思ってる」
「ふざけんな」
「ふざけてるのはお前の方だっ」
 一際大きな声で叫ばれ、指をつきつけられる。周りの視線が集まるが、もうお互い気にしていない。いられない。
「盗られたら困るなら、最初から盗られないようにしろよっ!」
「盗る盗らないってなんだよっ。そういう話してないだろっ」
「してるだろ。大体、マオちゃんに断られたつーの!」
 吐き捨てるように怒鳴られた。それに次の言葉を出そうとしていた口が止まる。京介はゆっくり息を吐き、落ち着きをいくらか取り戻してから、
「隆二じゃなきゃ、意味がないってさ」
 俺ってば超惨め、と続ける。
 隆二は再びマオに目をやる。今の騒ぎでも起きる気配はない。よほど、疲れているのか。
「隆二」
 名前を呼ばれて、京介に視線を移す。すっかり落ち着いた彼が、珍しく真剣な顔で言った。
「マオちゃんを茜ちゃんの代わりにするのはやめろ」
「代わりになんてしていない」
 心外だな、と続ける。心の底から。こいつがなにを考えているかわからない。マオが茜の代わり? バカを言うな。
「マオが茜の代わりになんかなれるわけないだろ」
「……そっちかよ」
 うんざりしたように京介がため息をつく。
「ナチュラルにひどいんだよ、お前は」
「大体なんで代わりなんていう発想がでてくるんだ? マオは幽霊なんだから茜とは違うだろ」
「だからそっちかよ本当お前はだめだなこの唐変木」
 先ほどとは違い声を荒げることはないが、妙に早口で苛立っているのが感じられる。
「何怒ってるんだよ。大体、マオが幽霊で茜とは違うって言ったのはそっちが先だろ」
「確かに言ったけどさ、そうじゃなくて。なんで言わないとわかんないんだよ。茜ちゃんもマオちゃんもこんなののどこがいいんだよ」
 あからさまなため息をついて、京介は両手で顔を覆った。そのままの姿でしばらく固まる。どうしたものかと隆二も黙ってそれを見ていた。
「いや、もういいや」
 小さく呟いて、京介が顔をあげる。
「うん、とにかく俺が言いたいのは、もうちょっとマオちゃんのこと考えてあげろよ、ってこと。それぐらい、お前にだって出来るだろ」
「なんかバカにしてないか」
「なんでバカにされないと思うんだ」
 本気でこいつ大丈夫か、とでも言いたげな顔で見られる。
「まあ、いいや。今日のところは」
 言いながら京介は立ち上がり、
「とにかく! 俺は先に帰るからな。ちゃんと仲直りしてから帰って来るんだぞ」
 そうして後ろを向く京介を、
「ちょっと待て」
 隆二は引き止めた。なにもいわず京介が振り返る。顔になんだよお前、と書いてある。
「金がない、貸して」
 その、なんだよお前という顔に右手を突きつけた。
「花買ったからあと千円しかない」
 それでは帰れないことぐらい、さすがの隆二でもわかる。
「はぁ? なんで遠出するってわかってるのにそれぐらいしかもってないんだよお前はッ! 貸してって言うのは返すあてがあるときだけにしろっ!」
「じゃあ頂戴」
「子供かッ!」
 言いながらも京介は、財布からお札を抜き出し、隆二に手渡した。
「新幹線の切符買えるか? 無理だよな。わかんなかったら駅員に聞け。それならできるよな?」
 じゃあな、と京介は振り返り、
「京介」
「まだなんかあるのかよ」
 うんざりと振り向く。
「鍵。もってないだろ」
 そこにポケットから出した鍵を投げた。
「家、入れないだろ」
 当たり前の事実を指摘しながら告げると、
「お前がいつまでたっても合鍵作らないからだろ!」
 苛立ったように一度足を踏み鳴らし、京介が怒鳴る。
「帰りが遅くなっても、起きて待ってるなんてしないからな! 外に居ろ! 寧ろ野たれ死ね! この唐変木っ!」
 とんでもない罵倒だった。あいつ何をあんなにかりかり怒ってるんだ? カルシウム足りないんじゃないか?
 ずんずんとやけに早足で遠ざかって行く背中を見ながら思う。まあ、心配してくれているんだろうな、と好意的に解釈し、隆二はベンチに腰を下ろした。
 丸まっているマオの頭を撫で、少し考えてからそっと自分の膝の上にその頭を載せた。まあ、これぐらいのことは、しても罰が当たらないだろう。
 真っ昼間から男二人が怒鳴り合っていたからか、公園の人影はめっきり減っている。遊んでいた子どもには悪いことをしたな、とちょっとだけ反省した。