隆二はゆっくりと体を離す。正面から茜の顔を見る。記憶の中にあるのと同じ笑顔で茜は笑った。
「遅くなってごめん、ありがとう」
 額と額をくっつけて、押し殺すように呟くと、彼女はただ首を横に振った。
『私こそ、ごめんなさい』
 そういいながら彼女は隆二の頭を撫でる。
『先に死んじゃって。隆二が戻ってくるまで、絶対に待ってようって決めたのに。百でも二百でも生きていてやるって』
「茜……」
 なんで彼女はこうなんだろう。恨み言の一つや二つ言ったって、決して罰は当たらないのに。
「一人にして、ごめん」
『先生が一緒にいてくれたから』
「……そっか」
 好々爺という言葉がぴったりの茜の主治医を思い出す。
「先生は、やっぱり……」
『年だったから』
「そう、だよな」
 生きている、はずがない。
「俺、先生にお礼も言わずに飛び出して来たからな」
 なんて不義理なんだろう。なんて自分のことしか考えていなかったんだろう。
「茜にも先生にも、迷惑をかけるだけかけて……」
『気にしてないよ、先生も私も』
 とんとん、と子どもをあやすように背中を叩かれる。
『来てくれて、本当に嬉しい』
「うん」
『ありがとう』
「こちらこそ。本当に、ありがとう」
 まさか本当に待っていてくれるなんて。
 額を離し、代わりにその手をぎゅっと握る。茜もそっと握り返して来た。
『今は、誰かと一緒?』
 微笑みながら尋ねられて、一瞬言葉に詰まる。
『誰かに言われないと隆二、あなたここに来る気にはならなかったでしょう?』
 くすくすと笑われる。お見通しなのか、全部。
「……ごめん」
『いいの。帰って来てくれたんですもの。きっかけはなんだって』
「そうじゃなくて」
 一緒に過ごしている人がいて。人じゃないけど。
『ああ。そっち? それは、いいのよ。だって、隆二、一人はさみしいでしょう? 私も貴方も、それはよく知っているじゃない』
 だからいいのよ、となだめるように茜は笑う。
『永遠は長いでしょう? 一人でいるには』
「……そうだけど」
 茜を一人にして、一人で待たせて、自分は他の人といたなんて……。
『本当に気にしないで。私ね、』
 茜は少し躊躇うそぶりを見せた後、
『覚悟していたから』
 隆二を見据えて宣言した。
『いつからだろう? 貴方のこと、好きになってからかな。隆二がいつか、私以外の別の人のこと、好きになること。長い長いときをかけて、覚悟を決めてきたから、大丈夫。だって、それは仕方のないことでしょう? 貴方の世界は長いのだから、一人孤独に生きるよりは誰かと居てくれた方がずっといい。ずっと、安心だわ』
「……ありがとう」
 なんだか泣きそうになる。ああ、こんなにも、思われていたのか。
「でも、一つだけ訂正」
『なあに?』
「俺が好きなのは、愛しているのは、今でも茜だけだよ。これからも、ずっと」
 茜は驚いたように大きく目を見開き、頬を赤くした。
『やだ、しばらく会わない間にそんなこと言うようになったのねっ』
 早口で言われる。ああ、そうか、そういえば、好きってちゃんと言ったこと、なかったかもしれない。
『でも隆二、それじゃあ、今一緒に居る人はなんなの?』
「あれは居候猫」
 躊躇わず答える。
「人じゃない、幽霊だよ。それも、研究所仲間」
 出来るだけ軽い調子で言うと、茜は少し痛ましげに眉をひそめた。
「そういう顔するな」
『平気なの?』
「ああ。もう、死神もいないしな」
『そう。……その人、女の人?』
「人じゃない」
 茜以外の人間と一緒に暮らすなんてあり得ない。
「女だけど」
『……可愛い?』
「まあ、可愛いは可愛いな。それに見てて飽きない」
『……そう』
 答えてから茜が頬を少し膨らませたことに気づき、思わず笑う。ああ、可愛い。本当に可愛い。同じ可愛いでも、種類が違う。愛おしい。
「茜の方が可愛い」
 手をそっと引っぱり、顔を近づけて耳元で囁くと、
『!』
 茜は弾かれたように顔をあげ、
『もうっ、本当にっ、どこでそういうの覚えてきたのっ!』
 はしたないっ、と叫ばれる。それがさらにおかしくて笑う。ああ、このやりとりがたまらなく愛おしい。
『笑わないっ』
「はいはい」
『もうっ』
 茜は一度頬を膨らませ、
『隆二』
 真顔に戻って、隆二を見つめた。
『約束、忘れて』
「忘れてって」
『私、たくさん約束させちゃったでしょう。帰って来て、以外にも』
 頷く。全部ちゃんと覚えている。殺してないし、殺されていない。生きている。生きる屍にならないという点は、今はともかくちょっと前まで微妙に守れてなかったが。
『その約束、一旦忘れて。もう十分守ってくれたから。約束にとらわれないで、今度はその人を、今一緒に居る人を守ってあげて』
「でも」
 茜との約束を忘れるなんてこと、したくない。
『色々あるのでしょう? 研究所絡みなら』
 眉をひそめながら言われた言葉に、
「……ああ。そうだな。わかった」
 小さく頷いた。もし今後、研究所がまたマオを求めることがあったら、この前のように誰も殺さずには済まないかもしれない。
『……でも、一つだけ、我が侭、言っても良い?』
「勿論」
 間を置かず首肯する。茜の我が侭なんて今まで聞いたことがあっただろうか? そしてそれを、自分が断ることがあるだろうか。
『あのね』
 茜は少し恥ずかしそうにもじもじしたあと、耳元でそっと告げた。
『名前、教えないで。あなたの、本当の名前。もう二度と、誰にも』
「……名前?」
『そう。――』
 そうして茜は、彼女にだけ教えた彼の本当の名前を呼ぶ。とても、とても久しぶりにその名前を聞いた。
『あのね、私だけ特別って、思いたいの』
 照れたように言われた言葉に、迷わず頷いた。
「約束する」
 今度こそ。それを守る。絶対に。自分が人間として接した、最後の人間は茜だ。今後も、ずっと。だから名前は、誰にも教えない。
『ありがとう』
 茜も頷く。
『……私、そろそろいくね』
 そして呟かれた言葉に、心臓が跳ねる。もう? もういってしまうのか。そんな思いが胸を過る。けれども、死した人間がいつまでもこの世に留まることは、本来あってはならないことだ。彼女は長い間、ここに留まっていた。約束を果たせた今、はやくいかせてあげないと。
「……わかった」
『ああ、もう、隆二』
 茜が困ったような顔をして、両手で隆二の頬を包む。
『そんな泣きそうな顔をしないで。私、会えて嬉しかったから。本当に本当に、嬉しかったから』
「うん。待っててくれて、ありがとう」
『帰って来てくれてありがとう。ねぇ、隆二。私、貴方が居てくれて本当によかった。一条葵の予備としてではなく、一条茜として楽しいときを過ごせたのは、貴方のおかげよ。本当に感謝している』
「俺だって」
 俺だって感謝している。茜に会わなければ、あの死神が現れた段階で消えることを選択していたかもしれない。茜と過ごしたあの日々は、本当に楽しくてかけがえのないものだった。永遠に。これからも。大事な思い出だ。
「感謝している」
『うん。ありがとう。大好き』
 両手が頬から外され、背中にまわされる。隆二もそっと、その背中を支えた。
『楽しかった。本当に楽しかった。一緒に居られてよかった。大好き』
 彼女の声が少し震えている。腕に力を入れる。
「俺も」
 自分の声も震えていた。ああ、これで。今度こそ。本当に。最後だ。
「……茜」
『なあに?』
「もう一度呼んで」
 それだけで伝わった。茜は隆二の腕の中、顔をあげ、
『――、愛している』
 そっと告げた。
「……うん」
『泣かないで、――』
 そう言った彼女の目だって、潤んでいる。
『本当に、もう、いくね。このままずっと、ここにいたくなってしまう前に』
「うん。……茜」
 片手を離し、代わりに頬に添える。そっと身を屈めると、彼女も目を閉じた。唇が触れ合う。感触はないけれども、脳が覚えている。
 目をあけると、茜が恥ずかしそうに笑った。
『本当にありがとう。大好き』
 もう一度そう言うと、彼女は隆二から手を離す。
「こちらこそ。ありがとう。本当にありがとう。愛してる、ずっと」
 隆二も素直に手を離した。
 茜は一歩、隆二から距離をとると、綺麗に、柔らかく、微笑んだ。今まで見た中で、一番綺麗な顔だ。
『さよなら、――』
「さよなら、茜」
 そうして、一条茜の魂はこの世から姿を消した。


 茜を見送り、こっそりと目元を拭う。
 やっと、約束を果たせた。そのことに安堵する。
「マオ、悪い、待たせた」
 そういって出来る限り微笑んで見せながら振り返る。
「……マオ?」
 そこに居候猫の姿はなかった。