その後は表面上、何事も無く過ごした。ただ少し、前よりも隆二が茜の体調を心配して、口うるさくなったぐらいで。周りの隆二を見る目が一瞬、奇異なものを見る目になったぐらいで。
 だけど、時は止まらない。茜の時は止まらない。隆二ひとりを残したまま、世界の時間は進む。
 耐えられなくなった。
 それは、本当に、ある日突然来た。
 自分がここにきて、どれぐらいの月日が経っただろう? あの小さな子どもだった太郎も、今ではもう缶蹴りで遊んだりしない。
 いつのころからか、茜は月日がわかるものを全て家の中から撤去した。そんなものない、とでも言いたげに。それは彼女の優しさだったのだろう。けれども、不明だということが、余計隆二の焦燥感を煽った。
 今はいつで、ここにきてからどれぐらい経って、茜は今いくつで。あと、どれだけの時間が残されているのだろう?
 永遠なんてないのは知っている。いずれ茜はいなくなる。それまであと、どれだけ残されているのだろう。
 おいていかれる恐怖に耐えられなくなった。このままここにいたら、自分はどうなってしまうのだろう。
 だから、逃げた。逃げたのだ。
 少し行きたいところがある。外の世界を見て来たい。大丈夫、少し旅行するだけだから。
 そんな風に告げた自分の言葉の裏の意味を、茜がわかっていなかったとは思えない。もう二度と、戻ってくるつもりがないことを彼女は察していたのだろう。もしかしたら、聡い彼女のことだ。もっと以前に覚悟を決めていたのかもしれない。
「人は簡単に『もの』になってしまう。だから貴方は、誰も殺さないと、自分も殺されないと約束をして」
 茜はその時、幾つかのことを隆二に約束させた。
「決して生きた屍にならないで。貴方は生きていて。どんなにめちゃくちゃでもかっこわるくても構わないから、生きていて」
 今生の別れのような約束。茜からのお願い。
「それから、」
 茜はそこで、微笑んだ。
「私は此処で待っています。ずっとずっと。だから」
 茜はよそを向いていた隆二の頬を両手で挟むと、無理矢理自分の方を向かせる。体勢を崩し、片手を畳の上についた。
「だから、絶対に帰ってきなさい。いつになっても構わないから」
 告げられた言葉に返す言葉がない。何を言っていいのかわからない。
「……約束ぐらい、しなさいよ」
 かすれたような声で言われて、申し訳ない気持ちになる。勝手に振り回されたのだ、怒ってもいいし、泣いてもいい。そんな風に言った自分が、今彼女を振り回している。感情を制御させてしまっている。 
「……ああ」
 小さく呟くと、茜はそっと隆二の額に唇でふれた。
「約束、だからね」
 そのまま、頭をそっと抱え込まれた。抵抗はしなかった。出来なかった。
「……ああ」
「帰って、きなさいよ。待っているから」
「……ああ」
「本当に、わかっているの?」
「……わかっては、いる」
 約束はできないけれども、わかってはいる。その言葉に、茜は特に何も言わなかった。意味がわからなかったわけ、ないだろうに。
「……ずっとずっと、待っているからね。ねぇ、――」
 そうして、彼女だけには教えた隆二の本当の名前を呼んだ。茜がその名で呼ぶのは、あの時以来だった。最初の時以来だった。
 ああ、そうか。これは本当に最後の挨拶なんだ。
「待っているから……」

 茜の家を出て、そこから一目散に走って逃げた。はやくどこか遠いところに行きたかった。ずっとずっと走って逃げて、かなり離れたところに行き、そこでしばらく一人で暮らした。一人きりの空虚な生活だった。
 一度、心が落ちついた時があった。帰ろうと、思ったことがあった。少し情けない顔をして帰ったら、茜は仕方ないわねと笑って受け入れてくれる、そんな気がした。
 離れてわかった。自分が如何に酷いことをしたのかを。茜の心を傷つけたのかを。自分にはやはり茜が必要だと。彼女を看取ることは、きっと心臓を抉られるような思いがすることだろうけれども、自分の知らないところで彼女がいなくなるよりずっといい。そんなことになったら自分はきっと、悔やんでも悔やみきれないぐらい後悔する。少し離れたことで、そう、思えるようになった。
 だから、帰ろう。
 そうしてまた、あの村に戻った隆二を待っていたのは、
「……隆二兄ちゃん?」
 少し遠くで、呟かれた言葉だった。振り返る。遠くにこちらを伺う精悍な顔つきの男が一人。右手で小さな女の子の手をひいている。その隣には、赤子を連れた女性もいた。
「太郎さん、お知り合い?」
「おとーさん?」
「ん、いや、似てるけど。もう何年も経ってるのに変わってないから別人だよね。それに」
 本来なら聞こえないような会話も、超人より優れた五官を持つ隆二には届いてしまった。
「茜姉ちゃんを見捨てたあの人が、戻ってくるわけない」
 そうして太郎は、小さな声で呟いた。
「一人ぼっちで死んじゃって。可哀想に」
 それを聞いた瞬間、きびすを返して村から逃げた。
 遅かった。遅かったのだ。
 待っています。
 彼女の言葉が、耳元で聞こえた気がする。
「……ごめん、茜、ごめん」
 嘘をついて、帰らなくて、約束を守れなくて、一人にして。身勝手て。卑怯で。
「ごめんなさいっ」