「もう大丈夫」
 だから、茜の主治医である先生がそう告げた時、みっともなくも膝から崩れ落ちた。
「おおい、不死者の手当はしないぞー」
 のんびりと言われる。その口調に、本当にもう大丈夫なのだと思えた。
 眠っている茜は、顔色は戻っていないものの、その表情は穏やかだった。
「ありがとう、ございます」
 頭を下げると、先生は少し嫌そうな顔をした。
「お前にそういう態度とられると気持ち悪くてかなわんな」
 軽口を叩かれても顔をなかなかあげられない。それほどまでに、感謝している。
「……隆二」
 優しく名前を呼ばれて、ゆっくりと顔をあげると、
「そう、情けない顔をするな」
 呆れたように言われた。
「あんなに血相を変えて現れて。お前さんの方が倒れるんじゃないかと思った、今もな」
「だって」
 抗議の声も、弱くなる。
「俺じゃどうにもできないから」
 先生に頼るしかない、と思った。
「それはこっちも一緒さ」
 どこか余所を見ながら先生が呟く。
「根本的な治療はできない。ただの、対処療法だ」
「……うん」
 その言葉が意味することを受け取り、隆二は小さく頷いた。完治は出来ない。またいつ、発作が起きるかわからない。
「最近は落ち着いていたんだがな」
 それはつまり、いつ、彼女が、
「……どれぐらい?」
「わからんなぁ。でも、正直、ここまで保っているのは奇蹟なんじゃないかと、思うことがある」
「……そうなんだ」
 それはつまり、いつ、彼女がいなくなってもおかしくないということ。今すぐにでも、彼女がいなくなってしまうかもしれない。
「そうなんだ」
 震える指先に気づき、反対の手で隠すようにした。
「出来る限りのことはする。隆二」
 先生がこちらを向いて微笑んだ。
「今のは聞かなかったことにして、普通に接してやって欲しい」
 そんな無茶なことを! そう叫ぶ心を押し殺して、小さく頷いた。隠し通す自信はなかったが、だからといって茜になんて言えば良いのかもわからなかった。
 だから、
「……隆二?」
 目を覚ました茜にかけた言葉は、
「ああ、おはよう」
 できるだけいつもどおりを意識した、淡々とした挨拶だった。本当は、大丈夫か、心配した、と縋り付きたい気持ちだったけれども。
「……うん」
 茜は一瞬の間を置いて、頷いた。
「先生のとこ。今日はもう遅いから泊まっていけって」
 いつものようにぶっきらぼうに言う。いつものように。だけど、
「隆二が連れて来てくれたのよね? ありがとう」
 優しく微笑まれる。
「びっくりしたよね。ごめんね」
 彼女があまりにもいつもどおりに笑うから、
「茜」
 耐えられなくなった。やっぱり耐えられなかった。いつもどおりなんて、できなかった。
 茜の横に跪き、その手を握る。握ったその手を祈るように額につける。
「隆二?」
「おいていかないでくれ」
 子どものように、必死にその手に縋りつく。
「頼むから。もうこれ以上、一人にしないでくれ」
 先生との約束を破ったことになってしまうことはわかっていた。茜が困ることもわかっていた。けれども、言わずにはいられなかった。さっきまで感じていた、茜を失うかもしれないという恐怖から脱却なんてできなかった。そいつはまだ、隆二の足を引っ張っている。引きずり込もうとしている。地獄へと。
「茜がいないと、無理だ」
 声が震える。一度望んでしまったから、一度手に入れてしまったから、もう失うことを考えたくなかった。怖かった。今、茜がいなくなって、そしたらその先に待っているのは、地獄だ。
「……うん、心配させて、ごめんね」
 握ったのと反対側の手で、茜がそっと隆二の頭を撫でた。
「ごめんね隆二、ありがとう」
 そっと頭を撫でられる感触。子どもの時のような。
「違う、――」
「え?」
「俺の名前、人間のときの。――っていうんだ」
 もう二度と、口にするつもりのない名前だった。捨てたつもりの名前だった。それでも、
「茜にだけは、覚えていて欲しい」
 その名前で呼ばれる時、自分は人間だったから。
「ん。――」
 久しぶりに聞いた、自分の名前はなんだかとても懐かしくて、泣きそうになった。
「一緒にいてくれ」
「一緒にいるよ」
 ここにいるよ、と囁かれた。この手を絶対に離してはならないと、自分に課した。