いつもどおりの散歩道、件の土手に現れたのが一人目の死神だった。視線の先にその姿を見つけて、隆二は思わず足を止めた。
「どうしたの?」
 数歩先で、茜が不思議そうな顔をして振り返る。
 赤い着物、長い黒い髪を束ねることなく、風になびかせている。見たことがある。逃げ出そうとしたあの時、最後まで阻止しようと尽力を尽くしていた少女だ。ああ、もう、少女ではないのかもしれない。そんなことはどうでもいい。逃げなくちゃ逃げなくちゃ逃げなくちゃ。
 ぐちゃぐちゃになった思考回路から、慌てて今すべきことを引っ張り出す。
「隆二? ねぇ、本当にどうしたの? 真っ青だけど」
 茜が心配そうに眉をひそめて近づいてくる。それに合わせるように、二、三歩後ずさる。
「……隆二?」
 茜が少し傷ついたような顔をした。
「違う、そうじゃなくて」
 思わず言い訳がこぼれ落ちる。茜を避けようとしたわけじゃなくて。言い訳なんてしてどうする。もうここには居られない。逃げなくちゃ。
「だけどごめん」
 世話になったのに。いきなりこんな風に消えようとして。早口で言い切ると、きびすを返す。
「隆二っ」
 茜の慌てたような声が背中にかかり、
「U078」
 遠くから、だけどはっきりと聞こえた声に足が止まった。
「逃げても無駄ですよ」
 冷たい声。足が縛り付けられる。動けない。
「……ゆうぜろななはち?」
 茜が小さく呟く。
 ああ、茜はそれを口にしないでくれ。せめてただの、ただの化け物だと思っていてくれ。
「U078?」
 たしなめるような声色で呼ばれて、ゆっくりと振り返る。
 心配そうな顔をした茜の後ろに、死神がたっていた。
「ごきげんよう。ご無沙汰ですね。随分と楽しそうな暮らしをしていらっしゃるようで」
 死神は淡々と、顔色一つ変えず続ける。嫌味のような言葉だが、恐らくただ事実を評価しただけだろう。この死神が、嫌味なんてそんな人間味のあふれることを言うわけがない。
 死神と隆二の顔を見比べ、茜は少し隆二に近づいた。そしてそっと隆二の右手をとる。慈しむように手を握られる。思わず、それに縋り付くように力をいれた。
 死神はその光景を見ても顔色を変えることはなく、
「勘違いしないでください。貴方を連れ戻しにきたわけじゃありません」
「え?」
 少し、高い声が出る。もしかして、もう許してくれるのか。もう諦めてくれるのか。もう飼われることはないのか。
 一瞬浮かんだそんな希望は、あっさりと斬り捨てられた。
「私たちはもう貴方達を兵器としては必要とはしていません。そこで選んでいただきたい。ここで、証拠隠滅のためにおとなしく消え去るか、または必要に応じて我々の力になるかを」
 死神が告げる。
「……必要と、していない」
 小さく呟くと、死神が頷いた。
 ああそうか、もう兵器としてもお払い箱なのか。それでも、化け物としては利用価値があるから、利用出来るならば残しておこう?
「……消滅か、隷属か」
 かすれた声が漏れる。
 また、隷属? 逃げて来たのに? また?
「……もう、疲れた」
 思わず口からこぼれ落ちた言葉に、自分自身で驚いた。ああ、そうか。もう疲れたのか、自分は。化け物として今後も生きていくことに。それならば、もう、ここで終わらせてもらった方が楽なのかもしれない。だって自分は化け物だから。このまま一生、永遠という一生を人間との間に線をひかれて、それを踏み越えることを許されずに、失った人間としての日々を指をくわえて見ていくぐらいならば、
「俺は、もう……」
「隆二っ」
 強い声で名前を呼ばれ、右手を引かれた。
 はっと我にかえる。
 茜がこちらを睨むようにして見ていた。
「ゆうぜろななはち? そんなもの知らない。貴方は、神山隆二よ」
 力強く茜が断言する。聡い彼女は、全てはわからなくても隆二が選ぼうとしている道を察し、咎めた。
「……俺は、化け物だ」
「だからなに? もうそんなこと、今更気にしない。あなたが優しい人だってこと、知っている」
 意思の強い瞳。だけど、隆二を掴んだ手は小刻みに震えている。
 それを大切だなんて、思わなければよかったのに。
 でも、思ってしまった。認識してしまった。この震える手を持つ少女を、神山隆二は大切だと思っている。ここでの生活を続けたいと思っている。彼女を悲しませたくないと、そう思っている。
「……わかった」
 吐息と共に言葉を吐き出すと、死神に向き直る。
「あんたらの言うことを聞く。だから、ここに居させてくれ」
 そう答えた。
「そうですか」
 死神は頷いた。
「では、なにかあったらまた来ます。逃げても無駄ですから」
 淡々とそれだけいい、すぐにその姿を消した。最後まで、表情をかえることなく。
「……いっ」
 死神の姿が消えて、茜が小さく悲鳴のように言葉を漏らすと、へなへなとその場に座り込んだ。慌ててそれを支えた。
「いまのは?」
「……死神だよ」
 答えながらも隆二の足からも力が抜ける。
 仕方なくそのまま、二人して土手の草むらに腰を下ろした。
「死神?」
「俺にとっては」
「……そう」
 怖い人ね、と小さく茜は呟いた。
 右手は茜の手を握ったままだった。離すのが躊躇われ、そのままにしておく。茜から手をふり払う気配もなかった。
「……俺さ」
「うん」
 川の流れを見ながら、口を開いた。
「元々は人間だったんだ」
「……え?」
「元々化け物として生まれたわけじゃなくて。もう、どれぐらい前かな……。覚えてないけど、人間として生まれて、家に金なくて、俺体弱かったし、売られた。それとも、俺、自分で行くって言ったんだっけな。親と俺、どっちが先に言い出したんだっけ。もう覚えてないや」
 とりとめも無くこぼれ落ちる言葉を、茜は黙って聞いてくれた。
「売られたのが、さっきの死神がいる変な研究施設で。戦のための兵器を作るとか言って、色々な子ども集めてて。すぐにはなにもされなかったけど。だけど、そのうち実験はじめて。なにがどうなったのかわからないけど、俺は成功したんだ。成功したから、化け物になった。人より優れた身体能力と、死なない体を持った化け物になった」
 隣が怖くて顔が動かせない。茜は今、どんな顔をしているのだろう。だけど、一度溢れた言葉はとめられない。
「U078は、俺の実験体としての番号で。ずっと、そうやって呼ばれてた。あそこでは。殆どの実験が失敗して、成功したのは俺を入れて四人。四人で相談して、逃げた。研究所から。怖かったから。このまま兵器として扱われることが」
「……兵器は生き物ではないから?」
 隣から小さい声。
「え?」
 思わず隣を見ると、茜が少し心配そうに眉をひそめて、首を傾げてこちらを見ていた。
「化け物は生き物だけど、兵器は生き物ではないから? 兵器だったことが嫌で、ずっと隠していた?」
「……ああ、そうかもしれない」
 確かに、化け物だと暴露することは簡単にできたが、兵器だったことはできれば言いたくなかった。
「尊厳もなにもなく、ただ物として扱われるのが怖かったんだな。自分が消えてしまうようで」
「さっきの人、隆二を道具としてしか見てなかった」
 ぐっと手に力がこめられる。
「そんな人には、隆二は渡さない」
 思いがけない言葉に、間抜けにも口をあけて茜を見つめる。今、なんと言った?
「逃げて、ここまで来たの?」
 そんな隆二に気づくことなく、茜が問いかけてくる。
「あ、ああ」
「そう。……ならずっとここにいればいい」
 まっすぐに茜が目を見てくる。
「隆二がなんだって関係ない。人間でも化け物でも兵器でも、隆二は隆二だから」
 意思の強い瞳に見つめられて、
「……うん、ありがとう」
 素直に小さく隆二は頷いた。
 人間として生活していくことが出来なくても、化け物としてでもここで生活できるのかもしれない。
「帰りましょう」
 茜が微笑んで立ち上がる。握ったままの手を軽く引かれる。その手に掴まるようにして隆二も立ち上がった。
 特に会話もないまま、帰路につく。けれども繋いだ手はそのままだった。
 会話がないその空気も、悪いものではないと、寧ろ心地よいと隆二は思った。思っていた。
 そして、
「茜様」
 名前を呼ばれたのは、家が見えたころだった。茜が慌てたように隆二の手を離す。その手をほんの少し、名残惜しいと思った。
「どこにお出かけですか?」
 黒い服を着た、老人が立っていた。どこかで見たことがある姿に隆二は眉をひそめ、
「あ、車の……」
 思い当たった顔に小さく呟く。
 茜に出会った時。あの時轢かれた車の運転手がこの老人だった。そういえば、茜の身内だと言っていたか。
「そちらは?」
 老人が隆二を見て尋ねてくる。
「一条には、関係ありません」
 震える声で茜が答える。
「茜様。仮にも一条の人間がこんなどこの馬の骨ともわからぬ人間と一緒にいるとはどういうことですか」
 ゴミを見るような視線を向けられ、隆二は小さく笑う。
「何がおかしいのです?」
「何もおかしくない」
 咎めるような老人の言葉に、笑ったまま答えた。
「俺がどこの馬の骨ともわからないのも、ゴミみたいなのも事実だから。それをわざわざ指摘することに、おかしなところは何もない」
 ただ露骨な敵意を向けられることが、おかしかっただけだ。先ほどの死神に比べれば、何も怖くないし不愉快になることもない。寧ろ、かわいいとさえ、思う。
「隆二っ」
 だけれども茜は違うようだった。蒼白の顔で悲鳴のように隆二の名前を呼ぶ。
「……すまん」
 必死の顔に、思わず謝る。遊んで悪かった。
「一条に、迷惑がかかることをしたつもりは、ありません。第一、葵がいるならば、私は要らないはずです」
 真っ白な手を握りしめて茜が答える。老人は軽く眉をあげ、
「立場はわかっていると、そうおっしゃるのですね?」
「……はい」
 小さな声で茜が頷く。
「結構」
 老人は満足そうに頷いた。
「くれぐれも、一条家の名を汚さぬように」
 駄目押しのようにそう告げると、老人は立ち去った。
「……なんだ、あれ」
 隆二が小さく呟く。
 茜が崩れ落ちるように座り込んだ。
「茜っ」
 慌てて近寄ると、
「隆二っ」
 すがりつくように両手を掴まれる。
「あれが、あれが私の死神なの。……私が黙っていたこと、聞いてくれる?」
 先ほどよりも白い顔で、震える声で、濡れた瞳で問われた言葉に、
「……ああ」
 ゆっくり頷いた。お互いがお互いの死神にここで出くわすとは、思わなかった。