「おつかれさまでーす、お先でーす」
 工藤菊は、バイトを終えるとコンビニを出た。今日は大学は休みなので、このまま帰って家で漫画でも読もう。大好きなオカルト漫画の続編、今日にでも宅配便で届いているはずだ。
 うきうきしながら、足取り軽くコンビニの横を曲がる。裏道を通り抜ける。
 今日の夕飯はなんだろう。実家暮らしなので母親が作ってくれているはずだ。昨日は魚だったから、今日は肉がいいなー、そんなことを考える。
 ふいに、どんっと背中に衝撃を感じた。
「えっ?」
 何が起きたのか。
 振り返ろうとしたところを、今度は首筋に衝撃。
 視界が暗くなる。
 意識を手放す直前、常連の青年の姿を、見たような気がした。

「……やべ、顔見られたかも」
 倒れかけた菊を片手で支えながら、隆二はぼやいた。
『えー、大丈夫? ドジねー』
 非難するようなマオの口調に、誰のためにやってんだ、と思う。まあ、ドジなことは否定しないけれども。
 首筋に手刀を叩き込み、気絶させた菊を、そっとアスファルトの上に寝かせる。
『でもすごいねー、あっさり気絶させて。なんかやってたの? 剣道とか』
 感心したように言いながら、両手の拳を合わせ、振り回すマオ。
 剣道はおそらく関係ないだろうし、その素振りはどちらかというとバッドを振り回しているようだ。
「そんなとこ。いいから、はやく」
 促す。
 マオは、はーいと返事して、菊の横に座り込んだ。
『いただきます』
 両手を合わせて呟く。
 これまたご丁寧に。
 そう思ったところで、そう言えば「いただきます」とでも言えばいいんじゃないか、と自分が言ったことを思い出した。どれだけ素直なんだ。
 どうやって食事をとるのだろうと思いながら見ていると、マオはかがみ込み、倒れた菊の唇に自分の唇を重ねた。
 隆二はしばらくあっけにとられてそれを見ていたが、慌てて後ろを向く。
 少女二人のキスシーンなんて、見るもんじゃない。
 食事って、精気を喰らうって、文字通り喰らうんだな。口から。
 屍体で発見された女性達は、普通に活動しているところを、この謎の幽霊にキスされていたわけか。その光景を想像し、なんとも言えない気分になる。

『りゅーじ』
 しばらくして、若干舌足らずな声で呼ばれ、振り返る。
『ごちそうさまでした』
 立ち上がったマオが、両手を合わせて少し頭を下げた。
「あー、うん」
『……生きてるよね?』
 足元の菊を見る。
 近づいて確認する。
「大丈夫」
『ん』
 マオは満足そうに頷いた。
「いいのか?」
『うん』
 マオは頷き、それから何故か、しゃがみこんだ隆二の背中におぶさろうとする。
「やめろ」
 それを、身をかわして避けた。
『酷い』
「酷くない」
『馴れ馴れしいって最初言ってたけど、まだ駄目なの? もう十分仲いいじゃない! あたしたち、共犯者じゃないっ! 同じ穴の狢じゃない!』
「あー、どっからつっこめばいいかわからないけど、だからって馴れ馴れしいことには変わりないだろ」
 ため息をつきながら、隆二は立ち上がる。
『でも、少しぐらい、……触らせてくれたって、いいじゃない』
 少し頬を膨らませて、マオが言う。
「触れないだろ、幽霊さん」
 呆れて言うと、ますます頬を膨らませた。
『……意地悪』
「意地悪くねーよ、事実だよ」
 足元の菊を見る。
 起こすかどうしようか少し悩み、起こしたってどこにもプラスになる要素はないな、と判断する。
 先ほど顔を見られていたら不審者決定だし、例え顔を見られていなくても、いきなり自分のバイト先の常連客に起こされたら不審だろう。
 自分が捕まったら元も子もない。
「ほら、帰るぞ」
 言って、菊に背を向けて歩き出す。
『あ、待って』
 慌ててマオが隣に並ぶ。
「はー、顔見られたかも知れないし、もうあのコンビニ行けねーな」
『もー、間抜けなんだからー』
 だめでしょ、と窘めるようにマオが言う。
「誰のためだと思ってるんだよ、誰の」
 些か呆れて言葉を返す。
『んー、あたしの? えへへ、ありがとう』
 隆二の正面に回り込み、屈託なく笑う。
「どーいたしまして」
 マオは照れたように笑い、くるくると、隆二の周りを回る。
「……うぜ」
『んー?』
「隣。視界塞がれて邪魔だから」
 言うと、何故かとっても嬉しそうに笑い、隆二の隣に移る。そのまま、宙に浮くのをやめ、歩くように移動する。
 そして右手を伸ばし、隆二の左手を掴もうとして、
「だからやめろって」
『むー』
 空振りに終わった手を見て、マオがふくれる。
『ケチ』
「ケチじゃない」
 路地裏を出る。
『酷い、ケチ! 意地悪っ!』
 マオが隣で騒ぐ。
 が、人通りの多いところに出た以上、隆二はもう反応しない。
『うわっ、また無視する。さーみーしーいー。ねー、寂しいと兎は死んじゃうんだよぉー』
 お前は兎じゃないだろう。そもそも、もう死んでいるだろ。
『さみしいさみしいさみしいさみしいしんじゃうー』
 ぐるぐると、また隆二の周りを回る。鬱陶しい。
『はう、胸の辺りが苦しい。これはきっと、寂しいからだわ。死因は孤独死ね!』
 孤独死って、そういうことじゃないような。
『ねーねーねー、りゅーじぃー、かなしいよぉー、むししないでよぉー、りゅーじぃーねーねーってばぁー』
「……はぁ」
 小さくため息。
「そのうち、頭ぐらいは撫でてやるよ、そのうち」
 ぐるぐる回るマオの耳が、顔に近づいた時を見計らい、小さい声で呟く。
『えっ!』
 マオが動きを止める。
 それにあわせて、立ち止まりそうになるのを慌てて耐える。少しマオを避けて、先に進む。
『え? え? 頭撫でてくれるの? そのうち? そのうちっていつ? ねえねえねえ、明日? 明後日? 明々後日? 来週? 来月? 来年? 地球が何回まわったとき? ねー、いつ?』
 慌てて追いつき、隣に並んだマオは、うるさくて鬱陶しいことに代わりはなかった。
 そのうちはそのうちだって。
 言葉は返さず、家に向かって歩く。
 それでも、何かに満足したのか、
『まあ、今はそういうことでもいいけどねー』
 それだけ言って、マオは大人しくなった。
 なんでこっちが譲歩された形になっているのか。
『しっかし、隆二は、優しいのか冷たいのか、わかんないわねー』
 楽しそうにくすくす笑いながらマオが言う。
 答えずに、小さく肩だけ竦めた。
『ねー、兎は寂しいと死んじゃうっていうじゃない? 人間はどう思う?』
 隆二の隣をふよふよと浮かびながら、唐突にマオがそんなことを言う。
 返事がないのを気にすることなく、マオは続ける。
『あたしね、思ったの。人間は、寂しくても死なないの。きっとね、つまらないと死んじゃうの』
 隆二は横目で、マオを見た。
『人間はね、寂しいなんていう高等な感情は持ち合わせいないの。人間のいう寂しいはつまらないってことなのよ』
 一体どこで仕入れてきた知識なのか、急にそんなことを言い出す。
 いずれにしても、隆二にしては、理解しきれていなかった。
『誰かがいなくて寂しいとしても、何かよりどころ、すなわち「楽しいこと」があれば平気なのよ。本とか音楽を好むのはそれが理由』
 そして、マオはぽつりと呟いた。
『だから、あたしは貴方がいなくなると死んじゃうのよ?』
 聞き流すつもりでいたのに、頭がそれを理解した瞬間、心臓が止まるかと思った。
「なにを言ってるんだ、おまえは」
 外であるにもかかわらず、思わず横を向いて尋ねてしまった。
 すれ違った女性が変な顔をした。
 いくら不意打ちだったからとはいえ、動揺している自分が情けない。
『だって貴方以外にあたしが見えて、あたしによくしてくれる人、あたしは知らないもの。貴方がいなくなったら、あたしはつまらなくて死んじゃうわ』
 マオはなんでもないことのようにそう言うと、微笑んだ。
『だから、これからも、あたしの傍にいてね?』
 隆二は何かを言おうとして、結局コメントを控えた。

「あの、大丈夫ですか?」
 菊は何度かかけられた声に、ゆっくり目を開けた。
「あ、あれ?」
 背中が痛い。頭も痛い。
 自分の状態を視線を動かし、確認する。
 地面に、倒れている……?
「んー?」
 首を傾げながら、ゆっくり上体を起こす。
「大丈夫ですか?」
 声をかけてくれた少女が、慌てて背中を支えてくれた。
「あ、はい。すみません」
「通りかかったら、人が倒れていたのでびっくりして」
「倒れて……」
 バイトを終わって、家に帰ろうとして、それから……、
「んー、覚えてない」
 頭を振る。
「あ、でも、常連さん……?」
 意識を失う直前に、バイト先の常連の姿を見たような気がした。が、まあ多分気のせいだろう。夢か何かだ。
「常連さん?」
 少女が首を傾げる。
「いいえ、なんでもないです」
「病院、行きますか?」
 心配そうな少女に、
「あ、大丈夫です、多分」
「でも」
「家、近いので。あの五分もかかんなので」
 少女に手を借りて、ゆっくりと立ち上がる。
 二、三歩あるいてみるが、やはり特に異常はないようだった。
「大丈夫なら、いいんですけれども」
 それでも少女は心配そうな顔をしているから、菊は笑ってみせた。
「大丈夫です。家帰って、様子見て病院行きますから、必要なら」
「……そうですか?」
「ええ」
 もしかしたら、なんらかの妖怪の仕業かもしれない、と思っていたがそれは黙っていた。のっぺらぼうにびっくりしたとか、そういう展開を期待している。
 別の意味で病院に連れて行かれそうだから、言わないけど。
「ありがとうございました」
 少女に頭を下げ、家路を急ぐ。
 少し体が疲れているような気はしたが、それ以外には特に問題がないように感じた。
 家に帰ったら、ちょっと寝よう、と心に決める。
 それにしても。
 振り返る。
 さきほどの少女の姿は、もうそこにはなかった。
「なんであの子、あんな赤い服を……」
 全身真っ赤な服を着た少女の姿を思い出し、首を傾げた。
「は! まさか、あの子自身が何かの妖怪!? こうしちゃいられないわ! 帰って、調べなきゃ! 赤い服を着た少女の妖怪を!」
 急に生き生きと、趣味全開で、精気に満ちた発言をすると、足取り軽く家へと向かった。