「ほらほら、おいで」 彼女は、片方の手を伸ばしながらそう言った。 何度かそれを繰り返すうちに、相手は警戒しながらも少し近づいて来た。 そして……、 「痛い!」 彼女は伸ばしていた方の掌をひっこめると、押さえ、小さく悲鳴をあげた。 その隙に彼女をひっかいた猫は逃げていく。 その後ろ姿を見送ったあと、彼は彼女の掌をとる。 「血は出てない、な。とりあえず、あとで消毒しておけよ」 「はい」 彼女は素直に返事をすると、掌を見つめため息をついた。 「これで今週入ってから三日目だ……」 「……今日は火曜日だったと記憶しているが?」 彼は唇を皮肉っぽく歪めてそういうと、彼女はふくれた。 「どうせ、毎日毎日ひっかかれていますよーだ!」 そのまま、べぇっと舌を突き出す。彼はそれを呆れたように見ていたが、少し経つとそれをひっこめ、真剣な顔をして言った。 「……茜、やっぱり野良は警戒心が強いから気をつけた方がいいんじゃないか? 傷口から何か病原菌に感染してしまってから嘆いても遅い」 「隆二、そうは言うけれども、」 不服そうに頬をふくらませる彼女を遮る。 「というか、人に平気で近づいていくような野良は駄目だろう。生き残れない」 そういうと彼女は少しうつむいた。 「そっか、そうだよね……」 そのとても残念そうな様子が見るに耐えなくて、彼は続けた。 「だから、餌を与えたいならばここに置いておけばいいんじゃないか?」 そういってほらっと、物陰からこちらを見ている猫を指さす。 「あ、そっか」 彼女は嬉しそうに笑うと、煮干しの入った袋を取り出し、地面にばらまく。それから、猫の方に手を振った。 「それじゃ、私たちは行くからゆっくり食べて大きくなるのよ」 どこか間の抜けたその言葉に苦笑しながら、彼は歩き出した彼女の後をついていく。 夕暮れ時の土手を二人で歩く。 「そんなに猫が好きならば、飼えばいいだろう」 「う〜ん、でもねぇ」 彼女は彼の言葉に首を傾ける。 「それはそれで色々と問題があるからな。餌代とか躾とか。飼いたいのはやまやまだけど。それに、先生は私が猫と触れ合うのあまりいい顔しないから」 「だろうな。おまえ、ただでさえ体弱いのにその自覚ないから」 「何よ、その言い方」 「あまり無茶をするな、と言っているんだ」 冷たい言い方ではあるが、それが口下手な彼にとって「ものすごく心配だから無茶はしないでくれ」を表す言葉だと気づき、彼女は少しくすぐったそうに、でも嬉しそうに微笑んだ。 「うん、気をつける。ありがとう。……あれ、でも、飼ってもいいの? 前は嫌そうにしていたのに」 「毎日毎日、野良に餌をやりに行くのにつき合わされるよりは幾分ましだ」 「……そう」 彼女は小さくため息をついた。それから、あ〜あと大げさに嘆く。 「なんだ、てっきり隆二もついに猫の可愛さに気づいたのかと思ったのに」 「俺は未だに思うぞ。あんな懐かない生き物のどこがいいのか、と」 彼女はわかってないなぁと人差し指を顔の前で数回振り、続ける。 「確かに猫って、こちらが気を引こうと一生懸命になっても向こうは冷めた目で見てくるだけよね。だけど、時々、本当に向こうの都合でしかないのだけど、気が向くと甘えてくるのよ。不思議なものでね。ちっとも懐かないから嫌いだ、って思っていた猫も一度甘えられると手放せなくなるのよねぇ」 まるで恋する乙女のような目をして猫について語る彼女を見ながら、彼は小さく肩をすくめた。彼女はそれを見咎め、あ〜と叫ぶ。 「何よ、今の態度は!」 「思ったことをありのままに表現しただけだ」 「もう、隆二はいつもそうなんだからっ! そういうときは嘘でも、『そうだね』とか言ってくれればいいじゃない!」 「そうだね」 「白々しい!」 「嘘でもいいと言っていただろう?」 むきになる彼女が愛らしく、彼は楽しそうに笑う。めったに笑わない彼の笑みを見て、彼女も結局それ以上言及するのはやめた。 代わりに違うことを呟く。 「……そういえば、隆二って猫に似ているわね」 そういうと、彼は不愉快そうに片方の眉を上げた。 「俺が、猫に?」 「そうよ、似ているわよ。だって、最初はあんなにつけどんどんで、人がせっかく助けてあげたのに、全力で嫌がるし、すぐにふらりとどこかに行っちゃうところし、気まぐれだし、でも優しいし、そっくりじゃない」 「似てない」 何もそこまで否定することはないだろうと、我ながら思うのだが何故かむきになって言い返すと 「似ている!」 彼女の方もむきになって言い返してきた。 「似てない」 「似ている!」 「似てない」 「似ているっ!」 「似てないったら似てない」 「似ているっていったら、似ているの!」 途中で子どもの喧嘩みたいな状態になったことにお互い気づき、黙る。自分達はいま、一体何をしていたのだろうか。 「……なんでそんなに否定するのよ」 「そっちこそ、なんでそんなにむきになるんだよ。似ていると茜が思うなら俺が何と言おうと似ていると思いつづければいいじゃないか。思うだけなら自由だぞ」 「私ね、猫が好きなの」 脈絡の無い言葉に眉をひそめる。 「それは十分すぎるほどよく知っているが、何で今それを?」 「私、隆二のことも好きよ」 いきなりのまっすぐな言葉に、歩いていた足を思わず止める。 彼女はまっすぐに彼を見つめて言った。 「勿論、それは隆二が猫に似ているから好き、なんている理由じゃない。隆二に対する想いと猫に対する思いが同じ訳でもない。でもね、私は隆二も猫も好きだから、私の好きな隆二が私の好きな猫のことを好いてくれたら嬉しい。そうすれば、隆二も猫ももっと好きになれると思うの。だから……、」 段々、彼女は自分が何を言いたかったのかわからなくなり、言葉が尻すぼみになる。 少しの沈黙。 「……わかった」 彼は口元に微苦笑を浮かべながら、ぽんぽんと彼女の頭を撫でて、でも恥ずかしいので視線は合わせないで言う。 「まあ、善処するよ。猫を好きになれるように」 そういうと彼女はくすぐったそうに笑った。 そして、彼女は最後に照れ隠しの意味もこめて言った。 「隆二も、猫を飼ってみればいいのよ。そうすれば、絶対そのかわいさに気づくから」 にゃ〜 彼女が言い終わったと同時に、鳴き声がした。 彼女は意中の人に会いに行く乙女のように顔を輝かせ、視線をさまよわせる。 既に、大好きなはずの彼のことなど視界に入っていないようだった。 それを見ながら彼はため息をついた。彼女が仕組んだのではないかと思わせるぐらい、絶妙のタイミングだったと思って。 それから、もしかしたら自分が猫が好きになれないのは、柄にもなくヤキモチを妬いているからかもしれないと思った。猫にヤキモチを妬いているなんて、みっともなくて彼女にはいえないが。 でも、もしヤキモチを妬いていると言ったら彼女は少しは喜んでくれるのだろうか。それならば、いつか機会があるときになら言ってみてもいいもしれない。 彼がそんなことをつらつらと考えている間にも、彼女はダンボールを見つけだす。慌ててそちらにかけていき、中を確認すると、腕を組んで傍観者に徹していた彼を手招きする。 「ちょっと、隆二来て」 その声にせかされて、いささか早歩きでそこまでいった彼に、彼女はダンボールを抱えさせる。中をのぞいてみたら、予想通り子猫が震えていた。 黒い子猫だった。黒猫は不吉だといわれるが、薄汚れているがそれでもわかるような、綺麗な毛並みをしていた。黒というよりも、漆黒。 緑の瞳でじっとこちらを見てくる。 「……茜?」 「けがしているみたい、捨て猫かしら? かわいそうに、まだこんなに小さいのに」 不可解そうに彼女の名を呼ぶ彼を、彼女はまったく相手にしない。 「茜?」 もう一度、先ほどよりも強く名を呼ぶ。 「ねぇ、隆二」 彼女は再び彼を遮り、彼の前に回り込み言った。 「助けてあげなきゃね」 彼は数秒、何を言おうか悩んだが、結局何も言わずに歩き出した。 彼女が一度言い出すときかない性格なのはよく知っているし、大体さっき自分で飼えばいいじゃないかと言ったばかりだ。 それ以前に、こんな嬉しそうな彼女に駄目といえるわけが無い。 もし、神様とやらがいるのならばずいぶんと卑怯だと思う。 彼女は彼の隣を歩きながら、幾分嬉しそうに、そして少し哀しそうに猫の鼻先をつっつく。それから、顔をあげて言った。 「これで、隆二も猫のかわいさがわかるわね」 彼は何も言わず、呆れたようなため息で返した。 にゃ〜 嬉しそうに鳴く「恋敵」が恨めしかった。 |