間幕劇 彼女が拾った猫の名は


「くそったれ」
 彼が呟いた言葉は茜色の空へと吸い込まれた。土手に寝転がった状態で、見るそれはとても眩しい。
「くそ、あのガキ。せっかく助けてやったのに、人の顔を見た途端逃げやがって」
 まぁ確かに、自分をかばって車に轢かれた男が、額から血を流しながら、それでも平気そうな顔をして、「大丈夫か?」なんて聞いてきたら、怖いけれども。
 それでも礼の一つぐらい言っても罰はあたらないんじゃないだろうか? あんな悲鳴をあげて逃げなくても。
「俺は化け物か、っていうんだ。いや、化け物だけど」
 自分で言った言葉に自分で傷ついて、ため息をつく。
 怖いのでちゃんとは確認していないが、額は縫う必要がありそうなぐらい切れている気がする。肋骨も数本折れた気がするし、足の骨も心配だ。
 痛覚はとっくの昔に切ったから痛むということはないし、ニ、三日すれば歩けるぐらいには傷も回復するだろう。
 しかし、そのニ、三日ずっとこの川原で寝転んでいるわけにはいかない。下手すると警察なり医者なりを呼ばれかねない。
 だからと言って、根無し草の自分に行く当てなどあるわけもなく……
「やってらんねぇ」
 ため息をついた。
 まだ秋になったばかりだというのに、風がひどく冷たい。
 もう一つ、ため息を。
 そもそも、こんな車の「く」の字も見当たらないような小さな村の狭い道を、猛スピードで走り抜ける自動車がいけない。しかも、轢き逃げしやがって。これだから金持ちは嫌いなんだ。もし、轢かれたのが俺じゃなかったらどうするつもりなんだ。
 ぶつぶつと口の中で呟きながら、とりあえず今はもう、諦めて寝てしまおうかと目を閉じかけて、

「大丈夫ですか?」

 頭上でかけられた声に再び目を開ける。
 そこには心配そうな顔をした少女が一人。
「あの、大丈夫ですか?」
「……あんたは、これが大丈夫そうに見えるわけ?」
 腕を持ち上げて額から流れる血を拭いながら逆に聞くと、彼女は途端に大きく顔をゆがめた。まるで彼女の方がけがをしたみたいな顔だった。
「そ、そうですよね。……でもよかった、しゃべれるならば見た目よりもひどくないみたいですね」
 多分見た目よりもひどいと思う。俺じゃなかったら多分死んでいる。心の中で思いながら、彼は一つ息を吐く。
 結局、見つかってしまった。
 これからの自分の運命を思うと、ため息しか出ない。
 化け物として見せ物小屋に売られるか、警察に連れていかけるか、それとも、また研究所に戻されるのか。

 彼女は持っていた日傘を傍らに置くと、彼の傍にしゃがみこんだ。そのまま彼に異を唱える隙を与えず、自分のハンカチで彼の額を抑える。
 ハンカチが血を吸い込んで赤く染まっていく。
「うわっ、あんた何やってるんだ!?」
 いきなりのことで驚いた彼に、彼女は
「え、一応止血を……」
 逆に何を聞いているのだろうこの人は? という口調で言い返した。
「別に、そんなのいいって……」
 彼女の白いハンカチと同じぐらい白いその手が、自分の血で汚れているのが何故だか許せなかった。
 振り払おうと動かした手を、彼女は片手でつかむとゆっくりと下に下ろさせる。
「おとなしくしていてください。大丈夫、悪いようにはしませんから。それより、動くと傷口が開いてしまいます」
「……あー」
 薄倖そうな彼女の意外と力強い口ぶりに驚いて、そしてそれが正論であることは認めなければいけない事実で、結局何も言えずに再び空を見る。

「……この近所に」
 彼女がぽつりと言った言葉に、顔をそちらに向ける。
「私の主治医の先生がいらっしゃいます。今からそこに行くつもりだったので、一緒に行きましょう。……あ、でも、そのけがじゃ動かないほうがいいですし、動けませんよね。先生を呼んできますので、待っていてください。いいですか、絶対に動かないでくださいね」
 そういって彼女は立ち上がる。
 額においたハンカチはそのままに。
「おい、あんた」
「大丈夫、私も先生も口は堅いですから」
「……そこじゃない」
 それにしても鋭い女だと思う。何も言わないうちからこちらがわけありだと気づくなんて。正解には、決してたどり着かないだろうが。
 化け物だ、なんて。
「名前」
「え?」
「あんた、名前は」
 その言葉を口にしてから、俺は何を言っているのだろうかと思った。そんな「人間」の名前を聞いてどうする。
 彼女は、驚いたような顔をしてから、すぐに微笑んだ。
「茜。一条茜です」
 そういって、先ほどから彼が眺めている空の名前を持った彼女は、微笑んだ。

 なんだか、眩しい笑い方だった。