第六幕 居座り続ける居候猫

 さよなら、と自分は言った。
 そうやっていった自分を、彼はひきとめてくれた。彼はそのとき、怒っていた。怒ってもらったのも初めてだなぁ、と思う。怒ってまで自分を引き留めてくれただなんて、考えてみればとても嬉しいことじゃないか。
 そう、だからあたしは彼のところに帰らなくちゃ。
 そうして、恩返しとお詫びをしなくちゃならないんだもの。恩返しとお詫びが出来るなんて、なんて素敵なことなんだろう。
 彼はそうやって、あたしに居場所を提供してくれる。
 ……でも、どうして……、どうして、急に体が動かなくなってしまったんだろう。この先で隆二が待っていてくれているのに、
 はやく帰らなくちゃ……。
 だから、ねぇ、隆二。
 行かないで。
 待っていて。
 お願いだから、あたしを置いていかないで!

 *

 うっすらと目を開けたとき、最初にうつったのは壁にもたれてとてもつまらなさそうな顔で本を読む隆二だった。
『……隆二?』
 夢かも知れないと思って声をかける。だって、どうして彼が自分の目の前にいるのだろうか?
 隆二は目を開けたマオに気づくと、つまらなさそうな顔はそのままで言った。
「おはよう、マオ。いや、もうおはようじゃないか?」
 時計に視線を移した隆二はどうでもよさそうな声でそういう。視線をそれに移したら、午後1時をさしていた。
「大丈夫か? なんかお嬢ちゃんに変な銃で撃たれていたが」
 隆二はまたつまらなさそうな顔のまま、マオに尋ねる。その顔がわずかに心配そうにゆがめられているなんていうのは、自分の都合のいい思いこみだろうか?
 少し混乱している記憶を整理する。そうだ、あのとき自分は撃たれて……、そして、どうして今、隆二の家にいるんだろう? その間に一体何があったのだろう?
『……隆二、あれから何があったの?』
「嬢ちゃんとの死闘の末、嬢ちゃんを気絶させることに見事成功し、気絶した嬢ちゃんを近くの交番の前に置いて、逃げて帰ってきた。あんな時間に、あんな変な格好の少女がいて、警官もさぞかし驚いたことだろう。職務とはいえ、かわいそうに。同情するよ。嬢ちゃんだが、きっと親に連絡がいって、そしてこってり油を絞られるんだろうなぁ」
 始終一貫してつまらなさそうにそこまで言うと、隆二は再び視線を本に移す。
 ゆっくりと時間をかけてその言葉を理解し、呟いた。
『……それって、ちょっと酷いんじゃ……、交番なんて』
「変なところに置いてこなかっただけ、ありがたいと思え。あんな遅くまで出歩いていた嬢ちゃんが悪い」
 本を見たまま隆二は答える。
『……そういうものかしら?』
 マオはぼんやりとつぶやき、それから思うところがあって隆二をじっと見つめる。
「……どうした?」
 見つめられていることに気づいたのか、隆二は顔をあげ、本を閉じた。
『それじゃぁ……、あたしは』
 言ってしまうとそれはまるで消えてしまうかのように、マオはゆっくりと慎重に、言う。
『あたしは、まだここに居ていいの?』
「ん?ああ」
 その台詞に多少面食らったように、頷く。
「しかしまぁ、順番が逆じゃないか。先に嬢ちゃんの心配をするなんて……、」
 隆二はそこまで言って、言葉を切った。
 マオの顔が何故か泣きそうなぐらい歪んでいたから。
 どうしたのだろうか? また自分は何か、まずいことを言ってしまったのだろうか? また何か、彼女を泣かせるようなことを言ってしまったのだろうか?
 そう思った次の瞬間には、隆二はマオに抱きつかれていた。

『ありがとう。』

 ほとんどすすり泣くかのような声でマオは言う。
『ありがとう。守ってくれて、助けてくれて、待っていてくれて』
 小さな声で、何度も何度もマオは呟く。
「……別に、互いの利害が一致しただけだろ?」
 そういうものの、自分はなんだか酷く優しそうな声をしていると思った。無意識のうちに、マオの頭を撫でていた。
『だけど、ありがとう。……あの人、また来るかも知れないけれども、そのときはあたしだって何かするから。もう、迷ったりしないから。もう二度と、消えることを選択したりしないから。存在を維持していくためならば、どんなことでもする覚悟だから』
 隆二の肩に顔をおしつけるようにしているからマオがどんな顔をしているのかわからない。少し顔を動かせば分かることではあるが、何故か隆二はそうする気が起きなかった。
『だから、ずっと、ずっとここに置いていて。あたしが、何か出来ることがみつかるまで。……できれば、見つかってからも。お願い……』
「ああ。むしろ、それは俺のほうからもお願いしたいな。きっと、人生が愉快そうだ」
 少し笑いながらそういうと、マオも顔をあげて小さく笑った。
 それから、ぞんざいに包帯の巻かれた肩におそるおそる触れた。
『……痛い?』
「いいや。……すぐに治るさ」
 実際には痛覚を元に戻したら激痛が走ったのだが、自然とそう答えていた。
『……今度、ああいうことがあったら、あたしが歌ってあげる』
 ね? と隆二の顔をのぞき込み、首を傾げる。悪気はないのだろうが、マオのその台詞に薄ら寒いものを感じる。
「俺も被害を受けるが……」
 そういうとマオは今更それを思い出したような顔をして、隆二の肩に触れたまま悩みだした。一人でしかめっ面をしているマオがおかしくて、笑いをこらえながら黙ってマオを見守る。
 やがて、結論をだしてマオは再び隆二を見た。
『それじゃぁ、隆二は耳栓をすればいいのよ』
「……物理的な音じゃないからあまり意味がないと思うが……」
『あ、そうか……』
 再び悩み出しそうになったマオの頭を軽く叩く。
「まぁ、いいさ。そのときまでに何かを考えればいい。さすがに、昨日の今日に来るわけはないし……」
 ピーンポーン。
 まるで見計らったかのようなタイミングでチャイムがなる。
 マオがおびえたように隆二を見る。慌てるマオを片手で制す。
「ただの来客かもしれないから」
 自分の家にただの来客が来るとは到底思えないのだが、そういってゆっくりとドアを開けた。
 ドアをあけ、そこに立っている人を見ると口元に笑みを浮かべた。確かに、ただの来客ではなかった。
「久しぶり」
「お久しぶりです」
 来客もそういうと笑った。

up date=2004