膝に顔を埋める。
 いつかはこうなることは分かっていた。何度も何度も心の中で自分に言い聞かせてきたではないか。
『こんな幸せが長く続くはず無いんだから』
 もう一度、自分に言い聞かせる、戒める。
 無理矢理存在を生み出されたのはほんの少し前のこと。それからしばらくして、そこ以外の場所でも存在できるかどうかを実験させされた。あの日、見張りの目を欺き何とか逃げ出せたのはほんの偶然でしかないのだ。もしかしたら、このこと自体が彼らの研究なのかも知れない。
 その考えに行き着き、マオは深く息を吐いた。胸の辺りでわだかまる感情を吐き出す。
 どうして、彼らは自分を造った時に感情も造ったのだろうか? 余計なことをしたと思う、お互いに。
 もし、自分に感情がなければここでこうして嫌な気分を味わうこともなかったし、そもそも逃げ出そうなんて考えもしなかった。
『残酷ね……』
 呟く。
 隣の部屋から流れてくる明るい音楽が神経に障る。自分と彼、つまりは隆二との距離はやっぱりとっても遠いと思う。今日、改めてそれを実感させられた。
 今日聞いた話では彼はずっとずっと前からこうして存在していたという。自分はまだ、たったの七ヶ月しか存在していないというのに。その年月の差というのはとても大きくて、とても乗り越えられそうにない気がした。
『もう少し、存在したらあんな風になれるのかな』
 あんな風にひょうひょうとあの人と対話することが出来るのだろうか?あんな風に……、
『離ればなれになることにこんなに強い不安を抱かなくても平気になるのかしら?』
 それとも、少しは悲しんでくれているのだろうか? ほんの少し、顔を壁の外に出すだけでそれはわかる。けれども、もし悲しんでいてくれなかったのならば、それはとても悲しい。
 結局勇気が出ずに、壁から手を離した。
『あのね、隆二』
 テレビの音がうるさすぎて聞こえないだろう。そう信じて話始める。壁の向こうにいるはずの人に。
『最初にね会ったとき、本当はとても怖かったの。最初は、あたしのことを見える人があそこの連中以外にもいるんだ! って素直に嬉しかった。でも、すぐに怖くなってしまった。気づかれるんじゃないか、あたしがまだ存在して少ししか経たない未熟者だと、本当は存在していてはいけない者だと。
 そして、……これが一番怖かったんだけれども、また名前をもらえないんじゃないかと思って凄く怖かった。あそこの連中はあたしのことを、それとかあれとか認識番号で呼んでいたの。だから、貴方が名前を付けてくれたとき凄く凄く安心して嬉しかった。
 あたしの知識、本当に偏っているのよね。名前を与えることは一種の契約だって、あたしのこの偽者の知識は言うの。それが本当かどうか、確かめるすべはないけれど、きっとそうね。貴方に名前をもらうことで、あたしは「マオ」という存在にはじめてなれた。これって、一種の契約よね』
 そう言って、少し黙る。あと他に、言いたいこと、なんだっけ?
『そうだ。それから、貴方に触れることも驚いたけど、すっごく嬉しかった。あたし、絶対に他の人たちが存在している物体の世界には、関われないものだと思ってた。そして、それは、本来存在してはいけないはずの存在であるあたしへの罰だと思っていた。あの人たちのところから、造物主のところから抜け出してしまったあたしへの罰だと思っていた。だから、貴方に触れることが出来て、隆二を介してだけど、関わることが出来たんだって思ったの。
 すっごく嬉しかった。そうよ、だから、あの時……。あの、禁煙するしないでもめたとき、隆二があたしが触れないようにしたことあったでしょ? あれ、すっごく辛かった。だから、もうやめてね、ああいうの……って、今言っても無駄かしら』
 そういって少し自嘲気味に笑う。先ほど自分に課した戒めを、もう忘れるところだった。
『……無駄ね、きっと。他にも言いたいこといっぱいあったはずなのに、やっぱりわからない。月並みだけれども、あたしの今の知識ではこれしか言えない
 貴方に会えて良かった。
 このままどうなるかわからないけれども、貴方の言うとおりあたしは逃げてみる。それで捕まるか逃げ切れるかはわからない。……だけど、もし逃げ切れたら、そしたら』
 そこで一度隣の部屋の方を見る。
『そしたら、また会いましょう』
 そのまま、きつく目を閉じて、再び膝に顔を埋めた。

「飯」
 隆二が部屋の入り口で至って簡潔にそう呟いたときには、もう夜中になっていた。無慈悲な時計は、あわただしい今日という日が終わることを示していた。
『ああ、うん』
 マオは部屋を出て、隆二を見る。それから、にっと笑った。
『今日はごちそうなんでしょ? 楽しみだわ!』
 隆二はそんなマオの顔を数秒見ていたが、すぐに苦々しい笑みを浮かべた。
「……まったく、迂闊なことは言うもんじゃないな」
『残念でした』
 どことなくぎこちない会話。それを繰り広げながら、二人は家を出ていった。
 ぎぎぃっとわずかに音を立てて、扉が閉まった

up date=2004