目がさめたら、お日様が昇っていた。
 さすがに心配になったのか、マオが顔を覗き込んでいて、隆二が目を開くと少し安心したような顔になったのが、微笑ましいと思った。
 だからといって怒りがおさまる訳が無い。

 隆二はマオを正座させて延々と一時間半説教をした。
「歌うなとあれほど言っただろう!」
 それから一日中「力」を抜きマオが触れないようにした。

 しかしながら、
『隆二ぃ』
 半分泣きそうな顔でマオが手を伸ばしてくる。でも、その手は隆二を通り抜け、その先にあった机さえも通り抜けてしまう。何にも干渉出来ない自分の手を忌々しそうに見つめて、そのまま壁に叩きつけようとして、結局それすらも出来なかったのを、やはり悔しそうに見つめているのを見たときはさすがにやり過ぎたかと思った。
『……隆二……』
 すがりつくようなその言葉を、聞こえない振りをしながら、考える。
 こんなんじゃ、もう、何かあったときに追い払うことが出来なくなるじゃないか。自分のお人よしさ加減にほとほと呆れてしまい、少しだけ口元に苦々しい笑みを浮かべた。

『隆二ぃ、ごめんなさい、もうしませんから、だから……、ねぇ隆二……』
「……だぁもう、わかったから。もうしないって約束するならいいから。だからこれぐらいで泣くなっ!」
 最後にはマオが泣きついて二人の妙な争いは幕を閉じた。
 しかし、もしあと少しマオが泣きついてくるのが遅かったら、自分の方が折れていたのではないかと、そして、そうしたらマオは調子にのっただろうと考えると少し隆二は安堵した。

『でもね、隆二も悪いわよ! 煙草なんて体に悪いだけなのに』
 もしかしたら、揺らいでいた隆二の気持ちを少しは感じていたのかもしれない。それでも譲らないマオは半泣きのまま言った。
「だから、今更、健康に気を使っても意味無いだろう。死ぬわけじゃあるまいし」
『隆二はいいかもしれないけど、煙を吸い込んだほかの人に迷惑がかかるじゃない』
「……あー、まぁそうだなぁ」
 別に赤の他人に迷惑がかかることを、気にしたりはしないが、一応頷いておく。大体、マオにだって関係ない煙害なのに、何をそんなにむきになっているやら。
 ああ、もしかしたら肉体のある存在への憧れなのかもしれない。そう考えてから、酷い自己嫌悪に陥った。今のは、マオへの冒涜だと思ったから。自分は今かわいそうにと思ってしまった。一瞬でも彼女を哀れんでしまったことを後悔する。同情とか哀れみとか、そんなもの自分と彼女との間に必要にない。

 そんな隆二の内心の葛藤には気づかずに、マオは熱心に続ける
『でしょ。やめましょうよ。……それとも、煙草を止めると禁断症状でいらいらするとか? ええっと、ニコチン中毒?』
「いいや? 煙の成分は全部体内に入る前に分解しているから、無害なものに」
『……器用ね』
 マオが呟く。変な能力だったら山ほどあるが、歌うことで怪音波を発するような奴に、そのことをどうこう言われたくは無い。
『だったら、やめましょう!』
「でもなぁ」
 確かにマオが言うことには一理ある。別段、煙草を吸っていたいという強い願望も無い。ただ少し、これ以上居候猫の言うことを聞くのが嫌なだけで。
『何よ。……やっぱり、中毒なんじゃないの?』
「違う」
 少しむきになって答えた。ニコチン中毒者だと思われたくないという、よくわからないプライドが隆二の意思を決めさせた。
「わかった。禁煙しよう」
『……素直ね』
 自分で散々やめろと言っていたくせに、いざやめるというと、マオは酷く驚いた顔をした。
「中毒者ってなんだか人生の敗北者っぽいという印象があるんだよ。だから、それはやっぱり嫌だな」
 そういうと、マオはくすくす笑いながら、
『なんだか、ひどくおじさんじみた考え方の気もするわ。でも、そうかもね』
 そういうと何か思いついたような顔をして、右手の小指を立てて隆二に差し出した。
「……何?」
『ゆびきり。あたし、一度やってみたかったのよ』
「……指きり? この年になってまで指きり?」
 なんだか納得がいかなかったが、にこにこ笑っているマオに嫌だとは言えず、素直に右手を差し出した。嬉々としてマオはその小指に自分の小指を絡ませる。
 ちゃんと触れられたことに気づいて、くすぐったそうに笑う。
「……指切りするのは構わないが、おまえ、歌うなよ。
ちょっと調子つけていう程度にしとけよ。頼むから」
 隆二がそういうと、わかっているわよと頬を膨らませて、どこか頼りない口調で言はじめた。
『ゆびきりげんまん、うそついたら……あれ?』
「針千本飲ます」
『あ、そうそう。はりせんぼんのーます。ゆびきったっ!』
 いい終わり、指を離すと、マオはひどく楽しそうに笑った。

 こうして、神山隆二の禁煙の日々は始まった。

up date=2004