ここから逃げたい。逃げよう。 ここから出たい。出よう。 「逃げたぞ!」 「G016が?」 「なんでちゃんと見張っていなかったんだ!」 「今までの奴らは逃げようとはしなかったら油断していたんだ!」 自分の遙か下の方で交わされる言葉が聞こえなくなるところまで逃げよう。逃げてしまおう。 ここからでて歩くその道がどんな風になっているのかは分からない。もしかしたら、道などどこにもないのかも知れない。 それでもここで黙って自分の存在がいじくり回されて消えてしまうのを待っているよりもずっといい。 だから、逃げるんだ。今はともかく、どこか、どこか遠くへ……! * それは三日間続いた雨が止み、憎らしいぐらいの快晴の日だった。 彼女は、歯医者の前にある花壇に腰掛けていた。染めているのか、日に当たった髪の毛の所々が濃い緑に見える。少し癖のある毛が彼女の動きにあわせて肩の辺りで揺れる。細くて長い足をぶらぶらさせながら、何をするわけでもなく人の流れを見ているようだった。顔立ちは整っていて、美人といって差し支えない。周りの人が彼女に声をかけないのが、そこまでしなくても彼女に好意的な視線を向けないことが不思議なぐらいだった。いや、それでなくても「視認のため」の視線すら向けられないのはおかしい。しかし、それも道理で、彼女の存在は非常にあやふやで、そして彼女の後ろにある壁が、彼女を通して見える。有り大抵に言えば、幽霊だとかお化けだとかそういうもの。 こういうのは気づかない振りをするに限る。散歩と称して街をふらふらしていた彼はそう結論づけると、視線を逸らして逃げようとした。 けれども、 『あ……』 それよりも早く、彼女と目が合ってしまった。合ってしまった目をそらすのほど難しいことはないと彼は常々は思っている。というわけで、彼と女の間には奇妙な空気が流れる。 一人の中年の男性が彼にぶつかり、小さく舌打ちをした。そこで、彼は他の人から見れば今、自分は何もない空中とにらめっこしているようにみえるのだろう、と気づいた。人の流れを遮っていることもあって、さっきから向けられる視線が痛い。他者から奇異な目で見られることは別段構わないが、それでもやはりいい気はしない。出来れば避けたい事態ではある。 そもそも、そうなることで目立ってしまうのは彼の立場からすればあまり得策ではない。そんなことも思いつつ、彼はこの状況をどうしようか思案する。 そして、沈黙を先に破ったのは彼女の方だった。 『……もしかして、あたしが見えるの?』 恐る恐る聞いてきた、その言葉に思わず首を横に振りそうになるのを慌ててとめて、そのまま歩き出す。 『ねぇ、ちょっと』 無視だ、無視。そのうち諦めるだろう。心の中で呟き歩く。 すると、何を思ったか…… 『えい』 「うわっ!?」 何を思ったか、女は後ろから抱きついてきた。 何もないところでつんのめっている彼を、周りの人は白い目でみてくる。慌てて愛想笑いを浮かべる。 俺は、何やってるんだろう? 見えているからって、別に感触があるわけでもないのに。 それはいわば条件反射といったようなもの。昔の知り合いいいがことあるごとに後ろから抱きついてきたから、体が覚えてしまっている。 軽くため息をつき我が身を呪う。そもそも、今日いきなりこんな快晴になるから外に出ようなんて思ってしまったわけで、ああもう、天気のせいだ! そんな子供じみた八つ当たりを心の中で繰り広げる。 『やっぱり見えているじゃない! 無視はいけないのよ!』 そんな彼の胸中など知るよしもなく、彼女は言葉とは裏腹、嬉しそうに彼の周りとふよふよと飛び始めた。関わりたくなかったのに。 彼は諦めてもう一度空を見上げると心の中で悪態をつき、女を手招きして細い路地に入る。 『何よ、こんなところまで連れてきて』 「あほ。白昼堂々おまえと会話していたら、周りからは空気と会話しているように見えるだろうが」 悪いが、空気と会話している怪しい人にはまだなりたくない。まぁ、さっきは空気と見つめ合う怪しい人になったが。 そんなことを胸中で呟くが、努めて顔には出さないようにする。 『ああ、そっかぁ。……ということはやっぱり、他の人には見えないの?』 「だろうな。……って、自分で気づいていないのか?」 彼の質問に、彼女は困ったように返してきた。 『わからないの』 「……何が?」 なんだか嫌な予感がして、彼は低い声で問い返した。 『だから、あたしが何なのか』 彼女はこともなげに答える。 「……。」 『……。』 流れる沈黙。理解が出来ずに、一瞬頭の中が真っ白になった。 おいおい、なんだそりゃ。やっと戻ってきた思考能力が真っ先に吐き出したのはその言葉だった。「呆れ」を上乗せして、疑問をそのまま言葉にする。 「どういうことだ?」 『だから、あたしが何なのかわからないのよ。過去の記憶っていうの? それがないっていうか』 どうやら拾ったのは、迷子の迷子の幽霊のようだ。その事実に行き当たると彼は、盛大に天を仰いでため息をついた。 あいにくと、彼には文句を言う神も悪魔もいなかった。仕方なしに再び心の中で、空に向かって悪態をついた。お天道様の馬鹿野郎。 |
up date=2004 |