第零幕 猫を飼うと決めた理由。

「約束を、して」
 彼女は言った。
 彼は腕を組み、彼女ではない方向を見ながら聞いていた。
 彼女はそんな彼に構わず、続ける。
「人は簡単に『もの』になってしまう。だから貴方は、誰も殺さないと、自分も殺されないと約束をして」
 彼女の言葉が耳に痛く、耳をふさぎたい衝動に、寧ろ耳を千切り取りたい衝動にかられる。その衝動を必死で押さえつけ、それでも彼女を見ることは出来なかった。
「決して生きた屍にならないで。貴方は生きていて。どんなにめちゃくちゃでもかっこわるくても構わないから、生きていて」
 それはなんだか、一生の別れのようにも聞こえた。それは彼女も覚悟をしていると言うことなのだろうか。このまま二度と逢えないことを。
「それから、」
 彼女は微笑んだ。
「私は此処で待っています。ずっとずっと。だから……」
 彼女は彼の頬を両手で挟むと、無理矢理自分の方を向かせる。彼は体勢を崩し、片手を畳の上についた。
「だから、絶対に帰ってきなさい。いつになっても構わないから……」
 彼が何も言えないでいると、彼女は額を彼の額に押しつけた。
「……約束ぐらい、しなさいよ」
 その声がかすれたようなことに気づく。彼女がそんな風に物を言うときは、泣くのを我慢しているときだと言うことを彼はよく知っていた。いつもいつも、彼女にはそんな気持ちばかり抱かせている。また泣かせてしまうのは忍びなくて、こちらも少し押し殺した声で返した。
「……ああ」
 彼が小さく呟くと、彼女はそっと彼の額に唇でふれた。
「約束、だからね」
 そのまま、自分よりも頭一つ分は高い彼の頭を抱える。彼は抵抗しない。軽く目を閉じる。
「……ああ」
「帰って、きなさいよ。待っているから」
「……ああ」
「本当に、わかっているの?」
「……わかっては、いる」
 彼の言葉に含まれた意味合いに彼女が気づかなかったはずがない。彼女は今までだって、彼の言葉の裏を簡単に読んでいたのだから。けれども、彼女は何もそれについては触れなかった。
 ただ、またかすれた声で言った。
「……ずっとずっと、待っているからね。ずっとずっと……。ねぇ、――。」
 そうして、彼女だけには教えた彼の本当の名前を呼んだ。その懐かしい響きに、彼は小さく唇を噛んだ。本当に今生の別れだと思ったから。
「待っているから……」
 そして、彼女は歌った。頭の上から聞こえてくる、心地よい歌声に彼は目を閉じた。
「指切り拳万、嘘吐いたら針千本飲ます」
 いつまで経ってもどこか子どもっぽいところのある彼女は、何か約束事をするときに必ず指切りをした。最初に指切りを求められたときは、どうしたらいいかわからずにどこかくすぐたかったが、いつの間にかそれにもなれて、どこか心地よさを感じるまでになっていた。
 けれども今は、断罪の言葉に聞こえる。
 彼女は人を責めたりしないと知っているのに、そう聞こえる。そして、決して指を絡めることなく彼女は歌い終りを告げた。

「指きった」
 
  *

 結局、彼女には二度と会えなかった。
 否、逢おうとはしなかった。
 自分は嘘吐きだ。針を千本飲まされても文句は言えない。
 いや、もし今彼女が目の前に現れて、針を飲ませようとしたならば、拒みはしない。むしろ、喜んでそれを飲み込もう。
 彼女に会えるならば、針を飲み込むぐらいなんでもない。
 決してかなわぬ夢であることは重々承知ではあるが。

 最後の約束については嘘つきである自分だが、それでも、いくつか守っていることはある。殺されていない。殺していない。
 そして……、

 *

 自分の膝の上でいつの間にか眠ってしまった居候猫を眺めて隆二は口元をゆるませた。
 今までの自分がどうだったのか、はっきりいって隆二にはわからない。自分を客観的に見ることはなかったから。見る必要もなかった。見たいとも思わなかった。
 ただ、エミリや和広の態度からして今の自分は少なくとも「生きた屍」ではないのだろう。

「そうだな、嬢ちゃん、こういうのはどうだ?」
 軽く瞳を閉じて、続ける。
 目の前に、結局最後まで、自分がマオを側に置いておきたがることを納得しなかった少女の顔を思い浮かべて。
「こいつは俺が生きた屍にならないために必要なんだ、そういうのは。約束を守る手助けをしてくれるんだ、そういうのは」
 その誰も聞く者のない言葉は、部屋の中に溶けていった。

END

up date=2004