「曽根崎雅也さん? じゃあ、貴方と結婚したら、曽根崎心中になっちゃいますね」
 そう言って彼女は笑った。多分、それで恋に落ちた。

 俺の勤める眼鏡メーカーで、今話題のデザイナーとコラボしたフレームを作るという企画が持ち上がった。デザイナーとの話し合いの窓口になるのが俺の仕事である。
 目の前で笑う彼女も、デザイナーの一人だ。二十歳を過ぎてからデザインの勉強をはじめたものの、その類い稀なるセンスで幾つかの賞を受賞。そのまま、ブランドを立ち上げた。COCOがブランド名、デザイナー名はココ。由来は、と尋ねたら笑って彼女は言った。
「本名が中曽根心中なんです。心中と書いて、ココナ。だから」
 一瞬止まった。それを見て彼女は笑みを困ったようなものにシフトする。
「困った名前ですよねぇ」
 その笑い方に、ああ彼女は今までこれで苦労して来たんだろうな、と思った。
「いえ、すみません」
 慌てて謝り話し合いに戻る。
 今年で確か、三十歳と言っていたか。俺の一つ年上。垂れ目がちの瞳を優しく細めて彼女は笑う。
「それじゃあ、また連絡しますね」
 今日のところの話し合いを終えて、帰り際、彼女が言った。机の上に置いてあった俺の名刺を改めて見て、
「曽根崎雅也さん」
 呼ばれて振り返った俺に、彼女は慌てて首を横に振る。
「あ、ごめんなさい。曽根崎さんっていう名字を見ると思うんです。貴方と結婚したら、曽根崎心中になっちゃいますね、って」
 そうして彼女は笑った。唇をゆっくり持ち上げる笑い方。理屈とかではなく、その時、きっと恋に落ちた。

 結婚していないことは知っている。
 彼女の左手に指輪がないのは既に確認した。
 けれども安心はできない。指輪をしない主義かもしれないし。付き合っている人がいるのか、訊いてみたいような、怖いような。
 そんな邪念を軽く頭を振って追い払う。今は仕事中だ。彼女のデザインを元に作った試作品を、彼女の目の前に並べる。COCOの洋服はドット柄が多い。小さめなドット柄に、たまにハートが混ざっているのが、特徴だ。
「うーん、この緑、もうちょっと黒を混ぜた色になりませんか?」
 彼女はフレームを眺めながら呟いた。
「そっちの方が似合いそう」
 それはとても小さな声で、俺に聞かせるというよりも、思わず溢れ出た、という方が正しいような言い方だった。
 そっちの方が似合いそう?
 ……誰に?
 資料として机に並べてある、COCOの既存の洋服達を眺める。メンズの方が多い。ブランドコンセプトが「カレシに着せたい洋服」なのだから、当然だ。それに合わせるようなレディースの服もあるが、中心はメンズだ。今回のフレームも、メンズを意識している。
 それは一体、誰に似合いそう、というのだろうか。
「曽根崎さん?」
 じっと考え込んでしまった俺に、訝しげな声がかかる。
「あ、すいません。えっと」
 慌てて意識を仕事に戻す。
 それでも話し合いを終えて帰るとき、頭の中でぐるぐるまわっていた。
 あの眼鏡は、誰に似合う?

 才能があって、気配りができて、いつもにこにこしていて可愛い。だけれども、その笑顔の奥にどこか影がある気がして、気になってしまう。多分それは、名前に関することだとか、あとは眼鏡の似合う誰かさんとか。
「いいですね」
 完成品のフレームを見ながら、
「眼鏡とか初めてだから不安だったんですけど、洋服よりいいかも。最高です」
 黒に近い緑のフレームをかけた彼女が笑う。
「それもこれも、曽根崎さんのおかげです、ありがとうございます」
 俺も笑って返事しながら、だけれどもどこかで笑えないでいる。
 眼鏡は無事に完成して、今後彼女とこうやって仕事をすることはない。会うことはない。
 それを仕方がないことさ、と受け流せない程度に、俺の気持ちは彼女の方に傾いている。
「……中曽根さん」
「はい?」
 フレームを丁寧にテーブルに起きながら、彼女が首を傾げる。
「これは、仕事関係ない質問ですが」
 どうせ最後ならば、訊いてしまえ。
「このフレーム。というか、COCOの服全部、誰か特定の人をイメージしてデザインしていらっしゃるんですね?」
 訊いた瞬間、彼女の顔からすっと笑顔が消えた。瞳が大きく見開かれている。
「……どうして」
 小さく声が落ちてきた。
「そっちの方が似合いそうっておっしゃっていたの、誰か特定の人をイメージしてないと、そういう言葉はでてこないだろうなって」
「……ああ」
 溜息のような吐息を漏らすと、彼女はまた顔に笑顔を呼び戻す。
「デザインの勉強を始める前に好きだった人、です」
「今でも?」
「……さぁ、どうだろう。わからない」
「わからない?」
「あの頃の私は、生きていく意味とか見つけられなくて、死にたいってずっと思ってた」
 テーブルに頬杖をついて、ぽつりぽつりと彼女が語る。
「名前に受ける影響って大きいですよね。私、死ぬなら絶対、好きな人と心中したいって思っていたんです。あの頃は、あの人と」
 俺は何も言わず、ただ彼女が語る言葉を待っている。
「あの人はそれがわかって、だから私の前から姿を消しました。次に会ったら心中してあげる、それまで生きていてっていう約束をして。……私ね、ちゃんとわかっているんです」
 彼女は顔をあげると俺に視線を移した。
「あの人は二度と私の前には姿を現さない。私が死ぬのを防ぐために」
 ああ、と俺の口から相槌なのか溜息なのかわからない声が漏れた。それは相手も彼女のことを好きだということだろう。深く、強く。
「今は、デザインの仕事が楽しいし、心中したいとか思わないけれども。それでもあの人は私の心の中にいて、どうしてもデザインの基礎になるんです」
 笑っちゃうでしょう? と彼女は首を傾げた。笑えるわけがない。
「中曽根さん」
 彼女の瞳を正面から捉える。
「俺と心中してもらえませんか」
 彼女の唇が何か言おうとするのを片手で制し、続ける。
「曽根崎心中になって、俺と一緒に、一生を生きてくれませんか。それが俺の、心中です」
 彼女の顔がくしゃりと歪んだ。泣きそうに。
「……私、曽根崎さんのことは、いいなって思っています。正直。最初に曽根崎心中の話をしたとき、笑わなかったこと、嬉しかった」
 だけど、と泣きそうな彼女が言葉を続ける。
「今はまだ……。もう少し、待っていてもらえますか。最初に賞をとった時に決めたんです。十年待とう、って。私が幸せだって知ったら、帰って来てくれるかもしれないから」
 酷いお願いだけれども、と俯く彼女に、
「それまで、友達としていてもいいですか」
 微笑みながら言った。そりゃあ勿論、そんなの辛くて嫌だけれども。
「……もちろん」
 泣き笑いの顔で彼女は頷いた。
 その十年後、がいつなのか、俺は知らない。それでも待とうと思えた。ベタ惚れだ。

 コラボ企画は好評で、第二弾を行うことになった。だから久しぶりに彼女に会うことになった。
 メールのやりとりは比較的頻繁に行っていたが、直接会うのは、一体いつ以来だろうか。半年程前に食事にいったとき以来か。
「お久しぶりです」
 以前と変わらない顔で彼女が微笑む。
「一応デザイン考えておいたんですけど」
 そう言いながら彼女が差し出して来たデザイン画を見る。それは、以前見たものと少し違っていた。ドット柄じゃなくて、ストライプになっている。
「そちらの方が」
 彼女の声に顔をあげる。
「似合うと思って」
 誰に? 今までと違うデザインが、誰に似合うと? 心臓が跳ねる。
「貴方に」
 そう言って、彼女が微笑む。だけれども、指先が震えている。
「……まだ、間に合うんでしたら」
 そうして彼女が小さく呟いた。
 それが彼女なりの返事だということは、よくわかった。ああ、思ったよりも、待つ時間は短かった。
「……よかったら」
 気持ちを落ち着かせるために一度深呼吸してから告げる。
「この眼鏡に似合うような洋服、見立ててもらえますか。俺、センスないんで」
 彼女は大きく目を見開いてから、
「もちろん」
 泣き笑いのような顔で、大きく頷いた。