窓から入ってくる冷たい風が、髪をなびかせる。それを気にすることなく、窓枠に頬杖をついて沙耶は外を見ていた。
『沙耶のねーちゃん』
 背中にかけられた言葉にゆっくりと振り返る。
「ちぃちゃん」
 人のいない教室の中央に、ふわりと舞い降りた幽霊を見て微笑む。
『……アネモネは?』
 小さい声で尋ねられた言葉に、
「成仏したわ」
 少しだけ微笑んで、端的に答えた。
『……そっか』
 ちぃちゃんは足元を見て小さく呟く。
 同じ学校に住まう幽霊として、思うことが色々あるのだろう。アネモネの方が、ちぃちゃんを認識していたかどうかは別として。
「……さっきすれ違った時にね」
 窓に背を預け、ちぃちゃんに向き直る。
「アネモネ、とても焦った顔をしていた」
 幽霊ともまた少し違う、その存在には入学してすぐに気づいていた。ただ、普通に学校生活を送るだけの彼女を、祓う理由も無くて今まで放っておいた。
「あんな顔も、出来るんだって驚いた」
 淡々と無表情に過ごす彼女らしくない顔だった。
「だから、これはまずいな、と思ったんだけどね。佐野清澄に、執着していたのも知っていたし」
 もしも人間に危害を加えるようなことがあったならば、実力行使にでなければいけない。そう思って見ていた。
「でも、自分で納得して逝けたみたいだから」
 思い出す。
 最期に彼女は笑っていた。綺麗に、微笑んでいた。
「……自分で納得して成仏出来るなら、それに越したことはないわ」
 視線を外に向ける。
 校門のすぐ傍、地面に唐突に生えた赤いアネモネ。赤井アネモネ。
『……成仏した方が、いい?』
 ちぃちゃんが呟いた言葉に、視線を戻す。
「え? ええ、まあ、そうね」
 ちぃちゃんは足元を見つめたまま、
『……俺も?』
 小さな声で尋ねてきた。
 不意をつかれた。
「……そうね」
 この小さな幽霊が、一体何者で、なんのために、どうして、学校に住まっているのかは知らない。けれども、
「成仏出来るならば成仏した方がいい、とは思ってる」
 その考え方は揺らがない。
 ちぃちゃんが小さく身じろぎする。
「でも」
 その考えは揺らがないけれども、
「ちぃちゃんがまだここに居たいのならば、いていいと思う」
 ちぃちゃんがゆっくりと顔をあげる。泣きそうな子どもみたいな顔に、優しく笑いかける。
「それを咎める権利はあたしにも、誰にもない」
 ちぃちゃんは小さく頷いた。
『ありがとう』
「いいえ。こちらこそ」
 この小さな幽霊がいるから、学校生活をここまで乗り切れたこともまた事実なのだ。
 ちぃちゃんは小さく笑ったものの、直ぐにまたいつになく大人しい声色で、
『……でも、俺も、いつかアネモネみたいに人間との距離感を変えようとするかもしれない』
 怯えたように両の手を見る。
「え?」
『いつか、人間に危害を加えるかも……』
 一部を除いて、人間に見てもらえない。そんな当たり前のことに、嫌気がさすときだってある。
「……そうね」
 沙耶は少し躊躇ったあと、
「ちぃちゃん」
 名前を呼ぶ。
 顔をあげたちぃちゃんに、できるだけ優しく笑いかけながら、
「そのときは。あなたが人間に危害を加えるようなことがあったら」
 一際強い風が吹き込む。
「あたしが祓ってあげる」
 白いカーテンと黒い髪を舞い上げた。
 そのままお互いしばらく見つめあう。
『……うん』
 ちぃちゃんが小さく呟いたのは、風がおさまり、カーテンと髪が元の場所に戻った時だった。
『ありがとう』
「約束ね」
 乱れた髪を片手で直しながら、なんでもないことのように続ける。
「だからちぃちゃんは、それまでは好きなだけここに居れば良いわ」
『うん、そうする』
 ちぃちゃんがもう一度頷き、
「さーやぁー」
 遠くから声がする。同時にばたばたと廊下を走る音。
 沙耶が先ほどとはまた違う笑い方をした。本当に嬉しそうな笑み。
『堂本?』
「ええ」
 楽しそうに頷く沙耶を見て、ちぃちゃんは少し微笑んだ。
「今日、部活ないらしいから一緒に勉強する約束をしていたんだけど」
『あー、あれだ、おおかた生徒指導部に掴まったな』
「ご明察」
 お互いに肩を竦めて笑う。
 沙耶の恋人の堂本賢治は、その派手に校則を無視した風貌からしばしば注意を受けていた。
「ごめん、お待たせっ」
 がらりっと勢い良くドアをあけられ、堂本賢治が飛び込んでくる。
 沈黙。
「ちょっ……」
 沙耶は小さく呟いた後、口元を手で覆う。肩が震える。
『ぷっ』
 ちぃちゃんは露骨に吹き出した後、
『おまっ、それ、なんだよぉー』
 腹を抱えて笑い出した。なお、この笑いは堂本賢治には届かない。
「どっ、どうしたの、それ……」
 必死に笑うのを堪えながら尋ねると、
「笑うなよっ」
 顔を真っ赤にして怒鳴られた。
「加島の奴うっせーの! だからっ。くそっ、天パって言ってるのに」
『でも、手ぇ加えてんじゃんかよぉー』
「パーマもちょっとかけてるでしょう? 染めてるし」
「そうだけどさっ!」
『墨汁かけられなかっただけマシだと思えよー』
 明るい茶色でいつも癖のある髪は、水とともに押さえつけられたのかぺったりとしている。
『ボタン、しめてんの初めてみたわー』
 校則を無視した派手な赤いTシャツは脱がされ、学ランの第一ボタンまできっちりしめられている。いつもは腰の辺りで履かれているズボンも、きっちり直されていた。かかとを潰して履いている上履きも、きちんと履かれている。
「うん、でもまあ、それが普通よね」
 見慣れない姿に笑ってしまったが、校則を守っている姿が見慣れないというのもそれはそれで問題だ。
「うぐ……」
 校則どおりのスカート丈に、自然そのままの髪を持つ沙耶に言われて賢治が口ごもる。
「いや、でも、天パだし! 証明書だしたし!」
 特に納得いかないのはそこらしい。両手でくしゃくしゃっと髪をかきむしる。いつものふわりとした髪が、ちょっとだけ戻った。
「うん、そうね。賢の髪の毛、そこがいいよね」
 なんでもないように沙耶が呟いて、自分の鞄を肩にかける。
「えっ!」
 驚いたように賢治が顔をあげる。
「犬みたいで」
 それに小さく笑って言葉を返した。
「ええっ、それどっち、どっちの意味??」
 少し膨れながら賢治が言葉を返し、同じように自分の鞄を手に取った。
『……バカップル』
 ちぃちゃんが呟く。
「うちでいいでしょ?」
「円さんは?」
「今日はゼミだから、遅くなるはず」
「ふーん……。腹減ったからなんか買ってっていい?」
「いいけど。昨日、円姉が作ったケーキあるよ?」
「円さんのケーキはおいしいけど、それじゃ足りん!」
 などと言いながら二人は教室から出て行く。
 教室から出る直前、ドアのところで沙耶は振り返り、ちぃちゃんに片手をふった。
『またあっしたー!』
 ちぃちゃんもそれに手をふりかえす。
「コンビニ?」
「うん」
「……遠回り」
「ごめんってば!」
 声はどんどん遠くなり、小さくなる。
 ちぃちゃんは挙げていた手をおろすと、窓の方へ近づいた。
 校門の前に咲く、赤い花。
 それを見て、少しだけ微笑む。

『さよなら、アネモネ』