今日も学校は、ざわめきと笑い声でわたしを迎えた。
 それは三年間同じことだった。
 そして、そのざわめきと笑い声は、いつもわたしを、そこから追い出しにかかるものだった。
 ざわめきと笑い声がわたしを迎えてくれたことなど一度もないし、それにこれからもないのだろう。
 仕方がないことだ。
 いつものようにベランダに出る。
 一月も終わりに近づいている。もうすっかり寒いけれども、彼らは楽しそうに遊んでいる。それに安堵する。
 三年生。わたしはもうすぐ卒業する。
 だから彼を見るのもあと少し。できるだけ、目におさめておきたかった。
 佐野くんは、なにかいいことでもあったのだろうか? はしゃいで友達の肩を叩いていた。
 彼の口角はいつ見てもあがっていた。
 それをいいな、と思っていた。
 唇の両端に人差し指をあてる。それをくぃっと上に持ち上げてみる。
 これで笑えているだろうか。
 窓ガラスに僅かに移ったわたしの姿は、酷く滑稽で、慌ててその手を離した。
 無理なものは無理だ。わたしには無理だ。
 そう思った。
 泣いたことも、笑ったこともないわたしには。


 放課後、わたしはアネモネの花壇の前にいた。
 一週間に一度、この花の成長具合を見るのが楽しみだった。
 母は、わたしの出産予定日が三月と知り、その段階でわたしにアネモネという名前をつけることを決めていた。
 胎児のわたしにずっとアネモネ、と呼びかけるぐらいに。
 アネモネ。桃、青、白と沢山の色があるが、やはりわたしは赤いものが好きだ。
 赤井アネモネ。それはわたしの名前になる。
 赤いアネモネ。まるで血のような色。ギリシャ神話では、少年アドニスの血から、この花が生まれたと言われている。
 赤は生命の色だ。
 わたしに生命の色なんて似合わないが。
 アネモネの花が咲くのは三月頃。
 卒業式までには咲いてくれるといいな、と思う。最後に楽しみにしていた、この学校のアネモネが見たい。
 佐野くんが植えたアネモネが、佐野くんが世話をしていたアネモネが見たい。
 佐野くんが植えた、世話をしていたわたしの、花を。
 でもどうだろうか? 今年は例年より少し寒く、春に咲く花の開花はどれも遅れる見通しらしい。
 卒業式まで、あとどれぐらい残されているのだろうか。あとどれぐらい、佐野くんを見ることができるだろうか。
 三年生であるわたしたちは、他の学年よりも一足早く、もうすぐ学年末テストがはじまる。二月になれば家庭研修期間にはいってしまう。
 学校に来ることがなくなってしまう。
 佐野くんも見ることも減るだろう。寧ろ、見ることができない日々が続くことになるだろう。
 寂しいけれども、こればかりはどうしようもない。
 諦めよう。
 諦めることには、慣れている。


 だから、彼を廊下の向こうで見つけた時、ほんの偶然だったとしても嬉しかった。運命を感じた。
 この距離で、ベランダからではなく彼をみることは、なんだか気恥ずかしい。正面から佐野くんを見ることができない。
 ほんの少し上目遣いで、そっと佐野くんを見つめる。
 放課後だし、もう帰ろうとしていたところなのだろう。ダッフルコートを着込み、手には鞄を持っていた。
 茶色いそのダッフルコートは、とてもあたたかそうだな、と思った。触れてみたい、そのあたたかさに。
 ほんの少し下を向いていた佐野くんが、何かに気がついたかのように、ふっと顔をあげた。
 ぱちっと目が合う。目が合った。そんな気がした。
 彼はぱっと、花が咲くように笑う。
 眼鏡の奥の瞳が、優しく細められる。愛おしいものを見るように。
 その顔に、胸が高鳴る。
 思わず、その笑みに背中を押され駆け寄ろうと二、三歩足が動いたわたしを、
「ユリっ!」
 彼の心底嬉しそうな、愛おしそうな声と、わたしの横を駆け抜けて行く、ふわふわとした巻き毛が押しとどめた。
 ふわふわの巻き毛の持ち主は、抱きつくようにして佐野くんのところに駆け寄る。そうして佐野くんの手を握ると、嬉しそうに微笑んだ。

 柔らかそうな髪、二重でぱっちりとした瞳。カーディガンの袖から、ちょこんと指先がのぞいている。
 小さくて可愛い子だ。
 わたしとは違う。
 可憐に笑う、その顔。

 ……わたしは、何を期待しているのだろう。
 何を、期待していたのだろうか。
 黒い髪の毛と校則どおりのスカートをちょっとひっぱる。
 わたしと彼女は、全然違う。

「ごめんねー遅くなって」
「いいよ、帰ろう」
 二人は楽しそうに笑いながら、廊下で話している。彼女は佐野くんの指先を、ちょこんっと握っていた。
 彼女と話す佐野くんの声は、いつも聞いているものと違った。
 ベランダから見つめるグラウンドの声ではなかった。生徒会選挙の演説の声ともまた違った。
 どこか甘い、優しい、愛おしい声だった。何かとても淡い、綺麗なものに包まれたかのような声だ。
 彼女のことは知っていた。
 生徒会役員の一人だ。佐野くんと一緒にいるところもよく見かけていた。
 よく見かけてはいたけれども、カノジョではないと思っていた。
 カノジョではないと信じていた。
 でもやはり、カノジョだったのか。
 小さく唇を噛む。
 その動作に気づき、自分に苦笑する。
 何を悔しがっているのだ、わたしは。
 佐野くんにカノジョがいようがいまいが、関係ない。わたしがその位置につくことは、あり得ないのだから。カノジョがいなかったところで、わたしにお鉢が回ってくるわけではないのだから。
 だったら、彼が幸せな方がいいじゃないか。カノジョがいない方がいいというのは、わたしの傲慢さが招く言葉だ。
 そう、自分を叱咤する。
 こんな風に、笑っている佐野くんが見られるなんて、それだけでいいじゃないか。
 グラウンドでも見られないような、弾けるような笑顔が見られるだけで。
 仕方がないことを、諦めることには慣れているじゃないか。
 でも、何故だろうか。胸が痛い。どこかにぶつけたのだろうか。
 諦めることには慣れているはずなのに、悔しい悲しいと思っている自分がいる。
 そんな自分が怖くなる。
 これ以上、楽しそうな二人を見て、知らない自分を見つけるのに耐えられなくなって、わたしは二人の横をすり抜けて、教室へと急いだ。

 教室に戻ると、大きな笑い声がした。
 ああ、またあの人たちか。
 クラスの目立つ女の子たち。
 彼女たちの卒業後の進路は短大や、推薦で決まっていて、まだ受験が終わっていないクラスメイトとは違い、のんびりしたものだった。
 実際、一月も終わる今になっても、教室でおしゃべりしてから帰るのを忘れない。これから一般受験をするクラスメイトは、足早に帰ったり、図書室に残って勉強をしていたりするのに。
 のんびりと、いつまでも学校に残っていた点では、わたしも大差ないが。
 いずれにしても、どうしても苦手だ。
 会話をすることもないし、彼女たちはわたしを認識していないことはわかっているが、それでも。
 教室に入るのが躊躇われる。
 でも、いつまでもここにこうして立っているわけにもいかない。
 溜息をつきながら、ドアに手をかける。
「ってかさー、昨日のシューくんのドラマ。あれ、なくねー?」
 その言葉に、ドアを開ける手が止まる。
「えーそう?」
 そのシューくんがでるドラマは、アヤメも見ていた。毎週かかさず、母に頼み込んでそのドラマだけは見ていた。
 わたしはリビングの隅でそれを一緒に見ていた。
 だからよく、覚えている。
「ほらあの台詞」
 それはドラマの終盤、過去を隠してきた主人公がヒロインに自分の過去を告げ、思いを告げる感動的な場面とも言える。
 その台詞は、

「僕は生まれてから泣いたことがない」
「わたしは生まれてから泣いたことがない」

 彼女は少し、そのアイドルの声色を真似したようだった。
 ドアのこちら側で小さく呟いたわたしと声が、はもった。
 わたしは今まで泣いたことがない。
「だってあれ変じゃない? じゃあ、赤ん坊の時とかどうしてたんですかーっていう」
「うわっ、そこでマジレス?」
「感動的な場面だったのに」
「だって、そうじゃん。産声すらも? みたいな」
「雅ってば超空気読めてない」
 笑い声がする。
 わたしは。
 わたしは、ドアを開けられなかった。
 そっと手をおろす。

 わかっていた。
 わたしは生まれてから泣いたことがない。その意味が。
 そして、その表現が、わたしにとっては間違っていることを。
 わたしは――。

 がらり、といきなり目の前のドアが開いて、体が驚きで凍り付く。
 話は終わったらしい。
 中から出て来た彼女達は、立ち尽くすわたしを気にせず、わたしを、わたしの中を通り抜けて去って行った。
 ああ、わかっていた。
 最後尾を歩いていた少女へ手を伸ばす。その手はただ空を切った。
 距離としては届いていたはずなのに。
 わたしの手は、彼女の肩を、すり抜けた。
 わたしは自分の手を見つめる。

 わたしは生まれてから泣いたことがない。
 いや。
 わたしは今まで泣いたことがない。
 産声すらあげなかった。赤ん坊の時も泣くことなく、気づいたら成長していた。

 わたしの中にある一番古い記憶は、手術室の中だ。
 騒々しく何かを叫ぶ医師。ベッドの上で横たわる母に、必死で何かの処置をしている。
 わたしはそれを上から見ていた。
「先生、赤ちゃんは」
 目覚めた母が言う。
 わたしはここよ、ここにいるよ。
 その時すでにわたしは自我を持っていた。その意識で呼びかける。
 医師が首を横にふり、母は泣き崩れた。
 わたしは母の周りを飛び回り、母を慰めていた。でもわたしの言葉が母に届くことは、ついぞなかった。
 母は落ち込み落ち込み落ち込み続けた。
 わたしの花を、アネモネの花を愛で、我が子のように愛していた。
 その姿は少し鬼気迫るもので、そう、病んでいるといっても過言ではなかった。
 母が元気を取り戻したのは、それから六年後、アヤメが生まれてからだ。
 だからわたしはアヤメに感謝している。
 わたしの声は母に届かない。
 わたしは母を慰められない。
 わたしは母と生きていけない。
 それらはアヤメの仕事だ。アヤメにしかできないことだ。
 そう、わたしは今まで泣いたことがない。
 産声すらもあげることはなかった。
 わたしは、生まれなかった。

 わたしの最初の記憶から、わたしの記憶は間が空いている。
 気づいたらわたしは幼稚園に通い出していた。
 恐らく、幽霊のような存在であるわたしは、世界に留まり、成長していった。通常の子どもと同じスピードで。
 制服や持ち物は、意識するとどこからか現れた。誰にも世話をさせることはなかったけれども、怪我や病気をすることもなく、すくすくとわたしは成長していった。
 幽霊というのは便利なものだ。
 学校にわたしの居場所がないのも当たり前だ。だってわたしの戸籍はないし、わたしは勝手に学校に通っているのだ。
 わたしとしては、きちんと入学試験を受けて、合格発表で番号も確認しているのだけれども。

 わたしの存在について、わたしなりにずっと考えていた。
 幼いころは、どうしてわたしの声が母に届かないのか、どうして父はわたしを肩車してくれないのか、どうして先生はわたしの連絡ノートにだけシールを貼ってくれないのか、ただそれだけが疑問だった。
 わたしは彼らが見えているし、幼稚園のブランコでも滑り台でも触れて遊べた。ただ、人間だけには、触れなかった。

 パラレルワールド。映画でその言葉を知った時、納得した。
 きっとわたしは、きちんとわたしが生まれた世界と、生まれなかった世界の狭間にいるのだ。平行世界の狭間にいるのだ。
 本来交わるはずのないパラレルワールドは、わたしを起点として、わたし一点だけで交わっている。
 その証拠に、わたしが見る高校の名簿にはきちんとわたしの名前が載っている。それは、わたしがきちんと生まれた世界のものなのだろう。
 いずれにしても一つだけ、わたしにとって確かなことがある。それは、わたしはここに居ることだ。
 幽霊であろうとも。違う世界の人間であろうとも。
 わたしは生まれていない。だからきっとわたしは生きているとは言えない。
 それでもわたしは、ここにいる。
 わたしがいつまでここにいるのかはわからない。生まれて来なかった時に死ななかったから、きっと年を取って死ぬまでここにいるのだろう。生まれて来なかったから死ねず、死ねなかったからここにいる。
 大学は受験しなかった。意味を見出せなかったからだ。
 だから、来年度からはただのニートになる。
 それでもわたしは、来年度以降も存在して、年を取って行くのを待つのだろう。
 そういうものだ。
 わたしが世界に関わることはない。
 自分の意識では世界の一員として存在しながらも、外部からは存在しないものとして扱われ、そうして世界を外から観察する。
 それがわたしの役割だ。
 佐野くんが、わたしのことを知らないのも当たり前なのだ。
 わたしと佐野くんの世界は交わらない。
 永遠に。