「ただいま」
 小さく声をかけて、赤井と表札のついた玄関をくぐり抜ける。
 返事はない。それを今更期待することはない。
「ねー、おかーさーん!」
 妹のアヤメがぱたぱたとわたしの横を通り過ぎる。わたしには一瞥もくれない。
「なあに」
「あのねー、今度の日曜日にでかけたいんだけどー」
 アヤメは台所にいる母と楽しそうに話す。
 六歳下のアヤメが生まれてから、母は変わった。
 それまで鬱々と塞ぎ込むことが多い人だった。
 それが今では、自由気ままで、元気いっぱいのアヤメに振り回されながらも、楽しそうに生活している。笑うことも多くなった。
 だから、わたしはアヤメに感謝している。
 例え、アヤメが生まれたことでわたしに向けられる母の愛情がなくなったとしても。
 母の中からわたしが消えたとしても。
 寂しいと思わないわけではない。でもこれでいいのだ。
 母にはわたしは必要ないけれども、アヤメは必要なのだ。
 わたしには母は必要ないけれども、アヤメには必要なのだ。

 ベランダにでて、物干竿の下にしゃがみ込む。
 もう冬だ。さすがに寒い。
 それでも、ここにこうして座っているときが、一番落ち着く。
 家でも、学校でも、わたしが落ち着いていられるのは、ベランダだ。
 そして、それでいいと思っている。
 視線に並べて置かれているプランターに向ける。
 このプランターには、アヤメの花が植えられている。初夏に綺麗な紫色の花を咲かせる、アヤメの花が。
 多年草のアヤメは、今は休眠期だ。
 膝をかかえる。
 アヤメが生まれる前までは、このプランターには、アネモネの花が植えてあった。わたしの花が。
 アヤメが生まれてからは、それはアヤメの花にとってかわった。
 我が家のベランダから、アネモネの姿は消えた。母の意識からも。
 それでいい。
 それで、いいのだ。
 アネモネの花は、学校で見ればいい。何も家で見ることはない。
 そっと目を閉じる。
 校庭の花壇。例年植えられるアネモネ。
 今年のアネモネは、ただのアネモネではない。
 佐野くんが植えて、育てているものだ。
 もちろん、他の生徒会メンバーも世話をしているけれども。
 けれども、いつもベランダから校庭を見ているわたしにしてみれば、佐野くんが一番多く、あの花壇の世話をしていると思う。
 それはわたしの贔屓目かもしれないけれども。でも、わたしはそう信じている。
 時間を見つけて、肥料を与え、水を遣る佐野くんの姿を、わたしはずっと見ていた。
 ボールがあたったらしく、折れている茎を見て狼狽していた佐野くんを知っている。
 アネモネの花を、わたしの花を、大事に思っていてくれることを、わたしは、知っている。
 他の誰が、知らなくても。
 すこし、ストーカーじみている。
 自分に苦笑する。
 でも、いいじゃないか。
 そう、誰にともなく言い訳してみる。
 佐野くんはわたしのことを知らないのだ。だから、わたしが佐野くんのことを知るぐらい、それぐらい、許されてもいいじゃないか。
 わたしがこんなに望むなんてそんなこと、はじめてなのだから。


「ただいまー」
 階下で父の声がする。
 それに気づき、目を開けた。
 どうやら寝てしまっていたらしい。
 冷えた体をさすりながら、リビングに向かう。
「おかえりなさい」
 返事はなくとも、父に声をかけておきたかった。
「ねー、おとーさん」
 一人、遅れた夕食をとる父の前でアヤメが甘えた声を出す。
「いいでしょー、日曜日。友達と出かけても」
「でもなあ」
「ほらアヤメ。お父さんも駄目だって言ってるでしょう」
「だって、シューくんが来るんだよー! 歩いていける距離にシューくんが来るなんてレアだよ! 入場料もかからないイベントなんだよ!」
 どうやらアヤメは、近所のショッピングモールに今人気のアイドルグループのメンバーが来るという、そのイベントに行きたいようだった。
「アヤメ、何も今じゃなくてもいいじゃないか」
「今じゃなきゃだめなのー!」
 アヤメが頬を膨らませる。
「今のシューくんはね! 今しか見られないんだよ!」
 父が困りきった顔をする。
「アヤメ」
 それから窘めるように名前を呼び、
「もうすぐ入試じゃないか」
「シューくん見たらすぐ帰ってくるから!」
 だからお願いします、とアヤメは両手をあわせる。

 わたしの六歳下、小学六年生のアヤメは、中学受験を予定している。
 アヤメ自身はそれほど熱心ではないが、母の熱意に乗せられて勉強してきたことを知っている。母は、おだてることが得意な人だと思う。
 父個人は、アヤメの受験に対して特に何も思っていないようだった。反対も賛成もしていない。
 だから、出かけたいというアヤメの願いにも許可してあげてもいいかなという気持ちと、アヤメの背後で父を睨む母の姿と、せっかくここまで頑張って来たのだし折角だから合格して欲しいかなーもしかしたら合格出来るかもしれないしという親としての気持ちで揺れ動いているようだった。
 三人から離れたところでわたしはそれを冷静に分析する。
 頬を膨らませていたアヤメの目が、段々潤んできた。
 アヤメに甘い父の反応が鈍いことが原因だろう。父に反対されれば、より受験に熱心な母を陥落させることは難しくなる。父ならば頼めば許してくれる、とも思っていたのだろう。
「だめなの?」
 呟く声は震えている。
 それに些か父は焦ったようだ。
「いや、だめっていうか、なあ?」
 狼狽したようにアヤメの肩越しに母を見る。
 頼りない夫に呆れたように母は少し溜息をついてから、
「アヤメ、まだ第一志望の学校が残ってるでしょう?」
「でももう受かったところもあるからいいじゃん」
 そもそも中学なんて義務教育なのだから、わざわざ受験なんてしなくてもいいのに。
 そうは思うけれども、アヤメの勉強を見ている母が生き生きしていて、それに安堵していたこともまた事実だ。
 母の生き生きした姿を見ることは、わたしに安心感を与える。それさえ見られればいい、とさえ思う。
 アヤメが生まれるまで、ふさぎ込んでいた母を知っているから。
 わたしの高校受験の時なんて、母は見向きもしなかったのに。なんて、思ってしまう。そんなこと、言っても詮無いことなのに。
 たまにこうやってひがんでしまうわたしは愚かだ。
 意味のないことをするのは、とても、愚かだ。

 睨み合う母とアヤメに恐れをなしたかのように父が、
「あーなんだ、ほら、そのジョーくん?」
「シューくん!」
 アヤメがフグのように膨れる。こんな状況下でも、大好きなアイドルの名前を間違えられることは嫌らしい。
 父は困ったように頭を掻きながら、
「いや、だからそれは二時間とかなんだろう? だったらほら、早く帰って来て勉強すれば。たまに休みぐらいさ、あった方がアヤメも、がんばる気になるよなぁー。ここまでがんばってきたわけだしさ」
 どうだろう? とうかがうように二人を見る。
「わー! お父さんありがとう!!」
 アヤメはもうそれを了承と受け取ったようだ。嬉しそうにテーブルの上に身を乗り出して父に抱きつく。
 母は不満そうに、まだ何かを言おうとしていたが、
「お母さんも!」
 アヤメに抱きつかれて、諦めたように頷いた。
 結局母だって、アヤメには甘い。大事な可愛い娘だから。
 わたしはそれを離れたところから見ていた。
 三人は楽しそうに話を続けていく。
 泣いたり怒ったり笑ったり。アヤメの感情の起伏は、わたしには眩しい。
 わたしは今まで泣いたことがない。
 あんなふうに笑ったこともない。
 だから、わたしにはそれは眩しい。
 同じ姉妹なのに、わたしとアヤメは全然違う。
 見てきたわけではないけれども、アヤメはきっとベランダでグラウンドを眺めることを日課とはしていない。
 わたしの机に座っていた、クラスの中心的女子。きっと学校でのアヤメは、そんな感じなのだろう。
 あの子たちと同じような、明るい匂いがアヤメからはする。
 わたしとは、まったく違う。同じ両親のこどもなのに。
 でもそれは、仕方がないことだ。
 わたしはそれを、知っている。