わたしは今まで泣いたことがない。 わたしの通う高校の生徒は黒い。 セーラー服も学ランも、どちらも黒いデザインだからだ。 その黒い人並みを早足で抜けて、教室へ滑り込む。 三年二組、そこがわたしの教室。 窓際の一番後ろ。その机の上から、長い脚が降りていた。 「でさぁー、昨日のシューくんのドラマ」 「見た見た、かっこよかったよねぇ!」 「今度のシューくんのイベント、行く?」 短いスカート、必要以上に明るい髪の毛。薫る香水と、長く伸ばされた睫毛。クラスの中心的女子。 わたしとは、住む世界がまったく違う女の子たちだ。 その窓際の一番後ろはわたしの席だけれども、それに何か言ったりしない。言ったところで、意味なんてない。だから、言わない。 彼女が座っているわたしの机。その後ろに鞄をそっと置くと、逃れるようにベランダに出た。 教室の笑い声を背中にうけながら、ベランダからグラウンドを見下ろす。 一年生の男の子達が、楽しそうにサッカーをしていた。 まだ今日は始まったばかりなのに、ズボンがもう砂で汚れている。乾燥している校庭の砂は、彼らの動きにあわせて砂煙を巻き上げる。 「清っ!」 名前を呼ばれ、パスを受けた子がシュートを放つ。 ゴールが揺れた。 「っしゃー!」 嬉しそうにガッツポーズ。 わたしの口元も少し緩む。ほんの、少し。 黒ぶち眼鏡をかけた、少し真面目そうな、彼。生徒会副会長として、生徒会選挙に出ていたから名前を知っている。 佐野清澄くん。 「そろそろ教室戻ろうぜー」 「えー、もう?」 「知ってるか、堂本。今日の一限の英語は、小テストなんだ」 「え、そうだっけ!?」 ああ、もう帰ってしまうのか。 校舎に戻る足取りもはしゃいでいる彼らを見送る。 また、昼休みになったら、見られるけれども。 彼らは朝と昼、校庭で遊んでいる。それはサッカーだったりバスケだったりドッジボールだったり、人数もメンバーもその時によって違うけれども。 ひとつだけ、毎日共通していることは、彼らがとてもとても楽しそうだ、ということ。きらきらと、眩しい。 それをこうやってベランダから見るのが、わたしの学校での、唯一の楽しみだ。 もしかしたら、わたしの唯一の楽しみなのかもしれない。 彼らの中でも、彼を、佐野くんを見つめるのがわたしの楽しみなのだ。 佐野くんは、三年のわたしのことなんて知らない。知るはずもない。 ただ、わたしが一方的に、恋焦がれているだけだ。 いや、恋とも言えない。 恋なのかはわからない。 自分の思いについて検討して、わたしが知っている単語であてはめてみたら、そうなるだけ。 彼に対してどうこうしようというつもりは毛頭ない。 ただ、こうやって見ていられればいい。 わたしが彼のことを知ったのは、文化祭も体育祭も終わり、わたしたち三年生が表舞台からすっかり退いた、十月のこと。 彼らは今日のようにサッカーをしていた。 その時のわたしは、まだ今のように自発的にグラウンドを見ているわけではなかった。ただ暇で、居場所もなかったから、なんとなくそれを見ているだけだった。 それでも彼らが楽しそうにスポーツに興じているのは、見ていて気分が悪くなるものでもなかった。寧ろ逆だった。 でも、その日は違っていた。 一つのボールの軌跡を追い、 「っ、あぶないっ!」 思わず声が出てしまう。 一人の子が蹴ったボールは、受け手の居ない方へとんでいった。花壇に吸い込まれるように。 そこにはこの前、生徒会が植えたばかりのアネモネがある。 毎年あの花壇にはアネモネが植えられる。 わたしと同じ名前のその花を、わたしは三年間楽しみにしていた。来年の三月、最後のアネモネを見るのを心待ちにしている。 そのアネモネが危ないと、思わずベランダから身を乗り出した。そんなわたしの目にうつったのは、 「セーフっ」 走りより、咄嗟にボールを止めた彼、佐野くんの姿だった。 ほぼスライディングのようにボールを止めた彼のズボンは、砂で真っ白になっていた。 でも彼はそんな制服を気にすることはなく、強い口調で、でも明るく怒鳴ってみせる。 「あぶねーだろ! 折角の花壇なのに! 堂本のノーコン!」 「わりぃ! ほんとに!」 もうお前罰としてなんか奢れ、そんな軽口を叩きながら、彼らはまたサッカーに興じる。 わたしは乗り出していた身をひっこめると、知らずに止めていた息を吐いた。 わたしの目は、ボールを追いかける佐野くんに釘付けになった。 花壇にボールがぶつかるのを危ないと思う。それもアネモネを。 わたしを。 守ってくれた。 そう思った。 それからはもう、もうどうしようもなかった。 あの日以来、わたしは彼を目で追うようになっていた。 朝と昼に彼らが遊ぶのをベランダで見るのが、本当の意味での日課になった。 たまに佐野くんがいないときは心のそこからがっかりした。その当時のわたしは、彼のクラスはもちろん、名前すら知らなかったのだ。 わたしが彼を見る唯一のチャンスが校庭で、だったのだ。 それからしばらくして、生徒会選挙の日。壇上にあがり演説する人物が、あの日の彼だということに気づき、心臓が跳ねた。 マラソンを終えた後のように、心臓が脈打つ。ああ、こんなことってあるのか。 佐野清澄。 その名前を覚える。 いつも遊んでいるのを見るときの笑っている顔はとても可愛かった。 その日、壇上の彼は真面目な顔をしていて、それはそれは格好よかった。いつもとはまったく違う顔だった。 彼の他の表情を、顔を、もっと知りたい、と思った。 こんな気持ちになったのは初めてだった。 これが恋とも呼べない、わたしの彼への思い。 彼はわたしのことを知らない。 知る由もない。 それで、いいのだ。 それしか、ないのだ。 |