結局、私が禁忌に触れたのは、あの時だけ。あれ以降は、概ね平穏な日々が続いていた。すこぅし、過保護になった貴方との生活は、それでも緩やかに続いていた。
 触れたら壊れそうな、砂の土台の上で。それでも、壊れずに。
 私は少しずつ、だけど確実に覚悟を決めて、そして、あの人が現れた。

 あの日、庭の木の、枝が伸び過ぎていて気になると、突然剪定をはじめた隆二を、縁側がら見守っているところだった。貴方は突然、そうやって思いつきで妙な事をはじめるから、私は度々驚かされていた。きっと、自覚は無かったでしょうけれども。
「隆二兄ちゃん、茜姉ちゃん!!」
 そんな中、慌てた様子で庭に飛び込んで来たのは、あの時、隆二が助けた太郎君だった。
 あの頃よりは大きくなって、上の学校に通うようになって、彼に会う事も減っていた。久しぶりに見るあの子は、体は大きくなっていたけれども、相変わらず少し、落ち着きが足り無かった。
「太郎、どうした?」
 ひょいっと地面に降り立ちながら、軽い調子で隆二が尋ねる。
「車に轢かれた!」
 太郎君は悲鳴のように叫んだ。
 どう見ても、ぴんぴんしていて、元気そうな外見で。
「はぁ?」
 隆二が思い切り怪訝そうな声を出した。
 要するに、太郎君はまた車に轢かれそうになり、それを助けてくれた見知らぬ男性が車に轢かれたらしい。
「隆二兄ちゃんっ、みたいに!」
「で、俺の時みたいに悲鳴をあげて逃げたわけだ」
「だって! 怒られると思ってっ」
「判ってるなら気をつけろよ。そそっかしいんだよ、太郎は。いつか本当に轢かれるぞ」
 事故現場まで先導する太郎君に着いて行きながらの状況説明。
 それにしても、走っているから呼吸が乱れている太郎君や私とは対照的に、隆二の声は平坦なままで、不謹慎だけれども感心した。
「でもっ、大丈夫なのかしらっ。隆二は、ともかくっ、心配」
 隆二は、隆二だったから大丈夫だったのであって、普通の人ならば場合によっては死んでしまうこともあり得るのだ。
 それにしても、太郎君の話では車は一条の物とは違ったようで、他にもそのように乱暴な運転をする人間がいるのかと思うと、一条ではなかったことに安堵する一方で、辟易した。
 この村にも、一条以外にも、車を持つ人間がいる程、普及し始めたのか、とも少し思った。嗚呼、貴方と初めて逢った時から、どれだけ時間が経ったのだろう。普段意識していないことをつきつけられて、心臓がきゅっと痛んだ。
 それが表情に出ていたのか、
「俺はどっちかっていうと茜の方が心配だ」
 隆二がこちらを見て、うんざりしたような顔をした。
「いいから歩いてゆっくり着いて来い。走るな」
「でもっ」
 確かに少し心臓は跳ねているけれども、今顔を顰めたのは別の理由だし、心配だし。
 反論しようとする私を無視して、
「太郎、土手だよな」
「そうだよっ、隆二兄ちゃんと一緒」
「だって。走るな、歩け。まだ距離がある。お前まで倒れたらどうする」
 厳しい顔と口調で言われた言葉に、素直に歩調を緩める。
「……はい」
 その轢かれた人というのは心配だったけれども、貴方に心配をかけることも本意ではなかった。それに、怪我人に病人を増やしても、迷惑になるだけだ。
「先に行ってる。俺一人の方が速いし。太郎、茜が走らないようにちゃんと見とけ」
「うんっ」
 隆二はそれだけ言い残すと、速度を上げて走り去った。
 相変わらず、速い。でも、あれでも本気ではないのだろう。
「茜姉ちゃん、大丈夫?」
 胸に手を置いて、一度深呼吸をした私を見て、太郎君が心配そうな顔をする。
「大丈夫」
 それに微笑みかける。
 まだ、大丈夫。
 まだ、貴方がこの町にいるから。だから、私は、まだ生きていくのだ。貴方が居なくなるまで、この欠陥品の心臓を無理にでも動かそうと、そう決めているから。
 だから、大丈夫。
 走るなとは言われても、のんびりと歩く訳にも行かず、心持ち早歩きになる。
 私達が土手に着いた時、何故か隆二は倒れ込んだ男性の隣に、のんびりと座り込んでいた。
 一寸待って、どういう状況なの、それ。
「隆二っ」
 手当ぐらいしたのだろうか。そう思いながら呼びかけると、隆二は私を見て、
「だから走るなって」
 咎めるように言った。
「でもっ」
「これ、知り合い」
 言葉は、つまらなさそうな隆二の言葉で遮られた。
「え?」
「仲間」
「……ああ」
 そうだ、成功した実験体は四人居た、と彼は言っていた。そのうちの一人、と言う事か。ならば、隆二が落ち着いていたのも理解出来る。
 と、同時に、あの隆二の死神の姿と、死神が現れた時の怯えた隆二を思い出して、厭な気持ちになった。
 それは顔にも出ていたらしい。
「……だからなんでお前がそういう顔するかねぇ」
 隆二が呆れたように呟いた。その言葉は、とても優しい。
 貴方の事を愛おしく思っているから、だから私は、こういう顔をするのよ。貴方だってそれぐらい、判っているでしょうに。
「あの……」
 私の影に隠れるようにしていた太郎君が、意を決したように、男性に声をかける。
「太郎、大丈夫。こいつも俺と同じようにしぶといから、生きてる」
 それを見て、思い出したかのように隆二が言った。目に見えて、太郎君が安心する。
「ありがとうございました。御免なさい」
 男性の隣に立つと、頭を下げた。
 でも本当、太郎君はそそっかしいところがあるので、気をつけて欲しい。
「……いいよ」
 男性は、呟くと、視線を何処かに逸らした。逃げるように。
 あ、隆二と一緒だ、と直感的に思った。出逢った頃の隆二と。その顔は、お礼を言われるのも、誰かと触れ合うのも、嫌がっていた頃の貴方に、とてもよく似ていた。
 隆二の仲間は、皆、そんな風に寂しい反応をするのだろうか。彼らの立場を考えてみればそれは当たり前なのだけれども。それでも、悲しいことだと思った。
 同時に、今の隆二が、私だけではなく太郎君達ともかかわることを嫌がらなくなったことに安心もした。
 私が居なくなっても、貴方はきっと、誰かに助けてもらえる。すぐにでは無いかもしれないけれども、いつかは。誰かと触れ合うことに躊躇いが無くなっていることは、安心材料だから。
 さてと、と隆二は呟くと、
「先生の処、連れてく。二人は先、帰っててくれ」
「でも」
 一人で大丈夫だろうか。勿論、私が居ても役に立つとは思えないけれども。それでも、仲間だというその人に、思い出してしまった死神の存在に、素直に任せる事は躊躇われた。
「大丈夫」
 そんな私の心を読み取ったかのように、隆二が笑う。安心させるように。
「本当?」
「ああ」
「……じゃあ、判った」
 貴方がそこまで言うのならば、任せよう。それに、考えてみれば、私が居たら出来ない話だってあるだろう。貴方にも。
「太郎、茜送ってやってくれ」
「うん!」
「車には気をつけろよ」
「判ってるよ!」
「茜、待ってなくていいから。遅くなったら先に寝てろよ」
「……うん」
 それは、そこまで遅くなる予定がある、ということか。でも、久しぶりに会った知り合いなのだから、積もる話もあるだろう。そう、自分を納得させる。
 少し、寂しいと思った自分が居て、内心苦笑した。私は本当に、貴方に依存している。いつも一緒に居るのに、居るから、少し離れるだけでも寂しい。
 気をつけてね、と念を押して、太郎君と二人、家に戻る。
「太郎君、車に気をつけてね」
「判ってるよー!」
 不満そうに太郎君が唇を尖らせる。本当に、判っているのかしら?
「茜姉ちゃんこそ、気をつけてね」
 それはきっと、車の事を言っている訳じゃない。
「うん、ありがとう」
「茜姉ちゃんになんかあったら、隆二兄ちゃん、きっと駄目人間になるからね」
 太郎君が真剣に呟いた言葉に、思わず笑う。
「駄目人間になるの?」
「なるね。隆二兄ちゃんは、一人だったらご飯食べるのも忘れそうだよ。なんか、生活出来なさそう」
 こんな子供にも見抜かれている隆二が、なんだか愛おしかった。
「ねえ、太郎君」
「うん?」
「大丈夫だけど。だけどね、もしも、隆二が駄目人間になっちゃったら、叱り飛ばしてあげてね」
 太郎君は、私の言葉の意味を考えるかのように、少し黙っていたが、
「ん」
 小さく頷いた。
「でも、そういう面倒臭いの、僕、嫌いだから。だから、駄目人間にさせないで」
 それから、少し怒ったように言葉を続けた。私が自分の死後の事を頼んでいる事が判らないような子供じゃないのだ、この子も、もう。
「うん。させないけど、万が一」
「万が一ね。約束だよ」
「ええ」
 家まで送るという太郎君とは、もう遅いからと、手前で別れた。私の家は村の外れだから、こちらまで来たら、太郎君が帰るのが遅くなってしまう。
 家に一人、帰る。
 誰も居ない家の中は、恐ろしいぐらい静まりかえっていて。私はもう何年も、ずっとずっと、この静寂の中で生活してきた筈なのに、耐えられないと、今は思った。
 嗚呼、貴方が居ないのなんて、貴方が来てから初めてだから。
 耐えられない。
 貴方がきっといつか居なくなってしまう未来を思って、この家の中にまた一人になることを思うと、耐えられない。
 そして、私が居ない世界で、一人で生きていく貴方を思うと、やはり耐えられなかった。
 耐えられないのに、私には何も出来る事が無い。
「寂しいね」
 呟いた言葉を拾う人間は居らず、ただ、家の中を漂った。

 隆二が帰ってくる気配が無かったので、久しぶりに一人で食事をし、寝る準備まで終えた。本当は待っていたかったけれども、待っていたら隆二はいい顔しないだろうから。<
 改めて、一人で住むには広い家だな、と思う。隆二と出逢うまで、当たり前のようにこの家に一人で居た自分が信じられない。
 しかし、そろそろ本当に寝ないと。あまり起きていると隆二が何言うか判らないし、などと思っていると、がたがたと、玄関の方で音がした。
 それにびくり、と肩が強張る。何でも無い音が、一人だととても怖い。
 玄関の方まで行くか悩んでいると、がらがらとドアが開く音がした。言葉も無く、進んでくる足音。
 隆二だと思うけれども、隆二の筈だけれども、違ったらどうしよう。部屋の隅で、怖くて身構えていると、
「まだ起きてたのか」
 部屋に来た隆二が、不愉快そうに言った。
「……ただいま、ぐらい言ってよ」
 隆二に対して身構えていた自分が恥ずかしくて、そう言うと、
「寝てると思ったんだよ」
「寝ようと思ってた」
 言い訳のように答えると、どうだか、とでも言いたげに隆二が肩を竦めた。
「でもまあ、良かった。事後報告で悪いんだけど、こいつ、とりあえず一晩泊めていいか?」
 背後を指差す。そちらに視線を移すと、襖に隠れるようにして、先ほどの男性が居た。なんだかもの凄く微妙な顔をしている。よほど不本意なのだろう、此処に来る事が。或いは、隆二の世話になる事が。
「先生は構わないって言っていたんだが、流石に先生の処にこいつ一人置いてくるのは躊躇われるし」
「……だから、俺、何もしないって」
 暗に危険人物扱いされて、不愉快そうに男性が答える。
「俺が使ってる部屋に置いとくし、俺が一応監視しておくから。茜には近づかせないようにしておく」
「いや、だからさ、何もしないってば」
 面倒臭いなぁお前は本当、と男性がぼやく。
「それはまあ、別に、構わないけれども」
 今日一緒に眠れないのは、少し寂しいけれども。
「隆二が連れて来た人ならば、何か問題が起きるとも思えないし」
 本当に、この人の事が信用出来ないのならば、先程の土手で彼を捨て置いた筈だ。隆二ならきっと、そうする。それをしなかったということは、口では色々言いながらも、少なくとも、ある程度は信用している、という事だろう。
「有難う」
「あー、なるほど、判った」
 軽く微笑んで頷いた隆二を見て、男性が少し、高い声を出した。
「俺が何かをするっていうのが心配なんじゃなくて、茜ちゃんが心配なわけね。相手が誰であろうと。心配だから俺を見張ってるとか言い出したんだ」
 なるほどねー等と、先程までの態度からは考えられないぐらい明るく言う男性を、隆二はうんざりしたように見た。
「俺はお前の、そういうところが本当、嫌いだよ」
「それはどうも」
 皮肉っぽく、男性が唇を持ち上げた。
 二人のやりとりに、少なからず驚く。隆二がこんな風に誰かにからかわれることも、あるのね。なんだか少し、面白い。
「……何?」
 顔に出ていたらしい。隆二がこちらを見て、小さく問いかけて来た。
「いいえ、何も?」
 慌てて表情を取り繕って答えた。隆二は、小さく溜息のようなものを吐いた。
「まあ、そういう訳だから」
「あ、うん、判った」
「悪いな」
「いいえ」
「もう遅いから、ちゃんと寝ろよ」
「うん」
 隆二は小さく微笑むと、一度私の頭を軽く撫でた。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
 そのまま、隆二の部屋に向かう二人を見送る。男性はなんだかへらへらしていた。最初の拒絶するような印象とは違う人だ。
「あ、待って」
 慌てて呼び止める。
「どうした?」
「あの、お名前だけ、御伺いしてもいいですか?」
 私はまだ、男性の名前を知らない。直ぐに此処から出て行くのかもしれないが、一晩、家に居る人の名前を知らない訳にもいくまい。
「え、何、俺の?」
 男性が驚いたように、自分の顔を指差す。
「他に誰が居るんだよ」
 つまらなさそうに隆二が呟いた。
「ええ。ご迷惑で無ければ。私は」
「茜ちゃんでしょ?」
 名乗ろうとしたのを遮られる。嗚呼、そう言えば、この人はさっき、私の事を名前で呼んだ。
「隆二に聞いたよ」
 男性は、そこで漸く、緩やかな笑みを見せた。
「俺は、神野京介。隆二の同族。出来るだけ早く出て行くから、今日は御免ね」

 結局、しっかりとは眠れなかった。考える事が色々あったから。隆二の同族に出会う事があるなんて、考えても見なかった。
 いつもの時間に起きると、小さく欠伸する。
 寝起きに使っている部屋を出て、隆二の部屋の方を見ると、隆二が襖に寄りかかるようにして座っていた。
「隆二?」
 近づきながら声をかけると、隆二はゆっくりとこちらを見た。
「お早う」
「お早う。ねえ、もしかして、一晩中そこに居たの?」
「ん、まあ。幾ら何でも怪我人をただ転がして置くのも気が引けたし、だからって一晩彼奴と同じ部屋に居るのも嫌だったし」
 別に大丈夫だよ、と続ける。
「でも、寝てないんじゃ?」
「ぼーっとしてた」
 それ、何かの答えになっているの?
「平気だって、本当に」
「……ならいいけど」
 確かに、隆二ならば一日二日休まなかったところで問題はないのだろう。そうは思っても、心配にはなる。
「朝御飯、作るけど」
「あー、いいよ、俺等の分は別に」
「食べるよね、って念を押しに来たんだけど。なんで、そういうこと言うの?」
 軽く頬をふくらませて言うと、隆二は呆れたように微笑んだ。
「悪かった、御免。作ってください」
「うん」
 などと話していると、隆二の後ろの襖が開いた。
「わっ」
 寄りかかっていた物が急に無くなり、隆二の体勢が僅かに崩れる。
「お前、開ける時は声かけろよな」
 隆二が舌打ちする。
「部屋の前で、いちゃつかないでくれる?」
 神野さんが、不愉快そうに目を細めて、立っていた。
「話してただけだろうが」
「どこがだ」
「っていうか、泊めてもらった分際で偉そうだな」
「お前だって居候だろうが」
「あ、あの、お早う御座います」
 なんだか無意味に睨み合う二人に慌てて声をかけると、
「お早う、茜ちゃん」
 失礼ながら、胡散臭いぐらいの良い笑顔で応えてくれた。
「お怪我は?」
「平気平気」
「じゃあ、もう出てけよお前は」
「言われなくても。でも、折角、茜ちゃんが作ってくれるって言うんだから、朝御飯は御馳走になりたいかなー」
「……それが、御馳走になる人間の態度かよ」
「残念、ひとじゃないんだ」
 ぽんぽん軽く交わされる会話に吃驚する。ひとじゃないとか、私では決して触れられないぐらい、繊細な事を、あの人はあっさりと口にする。それに、私と話している時よりも、隆二の口数の多い。なんだか嫉妬してしまう。
 当たり前なのだけれども。私と、神野さんに見せる顔が、同じな訳、無いのだけれども。
「それじゃあ、御飯、作ってきますね」
 そんな愚かな気持ちを押し隠して、小さく微笑むと、台所に向かった。

 神野さんは、最初の印象と違い、よく喋る人だった。最初の隆二と同じように、もっと人を拒否するかと思ったのに。
 いや、違う。隆二は露骨に無愛想にする事で人を拒絶していたけれども、神野さんは必要以上に喋り、戯ける事で、人との距離をとろうとしているのだ。
 胡散臭いぐらいの笑顔を仮面に被って。
 そう思ったのは、私だけでは無かったようだ。
「その気味悪い笑顔をやめたらどうだ」
 神野さんの傷を確認しながら、先生が淡々と言った。
 朝食を摂り、出て行く前に一度先生に挨拶して行くという、意外に律儀な神野さんに付き合い、三人で先生の所に来ていた。神野さんに付き合い、と言ったが、どちらにしろ私の定期診察だってある。
「気味悪いって、やだなぁー、センセ」
「嘘の笑顔を四六時中向けられているなんて、気味が悪いだろうが」
「嘘って」
「それが本物の笑顔に見えると思っているのだとしたら、だいぶ青いな」
 淡々と先生に指摘され、神野さんは笑顔を引っ込めると、片手で口元を覆った。
「……嘘っぽい?」
 部屋の隅の椅子に座って、二人を見ていた私に尋ねてくる。
 最近の隆二は、診察の時は、外で待っている。少し前までは、問診の時ぐらいまでは近くに居たのに。それはきっと、日に日に悪くなっていく、私の心臓の様子を少しでも聞くのが嫌なのだろうな、と思っている。聞かなければ、無かった事に出来るから。
 だから、今この部屋には、私と、先生と、神野さんしか居ない。だから私は、隆二に対する気兼ねなく、答えることが出来た。
「胡散臭いですね」
「……はっきり言うねぇ」
 苦笑する。
「それは、仮面ですね」
「防御とも言えるね」
 先生が、次から次へと、神野さんの包帯を外していく。本当に、ほぼ治ったらしい。
「愛想しておいた方が、周りの人間に与える影響、いいだろ?」
「でも、神野さんのは胡散臭いです」
「……うーん、それは、今後気をつけていくかな」
 よほど心外だったのか、胡散臭いかなー? と何度も呟いている。
「隆二に比べれば、とっつきやすいのは確かだがな」
 慰めるように先生が口にした。それはまあ、そうだが。
「だって、彼奴は、冷た過ぎだろ、判りやすいぐらい」
 へらへらと神野さんが笑った。
「ねー、茜ちゃんさ」
 体を捻ってこちらを見てくる。動くな、と先生に叱られていても気にせず、
「彼奴が怖くないの?」
 へらへら笑ったまま、真剣な口調で問いかけてきた。
 それに、先生の腕が止まる。先生が、困ったように私を見ているのが判った。
 怖くないか?
 何を当たり前の事を……。
 真っすぐに見つめてくる、神野さんの真剣な目を見つめ返し、微笑んだ。
「怖いですよ」
 此処には彼がいないから、私は躊躇うことなく本音を口にした。
「私はあの人がとても怖い」
「だったら、なんで」
 何かを言いかけた神野さんを遮るように、言葉を重ねる。
「だって、きっとあの人はもうすぐ、此処から居なくなってしまう。私を置いて。倖せを与えるだけ与えて、居なくなるんです。私は、それが、怖い」
 神野さんは、訝しげに顔を顰めた。
「居なくなる?」
「居なくなりますよ、あの人は、きっと、もうすぐ」
 それは神野さんが来た事で、また近くなっただろう。そうも思っていた。神野さんが来た事で、私は改めて、私と隆二が違う生き物だということを思い知らされた。隆二もきっと、そうだろう。
 私達の生活を支えている、砂の土台を神野さんは抉ったのだ。それは少しでも、いずれ重みで崩れる筈だ。
「私は、ずっとあの人と一緒に居てあげることが出来ないから。あの人は、優しくて、臆病だから、私を看取る勇気が持てずに、私が死ぬ前に、此処から出て行く筈です」
「……あー、ありそうだな」
 神野さんが苦い顔をして言った。
 先生は、聞こえないフリをするかのように、唐突に器具の片付けをはじめた。
「だから私は、怖いと思っています。でもそれ以上に、私は、あの人を置いて逝ってしまう自分が嫌いです」
 無理な相談だとは判っていても、私もあの人と一緒に、永遠を過ごしたかった。ずっと、一緒に居たかった。あの人を独りなんて、させたくなかった。
「……彼奴のこと、本当に好きなんだな」
 辛そうに吐き出された言葉に、私は微笑んで見せる。
「ええ、とても」
 痛みを伴う思いでも、私はあの人を愛している。それはとても倖せな事だから、私は笑う。
「……正直、俺には彼奴が何を考えているのかが理解出来ない。人間と一緒に居る事を選ぶなんて」
 神野さんは私から視線を逸らし、床に落とす様に言葉を紡ぎ出していく。
「俺達はもう、人間じゃない。人間になんてなれない。人間と暮らす事なんて、出来る筈が無い。茜ちゃんはどんどん歳をとって、死んでしまうのに、俺達はそれについていけない。お互いに傷つく事が判っているのに、なんでこんな選択をしたのかが理解出来ない。彼奴、そこまで莫迦だとは思えないのに」
 長々と吐き出された言葉が、床の辺りで渦巻いている。神野さんの言った事は事実だ。そんなこと、
「私達だって、判っていますよ」
 無理をしているということ。頭ではきちんと理解している。
「だったらなんで」
「好きだからです」
 私の言葉に、神野さんが顔をあげた。
「愛は理屈を超える物ですよ」
 理屈では判っていても、理解していても、心がそのとおりに動くとは限らないのだから。
 神野さんは驚いたように、私を見ていたが、やがて、
「……恥ずかしいこと言うねぇ」
 揶揄するように言われたが、反して、神野さんの顔は柔らかく微笑んでいた。
「神野さんにも、いつか見つかるといいですね。大切な何かが」
 祈っています、と続けると、
「……そりゃまた、凄まじい呪いだな」
 苦笑された。
 確かに、痛みを伴う物だと判っていながら、この感情を勧めるのは呪いに近いのかもしれない。でも、それでもやはり、幸福には違いないのだから。
 話の終わりを感じとったのか、先生が片付けの手を止めた。
「お前さんの怪我はもう大丈夫だ」
「あ、有難う御座います」
 神野さんは、また胡散臭い笑顔を浮かべて、頭を下げた。
「だからその笑顔はやめろと」
「そうそう染み付いた習慣は変わらないって。まあ、今後、善処します」
 どこか投げやりな言葉に、先生が苦笑した。
「まあ、いいけどな。気をつけろよ」
「はい」
「じゃあ、次は茜の診察だから、出て行け」
 ほらほらと、犬でも追い払うかのように片手をふる。
 神野さんは立ち上がると、私の方を見て、
「茜ちゃん、どっか、悪いの?」
「心臓が。生まれつき」
 包み隠さず答えると、神野さんは僅かに顔を顰めた。
「それ、隆二は?」
「勿論、知っています」
 立ち上がりながら、答える。
「知った時、あの人は出て行かなかった。出て行かれる覚悟、私にはあったのに、彼はそうしなかった。何故か判りますか?」
 戯けて尋ねると、
「愛、って言いたいんでしょう?」
 苦笑された。
「ええ」
 私は笑って頷いた。
「まあ、なんでもいいけど。せいぜい気をつけて」
 それじゃあね、と軽く片手をふって部屋を出て行く神野さんを呼び止めた。
「何?」
「こんなこと、私が言う事じゃないのかもしれませんが。……私が死んだら、あの人のこと宜しくお願いします」
 頭を下げる。
 沈黙。
「……言われなくても」
 吐き捨てる様に神野さんが言った。彼がどんな顔をしたのか、私には判らなかった。彼が部屋を出て行くまで、顔を上げなかったから。でも、それでいいのだ。このお願いは、図々しいお願いだから。ただ、自分が安心する為だけに、言っておきたかった図々しいお願いだから。
 診察を終えて出て行くと、隆二がいつものようにつまらなさそうに、壁にもたれかかり、待っていた。
「お待たせ」
「あー、うん」
「神野さんは?」
「もう行ったよ」
「あら、早い」
「んー」
 別れ際、一悶着あったのか、隆二の答えは歯切れが悪い。機嫌もあまり良くない。きっと、隆二も何か言われたのだろう。
 神野さんの事、怖いとも迷惑だとも思っていないけれども、来なければ良かったのに、とは思っている。彼は、私と隆二に、二人の違いを見せつけて去って行った。隆二が居なくなる日は、彼のせいで確実に近くなった。
 でも、今は、
「帰りましょ」
 隆二の腕をとり、歩き出す。
 意識して出したはしゃいだ声に、隆二は察してくれたらしい。
「ああ」
 一度軽く、私の手の甲を撫でた。