あの日以来、貴方との生活は少しだけ様子を変えた。
 貴方は以前よりも笑うようになって、優しくなって、それから出て行くつもりがなくなったことも判った。
 貴方が笑って、優しい言葉をかけてくれて、私に触れて、そういった日々が嬉しかった。
 貴方と二人、色々な話をした。私の話をここまで聞いてくれる人は初めてだったから、嬉しかった。勿論、先生は私の話に耳を貸してくださったけれども、先生はお忙しくて私だけに構っているわけにはいかない。
 貴方は、私だけを見ていてくれた。
 それが、どんなに嬉しかったことか。
「葵は、知らないわ。私がいること。自分の予備がいること」
 それに、一条の話は先生相手には出来なかった。先生は、基本的には私の味方で、優しくしてくださるけれども、それでもやはり、一条の息のかかった存在だから。
「自分が双子だったことも、きっと、知らない」
「……会った事は?」
「一度、遠くから、少しだけ、一方的に」
 どうしても見てみたくて。私の本物を見てみたくて、こっそりと見に行ったことがある。
「私と同じ顔をした人間が、上質の着物を着て、沢山の人を従えているのを見るのは、愉快ではなかったわ」
 だから、それ以来、一条に近づいたことはない。
 私がそこに居たのかもしれない。生まれる順番が違ったら。そう、思ってしまう自分が厭で、近づいていない。
「葵は葵で、きっと色々あるのでしょうけれども」
 そこにまで思いを馳せられる程、私は大人ではなかった。
 貴方は少し困った顔をして、それからそっと右手で私の頭を撫でた。くすぐったくって、少し笑う。
「俺にはよく判らないんだが、普通、茜の立場のような人間は、一人で生活はしないんじゃないのか?」
「見張りと教育係を兼ねた世話役が居たこともあったのだけれども、私が十になるころに、男と逃げ出して、それっきり」
 あの人の事は、それなりに好きだった。私より十ほど年上の、あの女性。偶に癇癪を起こして怒鳴る事もあったけれども、それ以外はとても優しい人だった。
 私にとって、家族のような人だった。
 でも、好いた妻子持ちの男と添い遂げる為に、逃げ出した。私を置いて。
 私は彼女が居なくなった事を、しばらく一条に報告しなかった。彼女が生活の仕方を教えてくれていたから、一人でも困らなかったのもある。
「彼女が居なくなった事、なんで黙っていたのか、自分でもよく判らないの」
 彼女が逃げ切れるように、と思った気持ちもある。でも多分、一人になったことを認めたくなかった気持ちもあったと思う。
 彼女が逃げた事を知って、一条は私を叱った。あれはなかなか不愉快だった。
「それでも私、間違った事をしたとは、今でも思ってない」
 彼女が何処かで幸せにしていればいいな、とは思っている。
「その後、新しい人が来る事になったんだけれども、私が一人で大丈夫だと言ったの。一人で十分生活出来るって。それ以来、あの死神が様子を見に来るぐらい。私が大人しくしているから、様子を見に来る回数はかなり減ったわね。村のお偉いさん達は、私の事を知っているから、何かあったらすぐに報告が行くでしょうしね」
「……十の時からずっと一人?」
 隆二がなんだか痛ましげに呟く。
「そんな顔をして」
 頬に手を伸ばす。
「貴方が、十の時はどうだったの?」
 言うと、隆二はかすかに苦笑いのような物を浮かべ、
「大差ないか」
 小さく呟いた。
 隆二は、あまり自分の話をしなかった。したくないのならば、それで構わなかった。
 過去のことよりも、今があれば。
「今は、隆二が居てくれるから」
 呟く私を、優しく貴方の手が抱き寄せる。
 日々は穏やかで、優しかった。

 あの頃の貴方はよく、逃げようと言った。
 此処から逃げよう、と。
 好きだとか愛しているとか言わなかった貴方にとって、あれは精一杯の、一番素敵な愛の言葉だったのだと思う。
 実際に、とても素敵な提案だと思った。本当よ。
 私はいつも、煮え切らない返事をしていたけれども、いつも本当にそれは素敵なことだと思っていたの。想像していた。
 貴方となら、きっと、一条から逃げ切ることができる。貴方なら、きっと、私を違う場所に連れて行ってくれる。
 そこで、二人で暮らすのは、とても幸せだと思ったの。
 安全で、安心で、平和で。
 だけど、私はそれに頷けなかった。頷けるわけがなかった。
 だって、私は、一条を裏切れないから。
 本当は、生まれたその時に私は殺されるはずだったから。それが、双子の運命だから。
 それを、葵の予備として生かしてくれていた一条に、私は感謝していたの。貴方は、きっと、理解できないと言うでしょうけれども。
 だって、そうじゃないと、隆二。生きていないと、貴方に会えなかったじゃない。
 きっと貴方は、理解してくれないだろうけれども。
 私の唯一の我が侭と反抗は、貴方とこうして居る事だから。それよりも先は、私には望めなかった。
 素直に応じない私の態度に不満そうな顔をする貴方にそっと抱きつく。
 貴方が此処に居てくれれば、私はそれだけで十分で、それ以上望めなかった。
 貴方との生活は、それぐらい幸せだったのだ。私の人生の中で、一番いい時期だったと、胸をはって言える。
 だから私は、自分の事を一つ、黙っている事にした。どこまでも狡い私は、これを知ったら貴方が居なくなる可能性が高い事を理解した上で、秘匿した。
 私の心臓が欠陥品である事を。
 すぐに気づかれるかと思ったけれども、貴方は何も言わないから、私は隠し続けた。
 主治医の先生。一条は代々体が弱い。これらを知っていた上で、賢い貴方が本当に気がつかなかったとは思えない。貴方もきっと心の何処かで考えるのをやめていたんじゃないかしら。
 私と同じように。
 考えなければ、無かった事に出来るのだ。一時的に。

 秘密を抱えている以外には、極めて平和で、そして幸せな毎日だった。
 ある日、部屋で裁縫をしていた時、ふっと心臓に違和感を覚えた。いつもと同じ、違和感。
 嗚呼、またか。
 厭な気持ちを抱えながら、そっと針を置くと、畳にそのまま寝転がった。
 隆二が近くに居なくて良かった。そう感謝しながら。
 幾ら駄目な心臓でも、自分の物の事だから判っている。こうやって少し大人しくしていれば、これぐらいならば大丈夫だろう。
 軽く瞳を閉じる。
 しばらくそうしていると、
「……茜?」
 そっと声がかけられた。同時に床が軋む。
「寝てるのか?」
 隆二が近づいて来たのを感じながら、私は目を開ける事は無かった。隆二には悪いけれども、このまま寝たフリをすることに決めたのだ。下手に動いて発作を起こしてしまうよりもそちらの方がずっといい。
「……風邪ひくだろうに」
 呆れたような小さな声がして、すぐにまた足音が遠ざかる。何処に行くのだろう、と思っていると、すぐに戻って来た。
 ふわり、と何かが体にかけられたのが判った。布団、持って来てくれたのか。
 優しさに心打たれていると、そのまま隆二は隣に座った。
 冷たい手がそっと、優しく私の頭を撫でる。とくんっと、こんな時に私の心臓が一つ跳ねた。違う意味で。
 貴方が今、どんな顔をしているのか、見たくてしょうがなかった。確認したかった。貴方がきっと、とても優しくて、素敵な顔をしていることが判ったから。
 同時に、私が目を開けたら、すぐに貴方はその表情を消してしまう事も判っていた。
 だから私は必死に瞳を閉じていた。
 貴方の手を感じながら。
 こんなにも優しさと愛情を向けてくれる人が、傍に居てくれることの有り難みを噛み締めながら。
 そのまま、寝たフリは、いつしか本物になってしまったらしい。軽い睡眠から目覚めた私の目に、最初に飛び込んで来たのは、誰かの頭だった。
 誰のか、なんて考えるまでもない。
 眠っている私の、ずっと傍に居てくれたのだろう。そして、そのまま自身も眠ってしまったらしい。隣に寝ている隆二の寝顔をそっと見つめる。
 身じろぎしたら貴方は起きてしまいそうで、息を潜めて、そっと。
 出逢った時は、手負いの獣のようだった貴方が、こうして無防備な寝顔を見せるようになったことが、とても嬉しい。
 愛している人が傍に居てくれることが、とても嬉しい。
 そんなこと、私の人生には望めないと思っていたから。
 嗚呼、幸せだ。
 小さく微笑んだ。

 そんな幸せが、ずっと続くとは思っていなかった。きっと、隆二だってそうだったろう。
 その日が来るまで、私はそのことを考えないようにして生きてきた。
 運命の日は、なんでもない一日に紛れていた。
 その日も、いつもと同じ様に始まった。隆二と二人、散歩に出かけて、土手で子供達に声をかけられた。
「りゅーじにーちゃん、あーそーぼー」
「太郎達か」
 最初、隆二が助けたその少年は、今ではすっかり隆二に懐いていた。私はそれを微笑ましく見ていた。
「やだよ」
「ええっ、ケチー」
「一寸ぐらい、いいじゃない」
 冷たく返事する貴方と、膨れる子供達と、呆れた様に宥める私。ここまでは、いつもと同じ、お決まりの会話だった。
「仕方ないなー、一寸だけだぞ」
 そんなことを言いながら、缶蹴りに参加する隆二が、気づいたら誰よりも熱中しているのもいつもの事。普段、斜に構えている貴方の、そういう子供っぽいところを見るのが、私は大好きだった。
 いつものように少し離れた場所でそれを見ていたけれども、
「っ」
 心臓に違和感を覚えて、小さな呻き声が漏れた。
 これは、違う。
 いつものとは、違う。
 思った時には、震える手で、持ち歩いてた薬箱から薬を取り出し、強引に飲み込んだ。
 嗚呼、でも、駄目だ。
 一際不自然に心臓が跳ねて、耐えられなくなって倒れ込む。
 嗚呼、遂に来てしまった。
「っ、茜!」
 慌てて駆け寄ってくる貴方の存在を感じながら、そう思った。
「どうした?」
「発作だ」
 と、どの子供かが言った。
 嗚呼、遂に来てしまった。私の秘密が、貴方に伝わってしまう日が。
「発作?」
「茜ねーちゃん、心臓弱いって先生が」
「薬は? 持ってないの?」
「飲んだ、から、へいき」
 微笑んでみせようとしたけれども、掠れた声しか出なかった。
 私を支えてくれている貴方が、ぐっと一度、唇を噛み締めたのが見えた。
 嗚呼、貴方はきっと自分を責めている。何故気がつかなかったのかと。でもそれは、私が黙っていたからだから。だから、気にしないで。
 本当はそう言いたかった。
「少し、我慢しろ」
 隆二の冷たい手がそっと私の頬を撫でると、そのまま私を抱えて彼は立ち上がった。
「りゅーじにーちゃん」
「先生んとこ」
 そんな声が聞こえて、次に貴方は走り出していた。
 頬に受ける風に、貴方が本気で走っていることが判った。普段、目立つ事を気にして、化物だと知られないようにと気をつけている貴方が、そんなこと関係無しに走っている事が判った。
 申し訳ないな、と思う。
 私の秘密のせいで、貴方をそんなにも追い詰めてしまった事。
 でも、かすむ視界に映る貴方の顔が、いつになく真剣で、必死で。不謹慎だけれども、私はそれに少し嬉しいと思ってしまった。貴方が思っていてくれるのだと思って。
 そんなことを思いながら、意識は一度、落ちた。

 次に目が覚めた時、視界に映ったのは、私をじっと見ている貴方の顔だった。
「……隆二?」
 そっと呼んでみると、
「ああ、お早う」
 貴方はそう、言葉を返して来た。
 きっと、淡々とした挨拶を意識したのだと、思う。大方、先生にいつもと同じようにしてくれと、言われたのだろう。
 嗚呼、貴方は嘘が下手ね。
「……うん」
 そんなことを思いながら頷く。
「先生のとこ。今日はもう遅いから泊まっていけって」
 明らかにいつもとは違う、いつもどおりを意識した貴方がそう言う。
「隆二が連れて来てくれたのよね? ありがとう」
 だから私は、微笑んだ。
 黙っていたのは私だ。断罪されるべきは私だ。貴方が、そんなに苦労して嘘をつく必要は無い。思った事を、言ってくれればいいのだ。
「吃驚したよね。御免ね」
 揺れる視線を捉えて微笑むと、貴方の顔が、瞬間、くしゃりと歪んだ。泣きそうに。
「茜」
 寝台の横に跪き、私の右手を握る。貴方の冷たい手。祈るように、貴方はその手を額につけた。
「隆二」
「置いていかないでくれ」
 吐き出されたのは、少し意外な言葉だった。
 私の手に縋り付くようにして、貴方が言葉を続ける。必死に。
「頼むから。もうこれ以上、一人にしないでくれ」
 黙っていた事を責められる覚悟は出来ていた。でも、この展開は考えていなかった。私は、愚かだ。
 嗚呼、置いていかれる事が寂しい事、一人になる事が寂しい事、私だって判っていたじゃない。世話役のあの人が、居なくなったあの気持ち。
「茜が居ないと、無理だ」
 隆二の声が震えている。
 そして、隆二が言う「置いていく」は、生死が絡む話だ。永遠の、別れだ。
 この人はきっと、沢山寂しい思いをしてきたのに。考えれば判る事なのに。
「……うん、心配させて、御免ね」
 握られたのとは、反対側の手を伸ばして、そっと隆二の頭を撫でる。
 黙っていて、御免なさい。
 不安にさせて、御免なさい。
「御免ね隆二、有難う」
 私の事、愛してくれて有難う。
 ずっと、一緒に居てあげられなくて、御免なさい。
「違う、草太」
 貴方は急に、聞き覚えの無い名前を言った。
「え?」
「俺の名前、人間の時の。草太っていうんだ」
 その言葉を発する時、貴方は少し痛そうな顔をした。それでも、はっきりと私に言った。
「茜にだけは、覚えていて欲しい」
 握られた手を、そっと握り返す。
 嗚呼、確かに貴方は人間じゃないかもしれない。永遠を生きるという貴方は、人間じゃないかもしれない。
 それでも、貴方は、私の愛したひとだ。
「ん。草太」
 愛したひとの名前を、どうして忘れよう。
 名前を呼ぶと、隆二は泣きそうな顔をした。
 そのまま、また少し、握った手に力がこもる。
「一緒に居てくれ」
「一緒に居るよ」
 此処に居るよ、と付けたした。
 いつか、貴方が離れたくなるまでは、意地でも此処に居るよ。

 永遠を生きるという貴方が、いつまでも私と一緒に居てくれる訳が無い。そんなことは、とうの昔に理解していた。
 でも、この時、改めてそれを認識した。
 貴方はきっと、いつか、私と一緒に居る事が厭になる日が来る。
 私がどんなに頑張っても、私は私の老いを止められない。私の時間を止められない。
 貴方はきっと居なくなる。過ぎた時間を突きつけられて、優しくて少し弱い貴方は、きっと私と一緒に居る事が耐えられなくなる日が来る。
 でも、それまでは、貴方の傍に居よう。この欠陥品の心臓を、無理にでも動かして、貴方の傍に居よう。
 私はあの日、改めてそう決めた。
 そして、もう一つ。いつか来る別れの日の為に、覚悟を決めて行く事にした。