あの日から、隆二と二人の生活が始まった。
 本当に小さい時にお手伝いさんがいた時以外では、初めての誰かと一緒の暮らし。期待と不安が入り交じって、どうしたらいいかわからなかったの。だから、もしかしたら、少し強引だったかもしれない。強引に、隆二を私の生活に組み込んでいった。
 いつも同じ時間に起こして、食事を摂り、掃除を手伝ってもらって、散歩についてきてもらって、野良猫に餌をやり、週に何度か先生の処に顔を出す。これの繰り返し。
 貴方は、特に抵抗することもなく、私に合わせてくれた。それに、私は本当に感謝していたの。有難う。
 嗚呼、でも一度だけ。隆二に訊かれたことがある。
「毎日毎日同じ事の繰り返して飽きない?」
 そんなことを、言われた。
 散歩中、隆二と初めて出会ったあの土手で。
 私は、何故貴方がそんなことを訊くのかが判らなかった。
「どうして? 同じ日なんて一度もないじゃない」
 出かけた先で見る物も、貴方が言うことも、何もかもが違っていたのに、どうして同じだなんて思っていたのか。本当に不思議だったの。
「……あー、そう」
 隆二はそう言うと、頭を掻いた。
 それっきり、その話は終わりになったけれども、後から思ったの。家に帰って、寝る前にふっと。
 長く生きている貴方にとっては、毎日の小さな変化なんて、本当に些細なもので、変化のうちには入らなかったのかもしれない、って。
 嗚呼、それなら、大きな変化として受け取ってもらおう。毎日を楽しいと思ってもらおう。私と居る間ぐらいは、楽しいと思ってもらおう。そう、思ったの。
 貴方の事が、本格的に気になりだしたのは、きっとこの頃。風変わりな同居人から、少し気になる人になったのは、きっとこの頃。
 だけど、あの頃は、ここまでにしておこうと思っていた。私は未だ貴方に隠し事をしていたし、そもそも貴方は本来一カ所に留まるべきひとではなかった。自身を化物という貴方は、きっとずっと此処には居ないだろう。漠然とだけど、私は感じていた。
 だから、ほんの少し親しみが増した程度にしておこうと思っていた。
 きっと短い間だけれども、その間ぐらいは隆二には此処での生活を楽しんでもらおう。そうして、一条茜という人間が居たことを覚えていてもらおう。打算も込めて、そう思っていたの。
 だけれども、貴方はなかなか出て行かなかった。本当は、すぐに、長くても数ヶ月で居なくなると思っていたのに。
「……明日は太郎と遊ぶ約束をしたんだ」
 夕飯を食べながら、初めて貴方がそう言った時、私はとても驚いた。
「太郎君と?」
「ああ」
 あの日、貴方に初めて会った日、貴方が助けた男の子。あの後、改めて顔を合わせた後、貴方があの子に懐かれていたのは知っていた。散歩の時会うと、会話していたことも。
 にしても、これは予想外だった。だって、いつも我関せずと飄々としている貴方が、あの小さな男の子と遊ぶ約束をしているなんて。
「……そう」
 なんだか胸が温かくなって、唇が綻ぶ。貴方が誰かと関わってくれたことが、なんだかとっても嬉しかった。
「楽しみね」
「ん」
 その日以来、貴方は度々あの子達と遊ぶ約束をしてきた。だから、少し安心していたの。
 貴方は感情を表に出さないし、冷たいように思われるけれども、それでも小さな男の子との約束を破ったりするようなひとじゃないっていう事、この数ヶ月で判っていたから。貴方は、自分が思っている程、ひとでなしではないのよ?
 だから、きっと、もう少し、このままの暮らしを続けていけるのだろう、と。
 今から思うと、あれは甘えだったのだろう。こんな日々がずっと続く訳がないと知りながら、甘えていたのだろう。本当は、私は判っていたのだ。いつか、あんな日が来るということが。
 もしも、意識していたら。私の方から動いていたら。ねぇ、何かが、変わっていた?
 この生活を変えたのは、二人の死神の存在だった。

 いつもどおりの散歩道、あの土手に現れたのが一人目の死神。
 隆二、貴方の、死神だった。
 赤い着物、長い黒い髪を束ねることなく、風になびかせている女性。見ない顔だな、と思った。見かけない顔だな、と。
 私はただそれぐらいしか思わなかったけれども、隆二、貴方は違った。
 その人の姿が見えた瞬間、隆二は足を止めた。
 気づかず数歩進んでしまった私は、立ち止まると振り返った。
「どうしたの?」
 隆二の顔は酷く真っ青で、いつも表情が読めないのに、なんだか泣きそうな顔をしているように見えた。
 今から思うと、あれは怯えていたのね。
「隆二? ねぇ、本当にどうしたの? 真っ青だけど」
 近づこうとすると、それに合わせるかのように二、三歩後ずさった。逃げるかのように。
「……隆二?」
 何かしてしまったのだろうか。不安にかられる私に、
「違う、そうじゃなくて」
 隆二は真っ青な顔のまま、首を左右にふって否定の意を表した。でも、そのまま流れるような早口で、
「だけど御免」
 それだけ言うと、振り返り、逃げるかのように足を動かした。
「隆二っ」
 思わず慌てて私が名前を呼ぶのと、
「U078」
 遠くから、だけどはっきりと声が聞こえたのはほぼ同時だった。
 走りかけた隆二の足が、その声に縛り付けられるようにぴたりと止まったのが判った。
「逃げても無駄ですよ」
 冷たい声。それは、あの女性のものだった。
「……ゆうぜろななはち?」
 初めて聞く言葉を思わず復唱する。淡々と、冷たい声で話すその人の言葉は、まるで呪文のようだった。
「U078?」
 窘めるような声色でその人がもう一度言うと、隆二がゆっくりと振り返った。
 顔色はより一層悪くなっていて、泣き出す手前のような顔をしていた。迷子の子供みたいな。
「御機嫌よう。御無沙汰ですね。随分と楽しそうな暮らしをしていらっしゃるようで」
 その人は淡々と、顔色一つ変えずそう言葉を続けた。
 私は、その人と隆二の顔を見比べると、少し隆二に近づいた。詳しいことはわからないけれども、その人が隆二にとって味方で無いことだけは判ったから。
 悪い夢を見た、独りぼっちの子供みたいな顔をしている隆二の右手をとる。なんだか判らないけれども、私は此処に居るから。それだけは伝えたくて。隆二は縋り付くかのように手を握り返してきた。
「勘違いしないでください。貴方を連れ戻しにきたわけじゃありません」
「え?」
 その人は淡々と言葉を放ち、隆二が驚いたような声をあげた。それは隆二にとっては吉報だったのだろう。少し、安心したような顔をする隆二に、
「私達はもう貴方達を兵器としては必要とはしていません。そこで選んでいただきたい。此処で、証拠隠滅の為に大人しく消え去るか、又は必要に応じて我々の力になるかを」
 その人は冷たく告げた。
 その人が、何の話をしているのかは判らなかった。だけど、
「……必要と、していない」
 小さく隆二が呟いたのを見て、良くない事なのだと思った。
「……消滅か、隷属か」
 隆二の掠れた声。
「……もう、疲れた」
 意味は判らない。何の話をしているのか判らない。
 それでも、今貴方を引き止めなければいけない、それだけは判った。
 今引き止めないと、貴方は此処から居なくなってしまう。いいえ、この世界から、居なくなってしまう。
 そんなの、絶対に、駄目!
「俺は、もう……」
「隆二っ」
 魂の抜けたような顔で何か呟く貴方の手を強く引くと、名前を呼んだ。自分でも、こんな大声が出るのかと、少し驚いた。
 はっと我に返ったかのように、貴方が私の顔を見た。揺れていた瞳が私を捉えたから、それに少し安心する。
 居なくなるなんて、そんなの駄目。この世界から消えてしまうなんて、そんなの、絶対駄目。
「ゆうぜろななはち? そんなもの知らない。貴方は、神山隆二よ」
 私には言っている意味が判らない。
 だけれども、私にも判っていることがある。
 貴方が神山隆二であること。
「……俺は、化物だ」
「だから何? もうそんなこと、今更気にしない。貴方が優しい人だってこと、知っている」
 子供を庇って怪我をして、私の生活に付き合ってくれて、小さな太郎君と遊ぶ約束をして、いつも傍に居てくれる。貴方が優しい人だっていう事、知っている。
 かたかたと、小刻みに自分の手が震えているのが判る。
 自身を化物という隆二が、こんなに怯える相手のことが怖い。貴方が消えてしまうことが怖い。怖いけれども、恐ろしいけれども、この手を離してはいけない。
 手を握ったまま、しばらく隆二と瞳を合わせていたが、
「……判った」
 吐息と共に隆二が言葉を吐き出した。ゆっくりとその人の方を向くと、
「あんたらの言うことを聞く。だから、此処に居させてくれ」
 どこか頼りない声で、それでもしっかりと答えた。
 嗚呼、良かった。貴方が消える未来は回避出来た。
「そうですか。では、何かあったらまた来ます。逃げても無駄ですから」
 その人は、淡々とそれだけ言い、すぐにその姿を消した。最後まで、表情を変えることなく。
「……いっ」
 その人の姿がしっかり見えなくなって、緊張の糸が切れた。悲鳴のような声が口から漏れ、足から力が抜けて座り込んでしまう。そんな私を、慌てたように隆二が支えてくれた。
「いまのは?」
「……死神だよ」
 そう答えてくれた隆二の顔色もまだ悪かった。二人とも力が抜けて、そのまま土手の草むらに腰をおろす。
 握った手は離さない。まだ、どこか怖かったから。貴方が生を手放そうとしていた事が、怖かったから。
 貴方は振り払うこともなく、そのままにしていてくれた。お互いに手を握ったままで。
 冷たい貴方の手を、しっかりと握った。
「死神?」
「俺にとっては」
「……そう。怖い人ね」
 貴方のその説明でなんとなく判った。隆二の死神。
 きっと私にとってのあの人達のようなものなのだろう、と。
「……俺さ」
「うん」
 川を見たまま隆二がぽつりと口を開く。私はその横顔を見つめた。
「元々は人間だったんだ」
「……え?」
「元々化物として生まれたわけじゃなくて。もう、どれぐらい前かな……。覚えてないけど、人間として生まれて、家に金なくて、俺体弱かったし、売られた。……それとも、俺、自分で行くって言ったんだっけな。親と俺、どっちが先に言い出したんだっけ。もう覚えてないや」
 隆二の視線は水面に向けられたまま。零れ落ちるかのような言葉を、私は黙って受け止めていた。
 いいえ、何と言っていいのか判らなかった。貴方が話し出すことが、予想外過ぎて。
「売られたのが、さっきの死神がいる変な研究施設で。戦の為の兵器を作るとか言って、色々な子ども集めてて。すぐには何もされなかったけど。だけど、そのうち実験はじめて。なにがどうなったのか判らないけど、俺は成功したんだ。成功したから、化物になった。人より優れた身体能力と、死なない体を持った化物になった」
 心臓が不自然に跳ねる。厭な感じに胸をそっと押さえた。
 嗚呼、だって。だって、それじゃあ、まるで。
「U078は、俺の実験体としての番号で。ずっと、そうやって呼ばれてた。あそこでは。殆どの実験が失敗して、成功したのは俺を入れて四人。四人で相談して、逃げた。研究所から。怖かったから。このまま兵器として扱われることが」
「……兵器は生き物ではないから?」
「え?」
 思わず零れ落ちた言葉に、隆二が驚いたようにこちらを見た。
 嗚呼、だって、隆二。それじゃあ、まるで。
「化物は生き物だけど、兵器は生き物ではないから? 兵器だったことが嫌で、ずっと隠していた?」
「……そうかもしれない。尊厳も何も無く、ただ物として扱われるのが怖かったんだな。自分が消えてしまうようで」
 それじゃあ、まるで、私みたいじゃない。
 最初から、貴方は私に似ていると思っていた。それでも、その時、より一層、強く思った。
 貴方は、私みたいじゃない。
「……さっきの人は、隆二のこと道具としてしか見てなかった」
 隆二の手を思わず強く握る。あの人は怖い。厭だ。嫌いだ。
 道具としてしか見ていない、なんて。
「そんな人には、隆二は渡さない」
 道具じゃない、物じゃない。ひとではないかもしれないけれども、神山隆二は自我のある生き物だ。
 隆二の顔を見ると、なんだか驚いたような顔をしていた。それを見て、思わず強張ってしまった顔を、慌てて少し緩ませる。ふぅと一つ息を吐いて、そっと尋ねる。
「逃げて、此処まで来たの?」
「あ、ああ」
「そう。……ならずっと此処に居ればいい」
 しっかりと隆二の瞳を捉えると、ゆっくりと慎重に言葉を発した。貴方にきちんと、届くように。
「隆二がなんだって関係ない。人間でも化物でも兵器でも、隆二は隆二だから」
 それ以外の何者でもないし、それだけで十分の筈だ。私達には。
 隆二は少し時間をかけて言葉を受け止めてから、
「……うん、ありがとう」
 思ったよりも素直に一つ頷いた。
 言葉が届いたようで安心する。
 嗚呼、貴方はまるで私みたい。そう思っても、この期に及んで、私は未だ自分の話が出来ないでいた。秘密を抱えたまま。
「帰りましょう」
 狡い私は、微笑んで立ち上がる。握ったままの手を軽く引くと、隆二も立ち上がった。
 特に会話もないまま、帰路につく。手は繋いだまま。貴方が振り払おうとしなかったこと、嬉しかった。
 言葉も無い帰り道だったけれども、あの空気は心地よかった。貴方と何か、近づけた気がした。
 秘密を抱えているくせに。
 そうやって秘密を抱えたまま、黙ったままだったのがいけないのだろう。
 あれは、罰があたったのだ。私が自分から秘密を暴露しないから、神様がお怒りになったのだ。
 貴方が離さなかった手を、私は、私から離す羽目になったのは、罰なのだ。
「茜様」
 名前を呼ばれたのは、家が見えた頃。
 たったそれだけで、心臓がすぅっと冷えた。心が、凍った。
 見られたくない、と、慌てて隆二の手を離した。私の方から。
「何処にお出かけですか?」
 淡々と問いかけてくる、黒服の老人。私の、死神。
 泣きそうになるのを堪えながら、私が口を開きかけた時、
「あ、車の……」
 隆二が小さく呟いた。
 嗚呼、そうだ、初めて貴方に会った時、貴方を轢いたのはこのひとなのだ。
 私の、身内の、このひとなのだ。
「そちらは?」
 死神が尋ねてくる。
「一条には、関係ありません」
 隆二を巻き込んではいけない。その思いだけで、必死にそう答える。このひとを見ると、いつも足が竦む。声が震える。
「茜様。仮にも一条の人間が、こんな何処の馬の骨とも判らぬ人間と一緒にいるとはどういうことですか」
 死神が酷く冷たい眼差しを隆二に向けるから、私はますます泣きそうになった。私の事は何と言ってもいいから、そのひとを巻き込まないで。
 私の想いとは裏腹に、隆二が何故だか鼻で笑った。
「何が可笑しいのです?」
 死神が咎めるように言う。
 やめて。やめて。
「何も可笑しく無い」
 隆二は何故だか、笑いながら答えた。
「俺が何処の馬の骨とも判らないのも、塵みたいなのも事実だから。それをわざわざ指摘することに、可笑しなところは何も無い」
 あまりにも隆二らしくて、あまりにもこの死神に向けるには不相応な言葉に、私の心臓は縮み上がった。
 死神にそんな口の聞き方をしないで。怖いから。貴方に危害が及んでしまう。
「隆二っ」
 思わず縋るように名前を呼ぶと、
「……すまん」
 隆二が小さく頭を下げた。
 嗚呼、お願い。せめて今のこの生活は壊さないで。覚悟は出来ているから。いざという時は、ちゃんと道具になるから。だから。
「一条に、迷惑がかかることをしたつもりは、ありません」
 手をぎゅっと握って、なんとか言葉を絞り出す。
「第一、葵がいるならば、私は要らないはずです」
「立場は判っていると、そうおっしゃるのですね?」
 立場? そんなもの、痛いぐらいよく判っている。ずっとずっと、昔から。
「……はい」
 なんとか頷くと、
「結構」
 死神は満足そうだった。
「くれぐれも、一条家の名を汚さぬように」
 駄目押しのようにそう告げると、立ち去って行く。
 嗚呼、もう、どうして。
「……なんだ、あれ」
 隆二が小さく呟くのを背中に聞きながら、体から力が抜けて座り込んだ。
 立場は判っている。覚悟は出来ている。なのに、どうして、この生活すら守らせてくれないの?
「茜っ」
 慌てて駆け寄ってくれる隆二の両手を、
「隆二っ」
 縋り付くようにして掴む。
「あれが、あれが私の死神なの。……私が黙っていた事、聞いてくれる?」
 嗚呼、もう、泣きそうだ。
 さっき、ちゃんと自分で言っておけば良かった。そしたら、こうして死神に会うことも無かったかも知れないのに。
 愚かな仮定の話を繰り広げながら、それに縋り付く。
「……ああ」
 隆二はゆっくりと頷いた。

「私には、姉が居るの」
 家に入り、落ち着くと、私はゆっくりと切り出した。
「同い年の」
 隆二は少し、考えるような表情をしてから、
「血の繋がらない? ……いや、双子か?」
「そう、双子。葵って、言うの」
 小さく頷く。
「一条は、昔から続く名家とかで、家柄をとても大事にしていて。だから、双子が生まれたなんてこと、外聞を大事にする一条にはあってはならないことだった」
「……ああ、双子は悪魔の子、とか言われる風習が?」
「そう。……流石に、知っているんだね」
 長く生きている貴方ならば、知っているかもと思っていたけれども。
 まったく同じ顔の人間が二人いること、一つの腹から一度に二人生まれること、そう言ったことから双子は忌まわしいものとされている。私達だって、例外じゃない。
「だから私は、生まれなかったことにされる筈だったの。……殺される筈だった」
 仕方ないよね、と呟くと、小さく笑った。
 私は、仕方ないことだと判っている。だから、気に病まないで、と。
「だけど、一条は代々体の弱い者が生まれることが多くて。私や葵も例外じゃなくて。だから私は、今日まで此処で、一条から離された処で、生かされている。葵に何かがあったときに、すぐに代われるように」
 私は、予備だ。
 生まれた時からずっと、一条葵の予備でしかない。
 予備である私は、道具としてしか見られていない私は、だから隆二の境遇に心惹かれた。同じなのではないか、と思ったのだ。
 だからと言って、貴方を巻き込む言い訳になんか、ならないけれども。
「……さっきの人は、一条の補佐を代々している人で、だからだいぶ失礼なことを」
「笑うな」
 先ほど巻き込んでしまった詫びを言おうとしたところ、強い口調で遮られた。
 隆二の目が真剣で、それに少し驚いた。
「どうしたの?」
「笑うな」
 もう一度貴方はそう言い、私の手を引っ張った。突然の事に蹌踉け、貴方に支えてもらった。そう思った次の瞬間には、私の頭は隆二に抱えられていた。隆二の胸元に額を押し付けるような体勢になり、
「隆二っ」
 突然のことに慌てて声をあげる。嗚呼、だってこんな、こんなに誰かに近づくことなんて、今まで無かったもの。
 隆二は私の抗議の声を無視して、
「なんで、泣きそうな顔をしてる癖に笑うんだよ。なんだかとても、腹が立つ」
 低い声でそう言った。
 その言葉に、腕から逃れようとしていた手を思わず止めてしまう。
 私、そんな顔、していた?
「向こうの都合で勝手に振り回されてるんだろ。怒ってもいいし、泣いてもいいし、それが普通だろ。判ったような顔をして、笑わなくてもいいだろうが」
 言われた言葉が優しくて、そしてその声がなんだか震えていて、私の心は揺さぶられた。
「笑わなくて、いいから」
 もう一度呟いた隆二の声は、どこか必死で、縋り付くようで、嗚呼、このひとはやっぱり同じなのだ、と思った。きっと、このひとは私の気持ちを自分の物として理解しているのだ、この気持ちを知っているのだ、そう思えた。
 優しい言葉が嬉しくて、辛そうな貴方の言い方が愛しくて、なんだか泣きそうになった。
 少し躊躇ったけれども、結局腕をそっと、隆二の背中に回した。ぐっと力を込める。
「……有難う」
 発した私の声は、あからさまに泣いていて、自分でも恥ずかしかった。
「ん」
 ぶっきらぼうに貴方が頷く。
 こんな風に異性にくっついて、恥ずかしくなかったと言ったら嘘になる。それでも、この手を離すつもりはなかった。もしかしたら、貴方に対してとても失礼な言い方になるかもしれないけれども。貴方は、私が私自身の力で、私として、一条葵の予備ではなくただの一条茜として、手に入れた唯一の存在だから。
 離れたくなかった。
 隆二の方も手を離すことはなく、どれだけそうしていただろうか。
「……茜」
 小さく名前を呼ばれて、
「あ、御免なさい」
 少し体を離して顔をあげた。貴方が何も言わないのをいいことに、長いこと甘えてしまった、そう思って。貴方が途方に暮れて名前を呼んできたのだ、と思って。
 でも、違った。
「……隆二?」
 隆二はなんだか目を細めて私を見ると、私の頬を驚く程優しい手つきで撫でた。
 嗚呼、私は、この人の事が好きだ。
 その瞬間、理屈ではなくそう思った。
 ひととして、異性として、好きだ。
 だから、貴方の顔が近づいてきても、私は避けようとは思わず、寧ろすすんで目を閉じた。
 一瞬、一条の事が頭を過ったけれども、それは貴方を拒む理由にはならなかった。
 同じように貴方が私を好いてくれているのが判って、それなのに拒むことはないと思った。
 貴方と共にいることは、私の人生において唯一の、一条への反抗だ。
 唇が触れて、離れて、貴方が少しだけ微笑んでいて、それでもう満足だった。
 また貴方に抱きつく。
 私の心臓は、どくどくっどく、と大きな音をたてていた。我ながら心配になるぐらい。
 けれども、耳をつけている貴方の胸からは何の音もしなかった。嗚呼、これが、生きていないということなのか、と妙に冷たい貴方の手を感じながら思った。
 でも、そんなこと関係なかった。
 私は貴方を愛していて、貴方と暮らす事を、選んだのだ。