「昨日は、ありがとうございました」
 翌日、教室の前の方にいた椿姫に声をかけた。
 彼女はすこしきょとん、っとした顔をして、
「……ああ」
 ゆっくり頷いた。
「ご丁寧にどうも」
 そうしてちょっと笑う。
「わざわざよかったのに」
「そういうわけには」
「真面目ねー、さすが、ミス・ローヤー」
 揶揄するような言い方に、ほんの少しばかりかちんっとくる。でも、それを努めて顔に出さないようにする。
「設楽桜子です」
 それでも名前だけは訂正した。
「うん、知ってる」
 知っているなら名前で呼べばいいのに。
 そう思ったのが顔に出てしまったのだろうか。
「ミス・ローヤーは嫌だ? 名前で呼んだ方がいい?」
 わざわざ、そう問われた。
「ええ、まあ」
「ふーん、じゃあ」
 そうして彼女は長い睫毛を一度伏せると、笑った。
「桜ね」
 子ぐらい省略せずに言えばいいのに。
 なんと返したらいいものか迷っていると、彼女はそれを承諾と受け取ったらしい。
「うん、よろしく桜」
 念をおすように言われた。そう言われると、私に返す言葉はない。
「はい」
 何をよろしくなのかわからないまま頷く。
「あたしのことは、佐藤でもシュガーでも椿でも椿姫でも、お好きなように呼んでね」
 シュガーってなに。砂糖? そして椿姫でもいいの?
「椿姫、でもいいんですか?」
 思わず問いかけると、
「何が駄目なの?」
 驚いたような顔を椿はした。
「だって、渾名でしょう? 渾名は愛されてる証拠よ。そうでしょう? ミス・ローヤーの桜」
 そうだろうか。ミス・ローヤーは愛されている証拠ではなく、ただの嫌がらせではないだろうか。
「ま、椿姫って呼んでる連中の、一体どれほどが椿姫のあらすじを知ってるのか、っていう気はするけれども」
 そうして彼女は飄々と肩をすくめる。袖口のレースが揺れる。
 椿姫はやはり椿姫だった。彼女が何を考えているのかが、まったくわからない。
 この場を立ち去るタイミングがつかめないでいると、
「あ、先生来ちゃった」
 まだ荷物も抱えたままの私は、どこに座ろうか教室を見回し、
「座れば、ここ?」
 そんな私に椿姫が自分の隣の席を指さした。
 躊躇う。
 彼女の隣に座って授業を受けるなんてそんなこと、私は私に課せられない気がした。
 けれども、
「はーい、はじめるよー」
 先生の暢気な声が、私から選択肢を奪う。
 しぶしぶ私は椿姫の隣に座った。
 椿姫は楽しそうに、猫みたいに笑う。それから逃れるように、私は目の前の教科書と黒板にのめり込んだ。
 視界の片隅で黒い影が動く。ちらり、と見ると椿姫が机につっぷして寝る体勢をとろうとしているところだった。まだ始まったばかりなのに、早過ぎるだろう。
 一つ、ため息をつく。
 どうして私はこんな不真面目な人の隣で授業を受けているのだろう。
 そして、
「はいじゃあ、小テストねー」
 その言葉と同時に椿姫はゆっくりと身を起こす。そうして出された小テストを、誰よりも、私よりも早く解くと、提出し教室を出て行った。
 それが当てずっぽうの答えじゃないことを私は知っている。彼女の小テストや期末テストはよく模範答案として配られるからだ。ほぼ満点に近い答案を、それに及ばない自分の答案と見比べ、破りたい衝動にかられたことは一度や二度じゃない。
 あんな風に、授業に対して不真面目な彼女に、私は勝てない。

 席を立とうとして気がついた。
 椿姫が座っていた席に、カーディガンの忘物があった。その黒くてフリフリしていて、プードルの刺繍なんかがしてあるカーディガンは、賭けてもいいが椿姫のものだ。
 置いて行こうか。一瞬悩む。
 椿姫と積極的に関わりたいとは、お世辞にも思っていなかった。
 しかし、気づいてしまったものをわざわざ置いておくのも、良心が咎める。
 でも私は彼女の連絡先を知らない。別に知りたくもない。今日はこのあとかぶっている授業もないし、彼女を探すために広い構内をうろうろする気も起きない。
 誰か彼女と仲のいい人に託そうか。そう思ったが、誰が彼女と仲がいいのかがわからない。誰か彼女と仲がいいのかがわからない。
「桜子さん」
 名前を呼ばれる。彼の独特の呼び方で。
「さっきどうしたの? 珍しいじゃん、椿姫と一緒なんて。びっくりした」
「なりゆきで」
「なりゆきなんだ」
 そうして志田君が笑う。
 ああ、渡りに船とはこのことだ。構内で顔の広い彼のことだから、椿姫にこれを返すことぐらい余裕だろう。
「あの、志田君」
「うん?」
「これ、多分、佐藤さんの忘物だと思うんだけれども」
 カーディガンを見せる。
 彼はそのフリフリなカーディガンを一瞥すると、
「うん、まぎれもなく椿姫の忘物だね」
 断言した。やはり、そうよね。
「私、彼女の連絡先も知らないし。誰かこのあと、椿姫に会う人とか、わからない?」
「んー」
 彼は少し考えるような間を持った後、
「椿姫はこの後ゼミじゃないかなー。俺、渡しとくよ」
 そうしてカーディガンを彼が受け取る。
「でも、志田君ゼミ違うよね?」
「そうだけど、教室隣だし。椿姫と同じゼミの知り合いもいるけど、その、なんていうか。椿姫も桜子さんに負けず劣らず、馴染んでないっていうか話しかけにくいみたいで。お願いしても断られる気がする」
 そうして彼は困ったように笑う。
「話してみればいい子なんだけどね、椿姫も」
「……志田君、仲いいの?」
「まあ、普通?」
 なんとなく、すっきりしない。そのカーディガンのように黒い物が私の胸を過る。
 確かに志田君は、あまり大学に馴染めていない私にも、分け隔てなく接してくれている。
 けれども、それは私だから、だと思っていた。同じ高校で、何度も話していた私だから、だと。
 けれども彼は、高校も違う、大学で初めて会って、皆に距離を置かれている椿姫にも同じように話しかけているらしい。私への対応と、同じように。
 それがなんだか、釈然としない。
「……佐藤さんの教室ってどこ? 悪いから、私が届けるよ」
「え、いいよー、別に隣の教室だしー」
「でも」
 椿姫と積極的に関わりたくはなかった。けれども、彼女が志田君と話をするのはもっと嫌だった。
 あんなに不真面目で、その癖勉強だけは出来て、私からトップの座を奪っておきながら、さらに志田君まで奪おうとするのだろうか。
 そんな思いが一瞬、胸を過り、私を突き動かした。
 すぐに後悔したけれども。
 だって、志田君は私の物ではないし、私はもう志田君のことは好きでもなんでもないのに。子どもっぽい独占欲だ。愚かしい。
 けれども、
「そっか、じゃあお願い」
 志田君はそんな私の胸の内を知ってか知らずか、カーディガンを再び返して来た。
「桜子さん、椿姫と仲良くなりたいの?」
 そうしてこともあろうかそう言った。
「何を……」
 思わず言葉を失う。
 どうして私があんな人と仲良くしなければならないのか。
「あれ、違うの? せっかくの機会だからカーディガン返したいのかと思った」
 きょとん、とされる。
「……そういうわけじゃ、ありませんけど。先日、お世話になったので」
 あまり否定すると墓穴を掘りそうだったので、そう返す。
「あはは、よくわかんないけど、桜子さんは真面目だねー」
 もう何度も、色々な人から言われて来た真面目、という言葉。でも、志田君の言葉はここでは終わらなかった。
「でも、それが桜子さんのいいところだよね」
 彼は屈託なくそういうと、じゃあまたね、と立ち去った。
 志田君のことはよくわからない。
 私は熱を逃がすように小さく息を吐く。
 志田君に対する自分の気持ちがよくわからない。
 彼は未だに、風のように私の心を攫って行く。太陽のように私の心に一つの熱量を与えて、去って行く。
 それが桜子さんのいいところだよね。
 当たり前のように言われた言葉が、私の心を乱す。
 私は彼のことを、どう思っているのだろうか。どう思っていれば、正解なのだろうか。